「美しい……あっ、これは失礼。実は私はイザークのシャナン王子というものだが、あなたがあまりに美しいのでつい声をかけてしまった。ところでもしよければディナーでも一緒にどうかな? 美味い店を知っているのだが……」
 悲劇の発端はこの台詞であった。
 この地方は比較的ましな耕地であり農業を営む者が多い……が、その一方で帝国との国境線に近いという利点を生かした商売で身銭を稼ぐ者も少なくなかった。
 そもそも、貧しいトラキアのさらに郊外の農村で美味いディナーを食べられるレストランが存在していること自体が異常である。成り立つはずがない商売が成り立つ理由は、この店がトラキアの外から資金を得ているからに他ならない。
 トラキアの民にとって働いて食べていけないのなら体で稼ぐしかない。男は傭兵となり世界に旅立ち、女は春を売ることで金を稼ぐのだ。どちらにしても貧しい者同士のトラキア国民相手では商売にならないため、国外の顧客を探さねばならないのだ。
 これを買い付けるのが主にミレトス地方の貴族や商人たちであった。傭兵はギルドの斡旋で雇うことができるが、個人で商売している女を買うには自分で足を運ぶしかない。単に女を抱きたいだけならばミレトスの色街で充分だが、どこの世にも好事家はいるものである。救いようのない話だが、危険を冒してでも金貨をチラつかせることで女を卑屈に服従させたがる困った輩は決して少なくはないのである。
 この村のレストランの運営は、そういったミレトスの好事家と、春を売るトラキア女性との接点として成り立っているのである。

 そしてシャナン王子と名乗った男に女がついていったのは当然の話だった。
 娼館としての機能を果たすレストランに誘われたのだから、女にとってみればビジネスのオファーと同じである。王子であれば金払いもいいだろうし、しかも美麗な青年からの誘いであれば断る理由は何一つ無いと言ってもいいだろう。万が一シャナン王子に見初められれば将来の王妃となるわけだから飛びつくのも仕方が無い話であった。世界の知識が無いため、イザーク王国という国がもう存在しないことも、シャナン王子が解放軍に参加していることも知らなかったのだ。
 甘い言葉に多くの女がころりと騙されてついていくと、待ち受けていたのはやわらかなベッドではなく不埒な笑みを浮かべる男の集団であった。
 こんな僻地にまで女を買いに来るわけだから、ミレトスでは迂闊に実行できない特殊な性癖を持った者は多い。そのためわざわざ野外での行為を求める男もいる……という商売上の知識があったことと、あのレストランを使ったビジネスのルールを踏みにじるような流れ者など来ないと思い込んでいたトラキアの閉鎖的な一面が、女達の警戒心を奪っていたのだろう。とにかく後悔してももう遅かった。
 シャナン王子を名乗る青年に率いられた一党は一通り満足すると続いてレストランに押し入り、本来の用途のために来店していた運の悪いミレトス商人を斬り殺して金品を強奪した。逃げようとする従業員も始末すると、さらなる収奪を目指して店から飛び出した。金を持っていれば殺して奪い、持っていなければ享楽のために派手に殺して家屋に火を放った。女がいれば見境無く犯し、奴隷として売る価値がある女は連れて帰るために縄に繋いだ。
「王子ーっ、南から軍隊が来やす!」
「よーし引き上げだ!」
 充分な成果を挙げたところで解放軍が現れた。もともと解放軍とトラキア王国軍が戦争している火事場を狙っての所業であるから、対応は早かった。戦利品の女を馬に乗せると素早く村を後にした。

