旧イザーク王国領南部、東方遠征軍野営地。
「お久しぶりでございます、宰相閣下」
深夜、フリージ公レプトールは自分の幕舎に珍客を迎えていた。
「まさか、ヴェルトマー公からの使者が貴公とはな」
その珍客の名をアイーダ。
ヴェルトマー公アルヴィスの右腕と謳われている。
人材豊富なグランベル王国と言えど、女性の将軍と言う存在は極めて珍しい。
しかも、当主アルヴィス自身はバーハラ王家の近衛軍指揮官の任に就いているので、ヴェルトマー公家の軍事面は全て留守を預かる彼女に任されていると言っても過言ではない。
遠征中、レプトールは何度もヴェルトマー家と折衝を続けていたが、こんな大物が使者として訪れたのは初めてである。
「当主アルヴィスの代理として参りました」
そうかそうか、とレプトールは満足気に肯いた。
昨今の王党派の勢力拡大を危惧したレプトールは、密かに中立勢力を抱き込むべく工作を続けていた。
その内の一つであるヴェルトマー公家が、アイーダ将軍ほどの人材を使者として遣して来たのは、承諾の意を表しているに他ならないからである。
「グランベルの栄光を守る為に、ヴェルトマー家が起ち上がってくれるのは実に有り難い。礼を言うぞ」
「ブルーム公子様との縁もございますれば、無下にはできませぬ」
レプトールはもう一度肯いた。
フリージ家は、ヴェルトマー家に名を連ねるヒルダを長子ブルームの妻として迎えていた。
これは、アルヴィスの資質からしてヴェルトマー家隆盛の時代が近い将来に必ず来る、と見込んだレプトールによる政略である。
それが非常に巧い具合に機能してくれたのだ。
「よしよし、ヴェルトマー家が付いてくれればバイロンも恐るるに足らん。ヴェルトマー公にはよしなに伝えておいてくれ」
現在、東方遠征軍はイザーク遠征が完遂して本国に凱旋中である。だから凱旋するまでの僅かな期間しかないとは言え、本国での政治工作を反王党派が独占できるのは非常に大きい。
本国に残っている中立勢力の価値はそれだけ高いのである。
だが、アイーダの返答はそれを否定するものだった。
「閣下、それでも我らはシアルフィ公には勝てませぬ」
「どう言う事だ……?」
権謀術数においては大陸で右に出る者はいないレプトールである。
ヴェルトマー家が味方に付いた現時点において、レプトールが弾き出した勝算は九割を越えていた。
だが、ヴェルトマー家の右腕はそれを真っ向から完全否定したのである。
「シアルフィ公家に新たな子が産まれた、と言う話を聞き及んだ事はございましょう?」
「バイロンの子倅めの子だったな、確かに聞いているが……」
それがどうした、とレプトールは胸の内で続けた。
我々がバイロンに勝てない事と、話題の関連性が全く無い。
だが、アイーダは構わずに続けた。
「ヴェルトマー公家先代当主ヴィクトル様の妻である、シギュン様を憶えていらっしゃいますか?」
「……憶えている」
グランベル六公爵家の当主が、何処の馬の骨とも分からぬ娘を妻に迎えたのだ、忘れる筈が無い。
確かにそれだけの美貌ではあったが、とレプトールは内心で付け加えた。
「シギュン様はアルヴィス様を出産なされた後、ヴィクトル様と疎遠になられました。そして孤独のシギュン様に、クルト殿下のお手が付かれました」
「……それも憶えている」
いかに疎遠な夫婦関係だったとは言え、王太子が家臣の妻を奪ったのだ。騒動にならない筈が無い。
挙げ句の果てに、直後にヴィクトル公が毒殺されると言う大事件が起こった。
その犯人が誰なのかは、残りの五公爵にさえ明らかにされなかった。
しかし、明らかになっていないと言う事から鑑みれば、犯人の特定は極めて容易ではあったのだが。
とにかく、この醜聞が漏れれば、王室の権威は完全に地に墜ちる事になる。
レプトールは、密通に対する怨嗟の声を綴った内容のヴィクトルの遺書を偽造し、妻の裏切りに対する報復の自殺と見せかける事にした。
それと平行して、王太子クルトに対しシギュンを手放すように懸命に説得した。
クルトは渋々それを承諾し、シギュンは故郷のヴェルダンへと追放された。
さて、詩文家としての才能にも恵まれていたレプトールの工作は完全に成功した。
グランベル王国史上、最低最悪の醜聞となる筈だったこの事件は、宮廷内における一つの悲劇の恋物語に形を変え、親しまれながら語り継がれる様になった。
レプトールは翌年、その功が――表面に出る事は無かったのだが――認められ、宰相の地位を得る事になる。
だがそれの代償として、新宰相レプトールは王太子からの寵を失った。
シギュンへの未練が燻り続けるクルトは、以前から売り込んで来ていたシアルフィ公バイロンを抱き込み、当てつけの様に反宰相の旗を暗に掲げたのである。
「シギュン様は故郷へと戻られましたが……その時、その御身にはクルト殿下の種が宿っておられたのです。そしてシギュン様は女児を出産なされました。ディアドラ様と名付けられたとか」
「な……!」
レプトールは絶句した。
そう、王太子クルトには他に子がいないのである。
もしもクルトが新たに男子をもうける事無く生涯を閉じた場合、そのディアドラと言う名の王女が戴冠し、グランベル史上初の女王が誕生する事になる。
