ハンニバルは決して凡庸な将ではなかった。
 "トラキアの盾"の異名を持ち、歴戦の将軍としての名声は大陸中に鳴り響いていた。
 だが彼の判断は正しくはなかった。
 彼が遅滞戦術に賛成し、カパトギア城の女子供を後方に疎開させたのは2つの意味合いがあった。まず、彼が率いる守備隊では解放軍を押しとどめることは厳しいという点と、疎開させるぐらいの時間は稼げると踏んだ点だ。
 ハンニバルは城壁の守りが信頼に足らない籠城戦を諦め、城外の狭い街道を封鎖して守る方を選んだ。
 長い上り坂に陣取った彼の慧眼はさすがと評価されるものではあった。ここは谷間を通る風が上から下に吹き抜けるため、坂の上から射ち降ろす守備側の射手に圧倒的有利な地形である。矢の雨が降り注ぐ中ハンニバル直属の装甲騎士団が守備に徹するのだから、多大な損害を強いることができる。
 解放軍は兵力の損耗を嫌う。絶対的戦力が少ないのだから当たり前なのだが、亡国の王子王女が多数参加しているので旗手とも言える彼らを失うと解放軍を支援する組織との糸が切れてしまうのだ。
 この陣が鉄壁かというとそうではない。そもそも険しい山の中を行軍するトラキア兵に重装甲自体が的確な装備ではないため、もともと守備には向いていないのだ。国自体が侵攻されることが滅多に無く、攻める場合も膠着を許されない戦いの歴史を送ってきたのである、彼らに必要な軍装は速さと殺傷力であり受身に回ったときの堅さではないのである。加えて財政面に苦しいトラキア王国では武器はまだしも防具にまで資金が回せなかった事情もあり、ハンニバル直属の騎士こそはそれなりの装備があってもカパトギア守備隊全体の装備について語るなら貧弱としか言いようが無い。
 この兵装で満足な守備陣を敷くのは難しい。守る以上はどうしても身体を張らなければならないからだ。射手の重要性を上げる布陣を選ぶことで負担の緩和はしたが鉄壁と呼ぶにはほど遠いのだ。だがハンニバルにはこの布陣に自信があった。
 解放軍の精強さについてハンニバルは直接見たことがあるわけではない。だがトラキア竜騎士隊はシグルド軍と激突したことがあり、伝聞とはいえ正確に想像することができた。歴戦の将軍であるハンニバルは、これまで切り結んできた北トラキア四王国の軍やグランベル軍など数多くの軍の強さを基準とすることができる強みがあった。伝聞がどこまで忠実でどこが誇張されているのか、彼は見抜くことができたのである。
 彼の青写真では、抜けそうな陣だと高をくくって突撃してくる解放軍に痛撃を浴びせ、警戒心を植えつけて足止めさせる……ことになっていた。
 ……だが、彼は解放軍について1つ見落としていたことがあった。
「風が……? ……ぁ、て、敵来ますっ!」
 風使いセティの血と風魔法フォルセティを受け継ぐ者が解放軍内にいて、射手に優位をもたらせて防衛の要としていたこの風が止められる……そこまで想像するのは魔法文化に疎いトラキア側には無理な話であろう。トラキア人以外誰も分からないトラキアの地の利であるから、これを失うのは完全に予想外であった。
 射手の支援を得られぬまま瞬く間に前線が突破されると守備隊はあっという間に分断され、ハンニバル自身は城から遠く離れた山の中に追いやられた。
「成す術……無しか」
 死守命令が出たカパトギア守備隊の任務は時間稼ぎである。トラキアの盾がどれだけ踏ん張れるかでトラキア軍の運命が分かれるからこそ、トラバントは宿将を捨石にしてでも死守命令を出したのだし、ハンニバルも主の意図を汲んだのである……が、これではお世辞にも目的を達せたとは言えない。完全な惨敗である。
 敵将もこちらの事情をよく見抜いているようで、カパトギア城の奪取やハンニバル自身の捕縛または討伐を最優先とせず、こうして山中に封じ込めると兵を分割して更なる奥地へと進撃した。あの様子では疎開させた女子供は逃げ切れるか怪しいし、ルテキア城に辿り着けたとしてもルテキア守備隊が防ぎきれる可能性は高くないだろう。ディスラー将軍は信頼に足る良将ではあるが、避難民を多く抱えた状況で玉砕覚悟の戦いを挑むのは難しい。カパトギアを捨石にしてまで逃がしてきた民を巻き込む選択はディスラーの性格的にできないはずだ。
