トラキア城、深夜――
 地上軍の大半を失い、宿将ハンニバルは捕らえられ、領土の半分を奪われたトラキア王国。表面上は風前の灯と言っていい状況であるが、ここに来て好転の兆しが表れ始めていた。グランベル帝国からの援軍が国境のペルルーク城から挑発行為を繰り返すことでルテキア城にいる解放軍が釘付けにされているからである。
 必要最低限の時間を稼ぎ、なんとか戦力を整えたトラキア軍は反撃の機会を窺っていたわけであるが、ここで絶好の機会が訪れた。
「反乱軍はルテキア城から出撃し、ペルルーク城への攻撃を開始しました!」
 高高度を舞う飛竜による上空偵察が可能なため、こういう情報察知は早い。上から見下ろされる他国の軍勢には気分がいいものではないが、戦う気ならばともかく視認するだけの相手に弓矢は届くわけがなく、森の中にでも隠れて遮るぐらいしか防ぐ術がない。解放軍がルテキア城から出撃した情報も当然のごとくトラキア城に伝わった。
「父上! 今こそ"三頭の竜作戦"を決行すべきです!」
 これを受けてトラキア城内では乾坤一擲の反抗作戦が練られていた。
 残存する竜騎士全てを投入し、解放軍に奪われたミーズ、カパトギア、ルテキアの3城を同時攻撃するこの奇襲作戦は、"三頭の竜作戦"と名付けられた。
 本来ならば解放軍がグルティア城まで侵入してきたときに決行すると決定していた作戦であったが、彼らが矛先を変えたために改めて討議することになった計画である。
 作戦の趣旨は解放軍の補給線を全て断ち切りトラキア領内から叩き出すことである。正面からの決戦では無敵を誇る解放軍と言えども、補給が切れれば崩壊は免れない。地形が険しく現地調達が不可能なトラキア領内で立ち往生すれば餓死するしかないため、解放軍は帝国領ペルルーク城を意地でも奪取してトラキア王国内から立ち去らなければならない。
 つまりこの作戦が成功すればトラキア王国側は失った領土を全て取り返すことができるのである。地上軍を失った状態ではここから再び北トラキアに進攻するのは無理な話であるが、だからと言って解放軍側も警戒を解くわけにいかない。
 加えて、ペルルークを奪取した以上は帝国との決戦を視野に入れなければならず、トラキアと帝国を同時に相手しなければならないという苦しい戦いを強いられることになる。トラキア側は牽制しながら戦力を回復し改めて北トラキアへ進行してもいいし、外交で解放軍から譲歩を引き出すのも手であろう。
「……気が進まない。この賭けは成功するとは思えない……彼らは強い」
 静かな、小さくか細い声で反対したのは、療養中のアルテナであった。会議に出席はしているものの自分の意見などもう出せないと思われていた傷心の姫君の声に場が静まり返った。

 この作戦、当たれば大きいがリスクも非常に大きい。地上軍が壊滅したこと、速度を要すること、そして複雑な地形を飛び越えて背後を襲わなければならない理由で竜騎士のみの単一編成であるわけだが、弓矢という致命的な天敵がいるこの作戦は相手に対処されていると失敗は必至である。
 あと、本来はもっと敵を深く引き込んだ状態を想定して計画された作戦であり、現状は万全の戦況とは言えない。ルテキア城からみてペルルーク城とグルティア城とでは倍近い距離の差があるためペルルーク城攻撃の留守を狙っても対処が間に合ってしまう可能性がある。また、自国内のグルティア城と帝国領のペルルーク城とでは連携の面でも不安は大きく、決行にあたりアクシデントの絶無は難しい。いかに飛竜による上空偵察が容易であってもペルルーク城の実情は窺い知ることはできないし、派手に偵察すれば解放軍に気取られる危険性まである。
 そしてこの作戦が失敗すればどうなるか。トラキア王国は全戦力を失うことになれば滅亡を避けられない。解放軍と帝国軍のどちらが勝つにせよ、世界新秩序はトラキア王国を仮想敵国と定めるであろうし、その危険な国家が衰退しているのならば即座に滅ぼして後顧の憂いを断つことになるのは言うまでもないだろう。軍事国家にとって軍事力が失われるのは死と同じ意味であるのだ。

