「……」
 投降したハンニバルを連れてルテキア城に入城したオイフェは、解放軍の現況に愕然とした。
 シャナン(によく似た若い男)によって村が略奪された報は行軍中に聞いていたものの、それがここまで影響を及ぼすものとは思っていなかった。
「いちおう、緘口令は敷いたんだけど」
 "今"に興味が無いセリスであっても困った表情が浮かぶのを防ぎようが無かった。
 本来ならば次のグルティア城へ向けて進撃する予定であったが、事こうなると迂闊に動けない。ルテキア城周辺の政情不安もあるが、北のペルルーク城から帝国軍が侵入して来た事実がある以上、ルテキア城を空にするわけにいかなかった。実際に日が変わっても帝国軍はたびたび侵入と挑発を繰り返しており、解放軍はルテキアに釘付けにされてしまっているのだ。
 進撃ができないのならば待機ということになるが、戦い続けてきた解放軍兵士たちにとって何もしない日々というものは決して心と体が休まるものではなかった。
 人間、休息は必要である……が、それは心身ともにリフレッシュできる状況があってこそ成り立つものである。民衆に歓迎されていない上に今回の一件がどう伝わってくるか分からないため城内の空気は張り詰めており、かと言って街に出て羽を伸ばそうとしても貧しいトラキア王国内では娯楽などほとんど無かった。
 何もできないままストレスだけが溜まっていく状況をどう打開するか……到着早々オイフェは一晩考え込むことになった。

 その夜――
「オイフェ殿、シャナンを処断するといい。それが我々に最善だしバルムンクも喜ぶ」
「なっ……!?」
 ルテキア城に引き揚げた解放軍は状況整理と対応に追われて身動きが取れなくなっていた。
 その中でも事件の重要参考人となるシャナン王子について慎重な判断が求められているわけだが、まさか当事者の従兄妹にあたるラクチェが即座に処刑するように進言してくるとはさすがに思わずオイフェは面食らった。

 処断の可能性自体は決して誤りではない。
 あの略奪がシャナン本人によるものであれば死罪は当然である……が、犯人がシャナン王子を名乗っていたのまでは間違いないが、実際にシャナンであるのかは分からない。あの村に赴くように命令を出したわけではないが、命じていないから違うという立証にはならない。
 シャナンがそういう悪逆非道に走る人間か否かに争点を絞るのならば、決して悪人ではないが心当たりがないわけでもなかった。不運と不幸を背負い込んだシャナンが暴走しても決しておかしくはなかったのだ。
 彼はイザークの王子でありながらバルムンク捜索のため祖国の解放戦争に参加できなかった。神剣こそ見つかったものの、その剣を祖国のために振るうことができなかったのだ。
 剣士として非常に優秀であったが、それでも従兄妹のラクチェとは才能に天地の開きがあった。大陸最強のソードマスターだった母アイラから剣才の全てを受け継いだラクチェは、日頃から神剣バルムンクは自分にこそ相応しいと豪語しており、シャナンは肩身の狭い日々を送っていた。
 王子としても剣士としても優秀でありながら存在意義が薄いシャナンだが、女性と縁がないわけではなかった……が、イード砂漠で出会った頭の弱い盗賊二人組に付きまとわれるのが女運が良いとは言い難かった。そのため気晴らしで女を犯したくなっても無理は無いと言えなくもなかった。
 また兵士達にも疑うべき点があった。帝国軍ともロプト教とも違うトラキア王国との戦争で兵士達に不平不満が広がっている事実は報告を受けていたし、山奥の国で何をしようが外の世界に漏れにくいため、解放軍の使命感が蛮行への抑止力として働きにくい点も挙げられるだろう。
 つまりシャナン個人にしても彼の兵士にしても、略奪に走ってしまう要素はあったのである。それだけで本物のシャナンによる犯行だと認定できるものではなかったが、全否定もできなかったのだ。