 となると、ディスラーは民に手を出さないことを条件に開城を選択する可能性がある。つまり一瞬のうちにルテキアまで抜かれることになり、この戦は非常に厳しいものになる。帝国から援軍が来るらしいが自分も含めて地上戦力指揮官を失った状態で勝つのは難しい。頼みの竜騎士は地上軍との連携あってこそ光るものであり、その運用に不慣れな帝国軍とこの険しい地形の中で連携を取るのは不可能に等しい。
 言ってしまえば、ハンニバルが風を頼りにした布陣を敷いた時点でトラキアの敗北は決まったのだ。あるいはもっと前からこうなる運命の扉が開かれていたのかもしれないが、直接の原因を招いたのはハンニバル自身であろう。聖戦士ではないハンニバルにそこまで求めるのは酷かもしれないが、凡人であっても歴戦の名将ならばもう少しやりようはあったはずである。

 状況を打開するならば考えられる方法は3つ。1つは山中から出撃して包囲網を突破し、敵の補給線を断つ。2つ目はこのまま山籠りして援軍を待つ。そして3つめの選択肢は和議を申し入れてトラキアを守ることである。
 突破は一見して簡単そうに見える。解放軍はただでさえ多くない兵力をさらに二分割して運用しているのである、山を封鎖して絶対に逃がさない意思を表すには残された数が少なすぎる。
 もしもハンニバルがこの封鎖部隊を突破した場合、戦局が一変する可能性がある。カパトギアをトラキア軍が奪回すれば侵攻する解放軍は補給を絶たれることになる。地理に暗い解放軍がそのまま無理してトラキア本城まで攻め上がることは難しい。山の中で補給を絶たれて立ち往生する軍を討ち果たすのは容易く、逆転勝利は夢ではない。
 だがこれは大きな賭けである。決戦を挑めば勝つか負けるかどちらかの結果を強いられることになる。勝てばいいのだが勝てるかとなると難しい話である。
 見下ろしたところ山を包囲する解放軍の士気は異常に高い。普通、包囲に成功すれば士気はいったん落ち着くものである。
 敵を殺すことを念頭に置けば自身も命を賭ける必要があるし自らを鼓舞しなければならない。だが包囲するだけなら敵を突破させなければいいのだし、敵が出撃して来ないのであれば安全なポジションにいると言っていい。そういう状況で生命を粗末にするなど馬鹿らしい話であり、当然ながら奮い立つことも無い。ましてや本隊が侵攻継続中であり、極端な話この包囲軍は包囲を続けてハンニバルを封じ込めていればいいのであって撃滅する必要は無いはずなのだ。
 ゆえに、こんな高い士気を維持する以上は包囲で満足しておらず、向こうは殺る気なのだ。
 士気が緩んだところを見計えば勝機は訪れるが、あれだけ士気が高い包囲軍相手に斬り込んでも勝ち目は限りなく薄い。そして敗れれば軍は壊滅してハンニバルは戦死することになる。
 トラキア王国と解放軍との戦いを振り返れば、先遣隊が敗れ、ミーズ城を奪われ、カパトギア城を抜かれたのが現状であり、そしてこれにハンニバル将軍が戦死したとの報まで流れればトラキア将兵は戦意喪失を避けられない。それでもトラバント王の心が折れることは無いだろうが、気力を失った将兵の前でいきり立っても痛々しく浮いて見えるだけである。
 この分が悪すぎる賭けに出られるかとなると、ハンニバルは選べなかった。前線の崩壊は風の悪戯が直接原因ではあるが、それを強がって今度は勝てると意地を張るほど彼の軍歴は浅くなかった。あの時はあの時、今は今である。

 最も現実的手段となればこのまま山に籠もってひたすら耐えることであろう。自力が厳しいのならば数を増やせばいいのだ。