 一方で、この村から上がった火の手を見て南下してきた帝国軍はシャナン王子(?)の集団と鉢合わせすることはなかった。運命のいたずらか、彼らが帝国軍に見つかる直前に別の集団が現れて接触を試みたために隠れる時間が与えられたのだ……隠れているところを別の集団に見つかることになるのだが。
「お願いです、この人たちを助けてください!」
 助ける義務も義理も帝国軍にはなかった。ムーサーが将軍ではなく悪徳商人であれば奴隷として売り飛ばすために保護する可能性はあるが、これから戦場に向かう騎士である。非戦闘員を抱え込むわけにはいかない。騎士ならば民を守らなければならないが、それは個人の問題である。難民を保護するのは政治的な問題であって騎士の領分ではないのだ。
「……諸君らを助けたいのはやまやまだが今は非常時だ。すまないが自分の身は自分で守ってほしい」
 ムーサーはこう答えるしかなかった。彼はシアルフィから派遣された将軍であってペルルーク城の責任者ではない。配下の騎士を数名つけて後送させるだけならできるが、それをペルルーク城が受け入れるかどうかは保証できないのだ。この中に反乱軍(解放軍)の密偵が紛れ込んでいる可能性を否定できない以上、ムーサー配下の騎士が付いていたとしても城門を開けるのは人が好いと言うしかないだろう。
「あの、これを……」
 何故か女物の服に身を包んだリーダー格の少年が、ムーサーの拒否の言にうなだれる代わりにドレスにつけていたブローチを剥がして差し出してきた。金銭欲が強くないムーサーは宝石で動くわけではないが、貧しいトラキアの民がこんな宝石を所持していることが通常では考えられない。
 この少年(?)がただの難民ではないのは間違いない。少なくともトラキアでの上流階級の人間であるのは確かだろう。
 そして恐らく単に身分が高いだけでもない。トラキア王国は貧しい国だが、王侯貴族が民から搾取しているという話は聞いたことがなかった。閉鎖的な国なため実情については想像の域を出ないが、もしも王だけが贅沢をしているならばそのトラバント王自らが傭兵となったりはしないだろう。この国は上から下まで等しく貧しいのだ。そんな国の人間ならば、こんな高価な宝石を持ち歩けるはずがない。
「天秤……?」
 ムーサーはそのブローチに天秤の紋章が刻まれているのを発見した。この少年が買収のためにこの高価な品を差し出したのでなければ、この紋章にこそ意味があるのだろう。
 天秤の紋章といえば今は亡きクロノス侯の家紋が有名だ。かつてはミレトス地方で非常に力のある貴族だったが、いわゆる皇帝金貨事件で当主がロプト教に粛清され、そのまま領地没収された家柄である。
 つまりこの少年は離散した一門の生き残りということになる。
 本来ならばそんな身分など何ら意味がない。高貴な家系の生まれだと主張しても、その家が存在しないのであれば血統は価値にならない。亡国の王子と違って害は無いのかもしれないが、帝国の現状を考えればロプト教会に取り潰された家門が領地と名誉を回復する可能性はゼロと言っていいだろう。
 ゆえにこの紋章に付帯価値が無い……はずなのであるが、シャルローの幸運は出会った相手がムーサーであることだった。
「……いいだろう。このまま北へ真っ直ぐ安全なところで待っていろ、後で迎えに行く」
「あ……ありがとうございますっ!」
 ロプト教に追われた生き残りを保護すれば自身の死活問題となるため、普通の人間ならば受け入れることはしない。だが、ムーサーはシアルフィ所属の皇帝派の人間であった。皇帝の力を危険視した皇太子派は、ヴェルトマー譜代の家臣を皇帝からできるだけ遠ざけるように手を打っていたが、ムーサーは出身がシレジアなため皇帝子飼いの将軍と認定されなかったのだ。
 深々と頭を下げたシャルローには知るはずのない話だが、これが皇帝が皇太子派に対し明確に反抗した最初のエピソードとなった。
 ただ、皇帝にとっては外交問題であるから迂闊なことはできないはずである。皇帝と皇太子の力関係を考えれば警戒心を煽る真似はすべきではないし、皇帝本人ならまだしもムーサーが独断で明示していいわけがない。それでもあえて実行したのは、ムーサー自体が単なる援軍ではなく、皇帝から密命を受けた反抗作戦の一環だからであった。
 難民一行を見送ると南への進撃を開始した。ムーサーの目的は援軍ではなく、シャルローへの言葉通りすぐ兵を返すためのものであった。