 一方で、偽シャナンによる犯行だったとしても、真実は事実と同一ではない。
 たとえ真実ではシャナン以外によるものであっても、事実では『シャナン王子を名乗る青年とその一党』による犯行であることは間違いないのだ。被害者の証言ではシャナン王子を名乗った男は『長い黒髪の美麗な青年』でありシャナン本人と共通するため、この事実に信憑性があるのが困りものなのである。
 ユグドラル大陸に住む人間は肌の色はほぼ共通だが髪の色は多彩である。そのため髪の色が同じというのは重要な要素になる。その中でも黒い髪は特にイザーク人に多く見られ、イザーク王子のシャナンを表す符合として高い信頼性がある。この現象はイード砂漠によって他国と隔たれているイザーク地方は血統的交流が少ないためであるが、この偶然もまた本当にシャナンは不運な男だと嘆くしかなかった。
 真実はどうあれ、否定できる材料がないのが問題である。シャナン王子の仕業という噂は信じられる可能性は低くない。バルムンクやオードの聖痕の有無を確かめられれば疑いは晴れるが、山奥のトラキアに住む民が詳しく知っているわけが無い。鑑定眼も知識も無い彼女達がどういう剣を腰に下げていたとかどこにどういう痣があったかなど覚えているはずがないのだ。
 潔白を証明するためには、真犯人を捕まえるしかない……が、帝国軍の介入のため取り逃がしてしまった。帝国軍が捕捉した可能性があるが問い合わせや引渡しを要求できる間柄ではない。もしそんな事実を漏らせば解放軍の評判を下げるために利用されるに決まっているからだ。
 以上から、シャナン王子本人の犯行であってもなくても犯人はシャナンだという結論が存在するのである。そしてそれは解放軍が略奪を働いたことに繋がってしまうのだ。
 
 これを受けてどうすべきか。
 世界を救う解放軍が民に略奪を働いたなど洒落で済む話ではない。帝国とロプト教打倒の旗を掲げている解放軍は、言わば評判と期待だけで運用しているような軍であるから、信用の失墜は致命傷になりかねない。この事実を聞いた民衆が熱狂的支持をしなくなり有力者が協力しなくなるだけで解放軍は崩壊するのである。民衆にとっては帝国とロプト教の圧政に比べれば何が権力を握ってもまだマシかもしれないが、盗賊の親玉に私財を投げ打って援助などするわけがない。
 あくまでシャナンを信じるのならば、セリスの名声に傷が付くのを恐れるのならば、この犯罪は絶対に認めるわけにいかない。真犯人を探して潔白を証明するか、噂自体が否定されるように更なる名声を積み上げるしかない。ただし表面的にはこの姿勢は略奪犯に対して罰を与えないわけであり、解放軍全体の悪評に繋がるため一歩間違えれば最悪の事態も考えられる。
 その逆に、ラクチェが提案してきたようにシャナンを処断してしまう手もある。濡れ衣の可能性が高い上に解放軍が略奪を働いた罪を認めてしまうわけだが、悪評の拡散だけは阻止することができる。民から奪った者はたとえ王子であっても死罪とする厳格な姿勢は、一転して解放軍のイメージアップに繋がる可能性も考えられる。
 支払う代償は戦力の低下とイザーク王家の行く末であろう。彼の部隊を失うのは確かに痛手であるし、犯罪者として処刑された王子を輩出することになるイザーク王家は祖国再建に苦労することだろう。とはいえ、解放軍全体の危機と天秤にかけて考えるならば安い損失と言えるかもしれない。