 他の地上戦力が救援に駆けつけるならば解放軍の包囲網をこじ開けるという難しい条件があるが、竜騎士ならば山の裏手から飛んで来ることができるので難しくない。戦力を建て直した上で包囲網突破を狙うのがこの選択肢だ。
 だがこれにも大きな問題が付きまとう。まず援軍が来るかどうか保証が無い点である。
 ハンニバル救援の部隊を出すということは、トラキア王国も戦力を分散するということになる。前線を突破されて一刻も早く守備を固めなければならない時に別働隊を出す余裕があるだろうか。
そもそも、その余裕が無くてその選択肢を選ばないからこそトラバント王が死守命令を出したのではないか? そう考えればハンニバルがこれを選んだとしてもジリ貧になるだけである。
 仮に援軍が来ないとしてこのまま耐え忍べばどうなるか。少なくとも眼下の解放軍を釘付けにはできるが、彼らは主力ではない。その主力はトラキア王国内をさらに深く侵攻中であり、このまま少数を相手に時間稼ぎしても戦略的価値が薄い。

 この戦況下で解放軍は兵力を分割してなお撃滅を選んだのである。トラキアの盾と呼ばれるハンニバルであるが、精神的にも守勢に回って勝てる戦など無いことも知っている。山の中にまで押し込んでいったん区切って包囲戦に移行しようとはせず、そのまま勢いを続けようとするのはよほどの戦上手でなければできない話だ。
 この軍の指揮を執っているのがセリス皇子なのか他の将軍なのかは分からないが、解放軍の強さはこれまでハンニバルが斬り結んできた数多くの敵軍のどれとも違う異質な部分にあるようだ。優秀な指揮官は戦場を自分の視線ではなく空中から俯瞰的に捉えられるとはよく言うが、まさにその天性の才能の持ち主なのかもしれない。ハンニバルは培った多大な経験を生かす才能こそはあれど天才という存在には縁がない将軍である。
 とにかく、ハンニバルの最終的判断は「勝てない」であった。挑んでも守っても状況が好転しない、まさにお手上げと言うしかないぐらいの敗勢だと認めるしかなかった。
 不撓不屈の権化とも言うべきトラバント王に長く仕えている身の割に諦めの早い決断であるが、彼だからこそ軍の強さと勢いと勝敗の行方が分かってしまうのだろう。
 たとえ華々しく撃って出て散っても、あるいはひたすら耐え忍んだとしても、どちらにしてもハンニバルはこの戦争に影響を及ぼせる位置にいない。本隊同士の決戦によっておそらくトラキア王国は滅亡を避けられない。虎の子の竜騎士は温存されているとは言え、あれだけの戦上手が相手ではどう挑んでも死者を増やすだけに終わる気がしてならない。やるとすればもっと奥地深くに誘い込んでおいて竜騎士隊で補給線を断ちに行く作戦だが、大胆な兵力分割に慣れている解放軍ならば備えも充分にありそうだし、トラキア側も兵力分散の愚を犯しているわけなので裏目に出る可能性が高い。
 あのトラバント王が戦死するイメージが全く沸かないので国家の滅亡についてピンと来ないが、そういうトラバントが逆に講和や降伏を選ぶ可能性もゼロだろう。トラキア本城が炎に包まれて陥落してもなお悲願のために戦おうとするに違いない。その状態を滅亡と呼ぶかどうかはともかくとして、現状で戦争の継続はトラキアに利が無いのだ。
「……敵軍に使者を送れ」
 ハンニバルは独断で解放軍に単独講和を申し出た。戦争を止めるには、トラキアの盾がトラキアを守るにはもうこれしかないのだ。
 北トラキアの領有権を主張するに違いないリーフ王子が解放軍内にいる以上、解放軍と和議を結べば既得権を認めなければならない。それを呑めないからこそトラバント王に停戦の二文字が無いのだ。
 王太子アリオーンは穏健派に属しており北トラキア征服に慎重な立場である……が、親帝国派でロプト教会とも親交が深いアリオーン王子と、帝国とロプト教会の打倒を掲げる解放軍との間で講和が成立するのかとなるとかなり怪しい。帝国の支援を受けて経済を発展させる道を選択しているアリオーンにとって、解放軍と結ぶということは帝国が打倒されてプランが崩壊するのを容認することと同じだからだ。