「北から騎馬多数! ……て、帝国軍です!」
 村の鎮撫、シャルロー以下難民の追撃、略奪しているシャナン王子(?)の捜索及び本物のシャナン王子との連絡……等、解放軍はこの農村群で軽い混乱状態に陥っていており、そこを帝国正規軍に押し寄せられたため迎撃態勢を整えるのに時間がかかった。オイフェ不在が最も響いた瞬間であろう。
「おいテメぇらどきやがれっ! 俺様が相手してやるぜ!」
 ……意外にも、解放軍最大の危機を救ったのはリーフ王子の軍であった。解放軍のコントロールから外れていたのが幸いしたのか、対応が遅れたセリスの指揮よりも先に動くことができたのだ。とはいえ身を挺して敵軍を止めるようなタイプではないだけに意外極まりなかった。
「敵……退却します」
 指揮官が慎重な性格なのか、リーフ軍をすぐには抜けないと判断したのか、最初から様子見のつもりだったのか帝国軍の撤収も早かった。軍を返すとまさしく風のようにペルルーク城に引き返して行った。リーフ軍も追撃を実行したがすぐ戻ってきた。
 これを受けてセリスは農村群に展開している全部隊に対し、ルテキア城への引き上げを命じた。村の慰撫も難民の追撃も略奪の犯人探しも何一つ解決していなかったが、状況を落ち着かせるにはもうこれしか無かったのだ。セリスはこれらを扱いながら帝国軍まで捌くことはできないと認めるしかなかったのである。
 村の慰撫はレイリアでなければやはり無理なようだが、帝国軍と対峙しているのなら迂闊には出せない。
 追撃予定だった難民は北へ逃れたという報が入っている。帝国が彼らをどうするのかは判断つかないが、こうなった以上はペルルーク城を攻め落とすぐらいしないと追いつけない。
 村を略奪したのが本当にシャナン王子なのかあるいはシャナンを騙る偽者なのかは確定していない。帝国軍来襲に対しリーフ軍が壁になった格好になりそれより先に進める部隊がいなかったからであり、捜索は打ち切られた。とにかく犯人はまだ見つかっていないが、略奪したのがシャナン王子を名乗った事実だけは変わらないのである。
 
 ……ただ、最後の項目については真実を知っている者たちがいたが、その情報がセリスに届けられることはなかった。
「マジで生きてたのかよ、ゼッテー野垂れ死んでると思ってたのになぁ」
「生者必滅とは申しますが……いやはや、殺しても死なない御仁とは存在するものですな」
 旗揚げしたリーフ軍が転戦していた頃の話である。彼らがターラ市に立ち寄ると、そこで賓客となっていた男がいた。彼はシャナン王子を名乗っており、ソードマスターとしての腕を見込まれて逗留していた。彼はターラでさんざん女を食い散らかした後、正体が見破られそうになると戦のどさくさに紛れて逃亡した。身を隠すためかしばらくリーフ軍に付いて来ていたようだが、気が付くと姿を消していた。彼の安否を気にする者もいなく忘れ去られていたが、まさか盗賊のリーダーになっていた上に同じネタで荒らし回っているとまでは誰も考えなかった。
「……」
「おいおい、そんな顔すんなよ。その盾やるから、な?」
 アグストリアの騎士の家に生まれた少女は、無辜の民を殺した輩を見逃したことを悔いていたが、主命には逆らえなかった。主君の命令に背くことは最大の罪であると、主君の命令に反するれば、それによって誰かが落とさなくてもいい命を落とすことになると父親の死から学んでいたからだ。
 少女が盾を抱きかかえ退出すると、部屋にはリーフと悪相の軍師だけが残った。細民王子は、注意深く周りを観察した上で小声で真相を確かめた。
「ンで、逃がしてどうしようってンだ?」
 シャナン王子が略奪しているという話を聞いて真相を想像できたのは顔見知りだったリーフ軍だけであった。リーフ王子は解放軍のために身を挺して帝国軍と相対したのではなく、略奪犯を他の部隊に確保させないために行く手を遮る意味で先頭に立ったのだ。そうして追撃するふりをして旧知と接触すると、略奪戦利品の高価そうな盾を譲ってもらうことを条件にわざと見逃したのである。
「真犯人が見つからない限り、略奪犯はシャナン王子……イザーク王家の鳴動はレヴィン殿を揺さぶり、我らから注意が逸れましょう。……レヴィン殿には北トラキア奪還で大きな借りがございますが、そろそろ手を切る頃と拙僧は考えます」

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