 静観するという選択肢はおそらく一番ありえない。
 解放軍がペルルーク城を陥落させてそのままミレトスへ攻め込んだ場合、表面上は嵐は過ぎ去ったと言える。
 しかし援軍として来てくれた帝国軍が窮地に陥っているときに何もしなければ、もし帝国が勝ったとしても外交面で問題が残る。見捨てたと受け取られたのであれば関係は疎遠になってしまい、かつてのように経済制裁まで考えられる。逆に、後背を突けなくてもやむを得なかっただろうと受け取られた場合、すなわち帝国から見てトラキアの軍事力が著しく減衰したと判断されることになる。軍事的脅威になっているからこそ同盟を結んでいる関係であるのだから、それがもはや脅威ではないと認識されれば1年後には討伐対象となっていてもおかしくない。
 一方で解放軍が帝国打倒に成功した場合どうなるか。トラキア軍の実情をよく知る彼らが残るのだからさらにまずいことになる。今ならば好機であるし、時期を逸すれば再び北トラキアにとって脅威になることが分かりきっているのだから討伐するしかないだろう。
 そもそも、トラキア王国と解放軍とは深い因縁がある。
 16年前、シグルド公子率いる反乱軍に合流しようとしたレンスター軍を奇襲によって滅ぼしたのは他ならぬトラバント王である。派遣したランスリッターが全滅しなければバーハラ決戦の結果は違うものになったかもしれないし、これによって戦力が減衰したレンスター王国が3年後に滅ぼされる結果も訪れなかったかもしれない。言わば今のこの戦場はトラキア王国によって作り出されたものであると言っても過言ではないのだ。
 つまり、静観を選ぶということは、どちらとも手を切ることになる。帝国と解放軍、この聖戦の勝者との最終決戦に臨める軍容があればこの選択もありかもしれないが、今の戦力では賭けではなく自滅にしかならない。

「ハンニバル将軍が捕らえられたのなら、むしろ……」
 さらにアルテナはか細い声で言葉を続けた。
 全容を述べたわけではないが、帝国ではなく解放軍と手を結ぶ案を提示したことは皆にも伝わった。
 先遣隊を率い、結果として現在の戦況を招いた当事者と言えるアルテナにとってこの選択はできることなら選びたくはないだろう。完膚なきまでに敗れて心が折れてしまい、未だ立ち上がれない彼女ができるせめてのことがこの提案なのであろう。
 だが解放軍と休戦しろというこの案、乗るのは難しい。
 厳しい戦況を強いられているトラキア王国にとってはいい機会であろうが、解放軍にとっては背中を見せている今が苦しいだけなのだ。ペルルーク城を奪取して守備を固めれば背後を突かれる危険な状況を脱することができるため、解放軍には休戦の必要性が薄い。極端な話、休戦に応じるふりをして時間を稼げればいいのである。
 不利な交渉を纏めるには優秀な外交官が必要であるが、残念ながらトラキア王国にはそういう人材が居ない……が、今は適役が存在する。
 解放軍に捕らえられたハンニバル将軍を捕虜ではなく仲介役だと考えれば、この交渉は絶望的ではない。"トラキアの盾"の異名で大陸中に名の知れたハンニバルが間に入るのであれば解放軍も交渉のテーブルにつくだろう。また、もう線が切れてしまっているがフィンのようにアルテナを必要とする者も解放軍側にいる。周辺に脅威と恐怖心を植えつけるだけのトラキア王国とて諸勢力との外交チャンネルは確かに存在するのだ。

「多くの将兵の命を奪った反乱軍と結ぶわけにいかない。我々は父上と民の悲願のために勝たなければならない……それはアルテナ、お前も分かっているだろうに」
 アリオーンはこう言うしかなかった。
 帝国との密約があるアリオーンにとって、トラキアが解放軍と休戦すれば密約を反故にすることになる。援軍まで派遣してもらっていて自分だけが戦争をやめれば批判されて当然であろう。
 トラキアの外交方針は帝国か解放軍か自力かの三者択一である。現状は帝国と同盟を結んでおり、解放軍と戦争中である。ここから路線を変えようというアルテナの提案を帝国派のアリオーンが呑むわけにいかないのだ。

