カパトギアで戦力を分割した解放軍は、オイフェ指揮の別働隊にカパトギア守備隊の掃討を任せると本隊は電撃的な進軍を続けていた。準備が整いきる前に進めるだけ進もうという意図である。
 まず最初の関門とも言えるルテキア城の突破は(オイフェがいなくても)さほど困難ではなかった。守将ディスラーはよく戦ったが、やはり崩れたまま補修されずにいた城壁の綻びが仇になった。
 ルテキアに入城した解放軍は、まずトラキアの民の敵意の視線を浴びた。民衆に手を出さないことは解放軍兵士に厳命してあるものの、その題目が敵国の民衆にまで正しく伝わっているわけではない。トラキアの民にとって、新たな主となった光の皇子が解放者なのか侵略者なのか区別できるはずもなかった。北トラキアとの最前線で入手する情報が多かったミーズ城と違って判断基準自体に恵まれていないのである。
 この予想外の反応に鼻白んだ者がセリスに対し進撃中止を進言し始めたのは無理もない話であった。
 本来のプランであればここからさらに奥地、次のグルティア城に向けて進撃することになっているが、このルテキア城の内情をこのまま放置して城を空けるのは不安が大きすぎるというのが自重論の主旨である。
 北トラキアでは歓迎ムードがあり、地元の有力者が積極的に協力してくれたためにすぐに次の城に向けて進撃しても問題はなかった。民衆が必要な食料や資材、土木作業や炊き出しなどの作業部隊さえ残しておけば後は勝手に復興してくれるだろうし、ましてや反乱が起こる心配などする必要が無かった。
 だがこのルテキア城の反応からして、同じ手法で臨むのは危険が大きすぎる。貧しい彼らに対し充分な施しができれば従順になってくれるのだろうが、補給線の確保が困難なトラキア王国に侵入している解放軍に潤沢な余剰分は無い。かと言って放置して進撃した場合、反乱を起こされて城を奪回されれば目も当てられない。特に険しい地形を飛び越えられる竜騎士を抱えているトラキア相手に対し、後方面で不安を残すことだけは絶対に避けたい。反乱が起きたルテキア城が竜騎士隊に確保されれば解放軍は退路を断たれることになるからだ。
 状況を考えれば、ここは大人しく民生の安定に努めた方が正しいだろう。ロプト教とも帝国とも疎遠なこのトラキアにおいては無条件な解放者になれない以上、侵略戦争時と同じようなアフターケアが必要なのだ。
 だが一方で、ここで足止めを食うのも面白くない話である。オイフェの分析通りであれば、今すぐに進撃すれば次のグルティア城は容易に落とせる。グルティアまで進めば後は王城トラキア城だけになり、最終防衛ラインに踏み込まれたトラキア軍は兵力を裂く手を打ちにくくなる。この険しい地形の中、竜騎士が戦場を狭く限定せず広範囲に運用されると何かと面倒が多いため、グルティア奪取は進むだけでなく敵軍を小さく封じ込める意味合いもあるのだ。
 あともう一つ、ルテキア城から北に向かうと帝国との国境線があり、そこにはトラキア王国監視のために築かれた帝国領ペルルーク城がある。この戦いに帝国からの介入が無いとは言い切れないため、補給と並んで時間をかけたくない事情である。
「オイフェに聞いて……え、そんなにかかるの?」
 軍事面の統括はオイフェに一任してあるが、彼は今ここにいない。軍を分割してカパトギア守備隊と未だ交戦中である。ハンニバルさえ封じ込めればグルティア城までは困難となる障害はなくなるので、オイフェもこれなら自分がいなくても大丈夫だと読んでこの作戦を採用したのだ。確かにルテキア城攻略はセリスの適当な突撃命令だけでクリアできたし、グルティア城もきっとそうなのであろう。だが、ルテキア城でのこの反応までも読みきっての作戦かとなるとかなり怪しい。シグルドの傍に仕えてはいたものの、侵略者である部分に触れられなかったオイフェの経験不足な部分が現れた格好になった。
 当初の計画と状況が違うのだから随時修正しなければならない……が、離れているオイフェにいちいち確認を取っている時間も無かった。連絡は密に取っているが、この険しいトラキア王国内では使者が時間通りに戻ってくる保証が効かない。回答がすぐ返って来るとは限らない以上、全面的に頼るわけにいかない。
「ねぇレヴィン、どっちがいいと思う?」
 セリスは自分で回答を出さなかった。オイフェならば「どちらを選択しても"次"に影響しないから」と放棄した理由に見当がついたが、何も知らない周囲の者からは自分で判断できないと映ったかもしれない。
「勝負を急ぐべきじゃない……が、難しいな。ま、グルティアの守りが堅くなってもオイフェが何とかするだろうから、基本は留まる方だな」
 ルテキア城の北には少し開けた盆地があり、トラキア王国領内では唯一まともな耕地であるため多くの農村が存在していた。ルテキア城の住民にとっても関係が深く、お互いが故郷であり家族が住む場所でもあろう。ルテキア城の鎮撫を考えるならばこの農村群にも派遣したいところだ。
 一方で問題もある。そのさらに北に行くと帝国領になり、トラキア王国監視のために築かれたペルルーク城もある。いかに民心の安定のためとはいえ、国境付近に軍を展開すれば帝国を刺激するわけであり、余計な火種を蒔くことになりかねない。刺激しなければ介入しないというわけでもないが、わざわざ自分から重い腰を上げやすくさせてやることもない。
 ただ、帝国介入について想定はしてある。オイフェが解放軍を二分割した際、本隊には対騎兵用の部隊と装備を入れさせている。トラキア軍は騎兵を運用しないため、これは帝国軍に対しての備えであると言っていい。

