アグストリアの諸公達の中で最も保身に気を配るクレメントは、盟主アグスティ王家への忠誠心など全く無かった。
当初、クレメントはこのマッキリーが主戦場になると予測していた。アグストリア諸公連合の王都アグスティへの最短ルート上に位置するからである。
だが、グランベル軍は予想に反してハイライン・アンフォニーと言う西回りのルートを選んだ。
――恐らく、北から回り込んでアグスティ城の背後に出るつもりだろう。
軍備にかけた金が無駄になったが、結果的に無傷で済むのならば安いものだ、と安堵したクレメントは平時と同じ――うら若い側室の待つ閨房で夜を過ごす――毎日に戻っていた。
だが二日前、突如グランベル軍が現れ、マッキリー城を包囲したのである。
国王と同じくグランベル軍は来ない、とばかり思って厭戦気分でいたマッキリーの兵士達では、グランベル軍の猛攻はとても防ぎきれるものではなかった。
丸一日続いた戦闘の末、ついに城門が破られたが、その頃にはもう玉座に国王の姿はなかった。

「陛下、出口でございます」
「う、うむ……」
どの城にも緊急用の脱出路と言うものが存在する。ただ、実際に使用する機会に恵まれる訳でもないので、整備が行き届かないものである。その結果、得てしていざと言う時に使い物にならない事が多い。
だが保身を重視するクレメント王は、自分の安全の為の努力は怠らない人物であった。大陸広しとは言え、自ら避難訓練を行っていた国王は彼一人であろう。
その訓練は無駄にならなかった。さもなくば――先導する近衛兵が一人いるとは言え――脱出はこうまで潤滑に進まなかったであろうから。
脱出路の出口はマッキリー城の北の外れ、王家の墓である。立入禁止区域と言う事もあり、いたって静かだ。マッキリー城からの鬨の声ももう聞こえない。
戦闘は終結したようだ。夜間の為に見えなくとも、翻る旗がどちらのものかは明らかである。
「馬は用意してあるな? よし、夜が明けるまでに北へ向かうぞ」
だが、王城が陥落してもマッキリー王国そのものが滅びた訳ではない。王子や妃達は逃げ遅れたようだが、こうして国王が無事であれば復興は充分に可能である。
アグスティ城まで逃げ切れれば当面の安全は保障される。そして、クレメントにはその自信があった。
今からグランベル軍がマッキリー峡谷の北側を封鎖しても間に合わないからである。
それどころか、今でも城内で見つかる筈の無い国王を探しているのだろう。
「くくっ……」
そう考えると、自然に笑みが零れた。返り血のこびり付いた甲冑姿で家具をひっくり返し、ベッドの下を覗き込んでいるグランベル兵士の姿を想像したところ、実に滑稽だった。
――ドスッ……!
「……?」
含み笑いの最中でもあり、その音の正体が何なのか分からなかった。
辺りを見回してみると、二頭の馬を引いて来た近衛兵がいた。
「おぉ、そうだった早く北に向かわねばな」
こんな所で笑っている場合ではないわい、と歩み寄ろうとした瞬間である。
近衛兵の両手から握っていた手綱が零れ、彼は膝を折って崩れ落ちた。
「陛下、お逃げ下さ……」
一本の手槍を墓標代わりに突き立てたまま、近衛兵はうつ伏せに地に臥した。
先ほどの音の正体は、飛来したこの手槍が近衛兵の背中に突き刺さった音だったのだ。
月光を反ねた刃が闇に浮かび上がった。
「……王家の墓を死に場所に選ぶとは随分と敬虔だな、クレメント」
余裕でも軽口でもない、死神の宣告の様な響きと共に、闇から一騎現れた。
「き、貴様はグランベルの指揮官……何故ここが……!」
この青髪の若い指揮官は攻城戦を指揮していたから、周囲偵察の様な別行動をとっていない。
「……城の構造と周辺の地形を見れば、造作も無い」
若い男は淡々とそう答えた。城内に突入し、玉座に国王の姿が無いのを確認してすぐ馬に飛び乗って、この王家の墓に向かわなければ間に合う筈が無い。彼はそれを実現したのである。
――何とか、この場を……!
しかしこの男から逃げ切る事も、戦って倒す事も恐らく不可能であろう。ならば、方法は一つであろう。
「ま、待て! 敵同士とは言え、話し合って分かり合えない訳でもあるまい!」
保身と安全を旨とするクレメントである。彼は土壇場での舌先三寸には自信があった。
「……素直に助けてくれと言ったらどうだ? どちらにしろ聞いてやらんが」
この若い指揮官がそう答えるのはクレメントの予想通りであった。何はともあれ、会話を続ける事が重要なのである。
「こ、このままアグスティ城に向かっても意味が無いぞ!」
今度はこれに対して言葉での回答は無かった。代わりに剣が振り上げられた。
「エ、エルトシャンがどうなってもいいのか!?」
「エルトシャン……?」
途端に振り下ろそうとした腕が止まった。
「そ、そうだ! か、考えてもみろ、シャガールはきっとエルトシャンを人質にしてアグスティ城に立て籠もるぞ!」
これがクレメントにとっての切り札である。グランベル軍の指揮官はエルトシャンと無二の親友と聞く。そのエルトシャンの生殺与奪の権利を握っているのは、こちら側なのだ。
「わ、わしを助けてくれたら、エルトシャンを解放するようにシャガールに言ってやる! な、悪い条件ではないだろう? そ、その理由でアグストリアに攻め込んだのだろう!? その為にノディオンと手を結んだのだろう!?」
「……あぁ、そうだったな」
馬上の若い指揮官の剣先がさらに降りた。それを見たクレメントは実際にも右手で胸を撫で下ろした。
――た、助かった……。
だが降りた剣先は、そのままクレメントの眉間に向けられた。
「な……!」
「そうだった……確かに、その理由にして攻め込んだのだったな」
“その理由で攻め込んだ”と“その理由にして攻め込んだ”では意味は大きく異なる。途端に、それを理解したクレメントの顔から血の気が引いた。
「で、ではグランベルは……!」
「……気付いた褒美だ、死ね」

Next Index