「その考えは、貴女個人のものですか? それは誰かの入れ知恵では?」
「その通り、さすがの慧眼、我らが命を預けるだけのことはある。……だがシャナンを処断してもらいたいのは私の本心であり嘘偽り無い。私が命を惜しむのは、せいぜい共に戦うスカサハと……あと若干1名程度だ」
 ラクチェは誤魔化さなかった。
 母アイラから才能の全てを受け継いだ大陸最強の剣士は、天賦の才を得る代わりに剣に真っ直ぐ向き合いすぎる生を受けることになったようだ。剣技を磨きより強くなる一方で彼女は自分により相応しい剣を求めるようになっていた。
 ラクチェにとって、神剣バルムンクが自分の手に無いことは不満であると同時に不条理であった。最強の剣は最強の剣士が持つべきであるという価値観にとって、自分よりも弱いシャナンがバルムンクを継承している事実はどうしても納得できることではなかった。
 神器は剣聖オードの聖痕を受け継ぐ者しか手にすることはできない……が、ラクチェにその資格が無いわけでもなかった。母アイラは亡きイザーク王マナナンの娘であるし、父親はイザーク王家の流れを汲んでおり、こと血の濃さで言えばバルムンクを握れてもおかしくはないのだ。
 どうやっても装備できない剣であれば諦めもつくであろうが、自分に資格がある上に自分の方が相応しいとあればなかなか納得できるものではない。
「私闘で倒すのはセリス様や皆に迷惑をかけるが、処断で首を刎ねるのは好しとレヴィン殿に聞いた」
 そんな彼女であるから、オイフェを訪れさせたのがレヴィンであることは隠そうとしなかった。
 どうやらレヴィンはラクチェにバルムンクを手にさせる代わりにイザーク王国にも影響下に及ぼす気のようだ。ラクチェのこの様子ではイザーク王国には興味があるとは思えず、シャナンが死んだならスカサハが王になればいいとしか考えていなさそうだ。これではレヴィンに好きなように操られることがあってもおかしくない。
 もしもイザークがレヴィンの手に落ちればどうなるか。
 イザーク地方はグランベルから見ればイード砂漠を挟んだ向こう側に位置し、容易に手が出せない。そしてシレジアから見れば隣国同士の間柄である。この両国が手を結べばグランベルにとって非常に難しい相手となる。
 アルヴィスのシレジア征服が簡単に済んだのはイザークを抑えていたドズル公家軍が横合いからの侵入を見せていたのが大きい。戦後の対レヴィンを考えると、イザークがどちらと友好的な関係を結ぶかは戦略的に非常に大きな分かれ目となる。もしイザークがシレジアと手を組まれると、グランベルはシレジアへの進攻ルートを失うことになる。アルヴィスのときはノイマン湾を渡ってシレジア南部に上陸したが、これは内戦とシグルド軍参加によってシレジア王国軍が制海権を失っていたからこそできた話である。本来ならば自由に空を駆ける天馬騎士に抑えられた海を身動きできない船で渡る無謀を強いられることになるのだ。
 よって、解放軍の"今"を考えればシャナン処断も手の一つではあるが、"次"まで視野に入れると愚策ということになる。シャナンの命が、というよりバルムンクが動くようなことは絶対に避けなければならない。
 とはいえ、この進言を蹴ればいいかとなると話は難しい。ラクチェのこの性格から考えると、レヴィンの吹聴次第で実力行使に出てもおかしくないからだ。現状、彼女は軍の利益に反することは何らしていないし、オイフェの出す命令も忠実に守っている……が、これは彼女が解放軍に剣を捧げたからこそである。純粋な剣士として剣に反することはしないだろうが、口の達者なレヴィンから解放軍の利益に反しないでシャナンを殺す方法を吹き込まれる危険性は考えられるし、既に進言という第一段階に入っている。
 単純に拒否して不満を残せば、ラクチェはレヴィンに耳を貸すだろう。却下するにしても彼女を納得させなければならない。

「処断するにしても、トラキア内で行っては広く伝わらないでしょう。この件はミレトスに入ってなお事態が継続している場合再考する……よろしいな?」
「なるほど、もっともな話だ。では失礼する」
 シャナンの略奪が風評の問題であるのなら、処断もまた同じである。広まる悪評を全て打ち消すだけ遠くまで伝わらなければならないため田舎で行っても意味がない……屁理屈に近い理論であったが、ラクチェは合点がいったようであり一礼して立ち去っていった。
 ただこれは単なる先送りである。解放軍はミレトス進入を変更することはないのだから、その機会はまた必ずやってくる。それまでに沈静化にしていればいいのだが、甘い希望と言わざるを得ない。
 ただし時間は稼げた。今のうちに沈静化を謀ってもいいし、イザークがレヴィンに傾かないようにスカサハの方に手を打つのもいいだろう。
 そもそも、イザーク解放戦のために戻ってきたシャナンを追い返したのはレヴィンとオイフェが共謀してのものだった。セリス旗揚げの地で解放者の名前が他の人間であってはならないという観点で意見が一致したわけであるが、この時点でもうイザーク王国はシャナン退場後を想定されていたと言っていいやもしれない。