「カパトギアから逃げてきた民が北へ行ったそうだけど……この人たちって何者なの?」
 そして、レイリアがぽつりと漏らしたこの一言が場の空気を変えた。
 確かに、カパトギアから疎開してきた民衆が北に向けて脱出したという報告を受けている。
 初めて聞いたときは気に留めなかった。軍隊が移動しているのならば追撃の必要があるが、民を追いかけるべき理由は無いからだ。
 だが、こうして改めて指摘され、さらに何者かと問われると、この集団が持つ意味が明らかになってくる。
 もしあの集団が南、つまり更なる奥地であるグルティアへ逃げたのならば話は分かる。軍隊に助けを求めるならばグルティアに向かうしかないし、もしグルティア城が落ちてもさらにトラキア本城へど落ち延びることができる。
 だが北に向かっても農村群があるだけの袋小路でしかない。道自体は続いているものの、帝国領に逃げ込んでも保護してくれるわけがない。確かに帝国とトラキアは同盟国である……が、帝国はトラキアの難民を受け入れてやるほど寛容ではないし、トラキア人にしても帝国が寛容だと思ったことは一度も無いだろう。
 つまり北に逃げようとしても逃げ場が無いのである。にもかかわらず、それでも彼らは北を目指した……本来ならば受け入れられるはずがない彼らには、何らかの理由で保護される理由があるのだ。
 まず考えられる理由は、グランベル帝国とトラキア王国の間に、難民の受け入れを織り込んだ密約が交わされている可能性である……が、両国の性格からして現実的ではない。民が疎開するということは戦争に負ける可能性を示唆するわけであり、最初からそんな弱気な姿勢を見せては外交にならないし、そんな同盟国の頼みを聞いてやる帝国でもない。そして貧しいトラキアには出せる交換条件も無い。
 帝国トラキア両国にとって難民の受け入れが不可能な話ならば、残る理由は彼らがただの難民でない可能性だ。レイリアが何者かという表現を使ったのもこれについてである。
「ん、調べてみる」
 ――捕虜を尋問した結果、難民のリーダーがハンニバルの養子であることが分かった。どこからもらってきたのかについては不明だが、帝国に保護される根拠がこのシャルローという少年ならば、彼はグランベル出身であり、そして保護される価値がある高い身分の生まれだと考えられる。
 この推測が正しいとするならば、ペルルーク城に逃げ込まれると厄介なことになる。難民の集団にとって解放軍は侵略者であるため、彼らが帝国に保護されれば解放軍の良からぬ評判が流される危険性が生まれる。実際に何をしたわけではないのだが、光の皇子という称号に頼っている解放軍にとって、抽象的にせよ悪評がばら撒かれるのは歓迎できない。
 トラキア王国を滅ぼした以降はこのペルルーク城から帝国領内に踏み込む計画であり、大事な足がかりとなる地でその民衆の支持を得られなくなるのは避けたい。
「これは逃すわけにいかんな、村の解放と平行して追撃させよう……それにしても、たいした見識だ」
「じゃあ足が速い部隊は追撃、そうでない部隊は解放……これでいい?」
 セリスの承認を得て、解放軍はグルティア城への進撃を中止してルテキア城の北に展開した。農村が戦場にならないよう、帝国軍の介入に備えながら素早く完了させなければならない。縛りすぎれば広がらなくなるし、緩めすぎれば帝国軍介入時に連携が取れない。シグルドやオイフェが当たり前にやっていたことをセリスはこなさなければならなかった。

 名声とは社会的信用のようなものである。信用度が高ければネガティブな事件が起こったとしても「そんなわけあるものか」と俄かには信じられないだろう、一方で低ければ「やっぱりそうか」と評価を促進することになりかねない。
 トラキア王国に踏み込んだ解放軍の名声は白紙の状態にあった。帝国を打倒し世界を救う旗を掲げているとしてもトラキアの民にとっては侵略者には変わりない。侵略者と現地の民衆との間にトラブルが発生する可能性を根絶することは不可能であり、何かしら事件が発生したときにどう受け取られるかは最初に好印象を植えつけられるかどうかにかかっている。
 ここでセリスは指揮するにあたりレイリアに補佐を命じたのが仇になった。
 侵略者でないことを主張するためには警戒心を解かせることが必要であり、踊り子であるレイリアはまさに適任と言っていいだろう。だがオイフェが居ない状態での指揮経験に乏しいセリスは精神的な支えでいてもらうことを優先したのだ。
 やむなくレイリアは自分の妹分である踊り子を送らせたのだが、一本立ちにはまだまだ技術も経験も足りないとのことらしい。ただ度胸だけはあるので身体が縮こまったりはしないはず、とはレイリアの評価である。大丈夫なのかと不安視したレヴィンがその子を一目見れば評価が一変したに違いないがレヴィンも忙しくそれどころではなかった。
 ……そして発生した事態は予想を大幅に裏切り、未熟な踊り子では混乱を収拾させることはできなかった。いや、解放軍すべてが根底から覆される事件が起こったのである。
「シャナンが!?」
 ルテキア城に届けられた報告を受け取り、解放軍中枢はひっくり返った。
 シャナン王子をリーダーとする集団が農村で略奪暴行に走り、果ては殺人誘拐放火まで起こしているというのである。

「斥候より報告、トラキア領内国境付近の農村で火の手が上がっています!」
「全軍に伝達、出撃だ。進入予定より早いが奴らが荒らしているのならば一戦交えるぞ」
 ……農村で何かが起こっていることは、ペルルーク城の帝国軍も察知した。援軍を率いてきたムーサー将軍は状況への介入を決断し、トラキア王国内での帝国軍と解放軍の激突は不可避となった――両軍とも真実を知らぬまま。

Next Index