だが、精霊の森で育っているのだろうディアドラ王女に統治能力がある筈もない。
故に、その夫が共同統治者として国政を司る事になる。
そして、二人の間に生まれた子が次の国王となるのだ。
……つまり、そのディアドラ王女を手に入れた者が勝者となるのである。
「そして、その精霊の森があるヴェルダン王国は、シアルフィ公家の領地となりました」
「……!」
何の関連も無いと思っていたが、話はここで繋がった。
シグルドの子は、シアルフィ公バイロンの孫であるのと同時に、グランベル王太子クルトの孫でもあるのだ。
「天はバイロンに味方したのか……」
東方遠征の留守を狙ったヴェルダン王国の侵入。
ユングヴィ公女エーディンの拉致。
もしもそれらが無ければ、バイロンの子倅めがヴェルダンに足を踏み入れる事など無かったのに。
アイーダはレプトールの落胆を制するように、三度目となる唐突な質問を浴びせた。
「一個軍団のみでヴェルダン・アグストリアを打ち破るほどの指揮能力を有するシグルド公子が、何故、蛮族にエーディン公女の拉致を許してしまったのか、お考えになられた事はありませんか?」
「……」
原因が援軍到着の遅延であるのには間違いはない。
だが、その遅延の理由に付いては今まで取り沙汰されていなかった。
「これは仮説に過ぎませぬが、もしもシアルフィ公家がディアドラ様の存在を知っていたとしたら……筋が通りませぬか?」
――王女ディアドラが住む、精霊の森のあるヴェルダン王国領に踏み込む口実を作る為、故意に援軍到着を遅延させてエーディン公女を拉致させた……。
「さらに、本国の命令を無視して逆侵攻を開始した事が、この仮説を補強しています」
――アグストリアから侵攻される危険性を顧みずにヴェルダン逆侵攻を敢行したのは、その危険性を天秤に掛けても揺るがないだけの旨味があった故……。
「以上の事から推測したところ、イザークへの大遠征そのものにも関連があると思われます」
――これを実行に移す為には、グランベルと関係が良好な筈のヴェルダン王国に侵入させなければならない。その為には、主力が遠征でもして不在である必要がある。そしてその場所は、対角線上の反対側に位置するイザーク王国が最も望ましい……。
「我々は……バイロンに完全に踊らされていたのか……」
遠征中、互いの軍団を監視し牽制し合っていたのは単なる目くらましに過ぎず、その裏では誰も気が付かないうちに決着が付いてしまっていたのである。
「これでもしもクルト殿下が“お隠れ”になられるような事があれば、自動的にシアルフィ朝グランベル王国の誕生となりましょう」
「……」
アイーダは口にしなかったが、何を言わんとしたのかは明白である。
もしもクルト王子に男子が誕生してしまえば、バイロンの勝利の可能性は激減する。
つまり、バイロンにとってはそれまでにクルト王子に亡き者になって貰う必要があるのだ。
「……奴ならやりかねん」
疎んじられているとは言え、大逆罪を犯そうなどと考えた事は、レプトールは一度たりとて無い。
だが、それはレプトールの感性であり、他人――特にバイロン――のそれもまたそうであるとは限らないのだ。
「……だが、殿下は忠言を聞き入れて下さらぬだろう」
現状でレプトールに残された勝算は、王太子クルトがそれまでに男子をもうける事のみである。
だが、最もその身の近くにいるのがバイロンなのだ。いかにレプトールが身を案じて忠告しても、クルト王子は信じてくれないだろう。
誰しも、自分が最も信頼を寄せる相手に弑されるとは考えないであろうから。
「終わった……」
レプトールは机に両拳を打ち付けた。
レプトール自身の勝算、いやグランベル王国の安泰の可能性は完全に潰えたのだ。
その先にあるのは、敵対勢力の大粛清と絶対的な独裁政治である。
「バイロンとシグルドが死にでもしない限りは……」
だが、表面上はバイロンに課すべき罪状は存在しない。
バーハラ王家が揃って親バイロンである以上、いかなる告発も効果が無いのは目に見えている。
だが、アイーダは自身有り気にこう言い放った。
「勝算はございます。私は、それを伝える為に当主アルヴィスより遣わされました」
確かに、当事者であるレプトールよりも中立を保っているアルヴィスの方が視野は広い。レプトールに見えない事も、アルヴィスには見えているのだろう。
――だが、これを打開し得るだけの方法があるのか?
「お耳を……どこに諜者が潜んでいるか分かりませぬ故」
アイーダが近付き、机越しにレプトールに耳打ちした。
彼女の美麗な口唇が離れた時、レプトールの顔はさらに青ざめていた。
「し、しかし……」
「これでは勝てませぬか?」
「い、いや……」
勝てる。
たった今聞いた、この方法ならば間違いなく勝てる。
だがレプトールは、それを実行に移し得るほど自分が剛胆ではないことを知っていた。
「グランベルの栄光を守り抜く為には、閣下のお力が不可欠なのです」
「……」
レプトールはしばしの間、無言を通した。
判断に迷ったのではなく、実行に移す覚悟を決める為に。

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