 シャナン個人については当座はそれでいいとして、早急に手を打たなければならないのは解放軍の方である。
 身動きの取れない軍をこのままにしておけば士気も下がるし何の解決にもならない。投降したハンニバル将軍が近隣の村々に赴くと申し出てくれたので快諾してあるが、それで事態が好転するまで待つわけにもいかない。
 問題はペルルークの帝国軍なのだ。風のような素早い用兵で侵入と離脱を繰り返すこの部隊は一筋縄でいかない相手であるとオイフェは見た。帝国からトラキアへの援軍だとして、ルテキア城に攻め込んでくるような相手だとオイフェにとって対処は楽なのであるが、トラキア領内で解放軍と激突するよりも後背を襲う主張だけして戦力を温存するやり方は非常に憎らしい。
 侵入してきたところを叩きたいが、シャナン騒動が起きたルテキア郊外の村々を戦火に巻き込むことはできればしたくない。ルテキア城まで押し寄せる気がなさそうに見えるとは言え、放置すれば政情不安を煽られるし、グルティアへ進撃すれば本当に後背を襲ってくる可能性もある。カパトギアでの戦いと違って、ルテキアからグルティアまでの長い距離を考えると戦力を再び分割するのも上策とは言えない。
 いっそのこと、ペルルーク城を攻めてしまう手もある。要は反対向きに攻めるわけだが、グルティア城の守備戦力を考えるとルテキア奪回を企てるだけの余力は無いだろう。竜騎士による奇襲さえ想定していれば多くの防衛戦力は不要であり背後を突かれる心配は無い。
 だがこれは問題点が2つある。1つはミレトス進入によりラクチェとの約束を迫られることになる。ペルルーク自体はトラキア監視用に建設された砦のようなものであり人口が多いわけではないため、さらに先送りすることは不可能ではないが……。
 もう1つが、オイフェがセリスから託された野望の問題である。シグルドと親子二代で大陸全土を征服するという野望が頓挫する可能性があるのだ。
 解放軍にとって、対トラキア自体は絶対に必要な戦いではなく、あくまで最終目標は帝国の打倒である。トラキア征服を中途半端な状況のままグランベル帝国領ミレトス地方に進入した場合、このあと軍を返してトラキア城を目指す行軍が可能だろうか? 国土の半分と宿将ハンニバルと地上軍の多くを失ったトラキア王国に大規模な戦争継続能力はほとんど残っておらず、それなりの守備兵力を残しておけばもう脅威と呼べる存在ではない。懸念されていた補給線の問題も、ペルルークを奪取すれば北トラキア地方メルゲンからのルートが繋がるので支障は無い。
 何よりも、いったんグランベル帝国内に進入しておいて踵を返すような真似が解放軍に可能かという使命感に関わる問題が一番大きい。解放軍を名乗って帝国領に現れておきながら姿を消すのは、解放を待ち望む民の声に応えているとは言えないだろう。目的の地に足を踏み入れたら解放軍将兵の気持ちも切り替わるだろうし、事こうなれば前に進むしかなくなる。
 以上から、トラキアと休戦してミレトスに攻め込むのはおそらく正しい策であろう……が、セリスが承諾するかどうかが問題である。"次"のために"今"の勝ち方にこだわるセリスが、未征服の地を残したまま帝国を打倒する提案に首を縦に振るだろうか。滅ぼすだけなら新生グランベル王国の王として今一度トラキア攻めればいいのだが、セリスの言い方を考えると父と同じ規模の軍で達成したいのだろう。

「また、頼ることになるのか……」
 主に野心を捨てろと進言するのは家臣の本分ではない。間違っていることならば身を張って諌めることもあるが、セリスの野望は決して誤りではないし、顔も覚えていないであろう父シグルドの無念を拾おうとするセリスの願いはできるだけ叶えてやりたい。オイフェはもうこの件でセリスに強く言えないのだ。
 セリスをどう説得するかというのが問題である以上、セリスに強い影響力を持つレイリアに頼むことになる。一部の醜聞がシャナンの一件に繋がった可能性にも関わらず、将来のグランベル王妃として君臨するであろう女性と密談を続けるのはあまり好ましいことではない。だが、"今"を勝ち抜かなければ"次"は無いのだ。
 今度で最後にしようと心に誓いつつレイリアに依頼した。すると次の夜を経た翌朝にはセリスの懐柔に成功した報告が入り、実際にセリスはあっさりと承認した。
 ただしセリスはひとつだけ条件をつけた。トラキアをこれ以上攻めないのならばここで雌雄を決するようにして、と――。

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