「わっはっは、甘いぞアルテナ。あの連中が儂を信用するわけなかろう」
「!?」
 ここで場違いに豪快で陽気な笑い声が響いた。一言も声を発しなかったトラキア国王トラバントである。アリオーンとアルテナがやりあっているときは沈黙を守ることが多かった国王が自虐までして割り込んでくるとは誰も思わず、場に居た全員が一斉に面食らった。
 トラバント王が信用できない――残念ながら世界的常識と言ってもおかしくなかった。
 彼が目的のためなら手段を選ばない人物であることは誰にも否定できなかった。そして事実そうなのである。身内から見れば「目的のためなら悪評を厭わない」という評価になるが、傍目から見れば危険極まりない人物であるのは間違いない。
 問題は、トラバントの能力である。単に狡猾で卑怯者なだけなのであれば周辺国家もさほど苦労することもなかったであろうが、困ったことにトラバントは限りなく優秀な人物なのである。帝国は表面上こそトラキアと同盟を結んでいるが警戒心を解いたことは一度もなかったのは、トラバントが同盟を頑なに守るとはどうしても思えないし、反故にされたときが非常に恐ろしいからである。
 解放軍にとっても、たとえトラキア王国と休戦しどれだけ蜜月の関係を結ぼうとも、それでもトラバントに気を許すことはしないだろう。良好な関係などトラキア半島統一の野望への何の抑止力にもならないと分かっているからだ。ミーズ城よりトラキア王国内に侵入し、トラキアの民を見た解放軍ならば、トラバントに一握の夢を捨てさせることなど不可能だと悟っていることだろう。
 つまり、本人が言うようにトラバントが信用できないというよりかは、解放軍にとってトラバントある限り休戦しても意味がないと言い表す方が正しい。トラバントに北トラキアを与えるのか、それともトラバントを倒してトラキア王国を滅ぼすのか、将来的にどちらかの選択肢しか無いのである。南北分割したままで今後さらに数十年にわたり北トラキアの民を怯えさせる結末は解放軍も望んでいないのだから。
 加えて個人的な恨みもある。解放軍に参加しているリーフ王子にとってトラバントは父母の仇である。そして、リーフ王子の母エスリンは解放軍リーダーのセリス皇子にとって叔母にあたる。母ディアドラを早くに失ったセリスにとって、遠い記憶にある母性といえばディアドラよりもむしろ一時的にせよ代わりに面倒を見たエスリンを指してもおかしくない。リーフとセリスがどこまで復讐心に燃えているかは分からないが、戦場での出来事だからと水に流せるほど達観している年齢でもないだろう。

 ……結局、トラバントにアルテナは言い返せなかった。
 父王はそういう人物であり、また同時にそういう姿を尊敬するアルテナにとって反論のしようがなかった。確かに解放軍がトラバントを受け入れてくれるとは思えない以上、戦闘続行の結論はやむを得なかったのだろう。
「……」
 戦うしかないが、戦って勝てる相手ではない。破滅と分かっていてなお戦わなければならないのか、王とはそれすらにも胸を張って歩を進めなければならないのか。何かしなければならないのに何もできないアルテナを見かねたのか、アリオーンが話を先に進めた。
「父上、この作戦、必勝を期さねばなりません。ですがアルテナは……」
「まあよい、こうなれば儂が出る……もはやそれしかあるまい。城の守りはお前に頼む」
「!? あ、あぁ……」
「お任せください、父上」
 そう、こうなればそれしかないのだ。
 負ければ滅亡必至の大勝負、配下の将軍に任せるわけにいかない。本来ならばアルテナが率いるべきであろうが、今の彼女はトラキアの命運を預けられる状態ではなかった。
 そして王太子アリオーンはトラキア城に残るしかない。負ければ終わりとはいえ、そうなってもトラキアの民を誰かが守らなければならないのだ。となれば帝国と繋がりがある彼が死ぬわけにいかない。たとえ国が滅びるのを受け入れても、せめて民が生きていけるように交渉できるのはアリオーンだけなのだから。
 となれば、死地に赴くことができるのは国王トラバントしかいない。王であり大陸最強の竜騎士であるトラバントが自ら率いれば配下の士気も高まるだろうし戦局の打開もできるかもしれない。
 だが父王が命を賭けなければならない必要性は本来は無かったのだ。アリオーンがどう思っているかは分からないが、トラバントが不甲斐ない娘の尻拭いを買って出たのは間違いないだろう。
「ち、父上! 私が――っ!」
 アルテナの最大の武器は情熱である。不屈の意志こそがトラキア王家の者に必要な才能だと信じてきた。王家の血を引かぬからこそ父王を目指したアルテナであったが、自身の迷いから今の戦況を招き、そして偉大な父を失おうとしている。
 立ち直るための猶予はもうなかった、今立たなければ……! と奮起して自分が引き受けると言い出そうとしたときであった。
「もういい、儂は疲れたのだ。儂はもう休む、話は明日聞こう……お前も夜更かしが過ぎると嫁の貰い手がなくなるぞ?」
 ……冗談を滅多に言わない父王が頭に置いてきた手のぬくもりを、アルテナは生涯忘れることはなかった。

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