 そしてアルテナ王女は、養子であるが故に父王トラバントに似ようとしている意思が先行している……が、具体的な政治思想を抱いているわけではない。年齢的に当然であるが、トラキア王国の運命を背負ってもらうには心もとない。精神的にまだ弱く、先遣隊壊滅の責任から休養中ということもありこの戦争では役立たずの存在である。
 つまり、トラキア王国がどれだけ滅亡の危機に瀕していても、トラキア王家は講和を選べないのだ。そして滅亡が避けられなくなった祖国を救えるのはハンニバルしかいないのである。
 ただひとつハンニバルに拠り所があるとすれば、彼自身の名声だろう。ハンニバル将軍が停戦を選択すればトラキア軍全体の抵抗が止まる――ならば国王の全権代理人と同じ価値がある。王族ではないが王に匹敵する影響力をどれだけ高く売りつけられるかが国の命運を左右することになる。

「……」
 一方で山を取り囲むオイフェは全く違うことを考えていた。
 大陸制覇を望むセリスに仕える彼にとって、トラキア王国と講和することなど全く考えていなかった。
 戦場でのハンニバル捕縛を最優先するために選んだ方策は、極限まで戦力規模を削って戦死させる可能性を下げることだった。
 敵軍全体の守備態勢が整わないうちの電撃戦――しかしカパトギアを瞬時に抜こうとすればハンニバルを確実に生かして捕らえる保証ができない。この二律背反を成立させるためにオイフェは大胆にも戦力を分割した。神速進撃とカパトギア守備隊の撃破を同時にやろうとするから難しいので、主力は撃破よりも突破を最優先としそのまま奥地に進撃させ、残った部隊は掃討とハンニバル捕縛を担当する。乱戦にしないための戦闘規模の縮小を念頭に置く理由で小さい戦力で山を包囲することを選択したのだ。
 敵陣の突破についてオイフェは頭を悩ませていたのだ。全軍で押し切れば破れない布陣ではないが被害も小さくないし乱戦は避けられなくハンニバルの命も危うい。セティならあの向かい風を止められるとレヴィンが言い出さなければ分割作戦は採らなかった。
 言わば、結局はここまでレヴィンのシナリオ通りなのである。息子を人質に取ってハンニバルに降伏を迫るというレヴィンの提案はレイリアのアシストもあって蹴ることができたが、蓋を開けてみればハンニバルの生死が確定する前にルテキア城に迫る勢いである。もしハンニバルを捕縛する前にレヴィンがルテキア城を陥落させて息子を捕らえれば同じ結果になるのだ。ハンニバル個人は息子の命を盾に取られて降伏するタイプじゃないとしても、戦闘の直前にルテキアに疎開したらしいカパトギアの女子供はハンニバル指揮下の兵士達の家族である。個人的問題ならまだしも兵士の家族までも人質に取られてなお徹底抗戦を選ぶなど不可能だ。兵士の造反逃亡はもちろん起こるだろうし、戦闘続行可能な士気など残らないだろう。
 そもそも、ハンニバル捕縛はレヴィンの提案なのだ。彼がハンニバルを手中にしてどうしたいのかは分からないが、とにかく生きているハンニバルを必要としているのだ。
 オイフェがレヴィンの目論見を妨害するのならハンニバルを戦死させればいい。確実に生かして捕らえるにはどうすべきか心を砕いてきたのであり、死なせていいのなら勝利には絶対の自信がある。勝ち戦でもハンニバル将軍の指揮能力が大陸有数のものであるのは分かった……が、それをも踏み潰すだけの軍を作った自負がオイフェにあったからだ。
 彼ほどの将軍が解放軍に参加すれば更なる強化が望める……のが心の中でも建前なのは自分でも分かっていた。脳裏に浮かぶナンナの願いが無ければここまでやらなかったのは間違いない。この方針自体が大きなリスクを背負っているからである。
 まず軍を二つに分けたこと。当たり前だが戦力を分割すれば個々の戦力は下がる。カパトギアを抜けば組織的抵抗はしばらく無いと読んでの決断だが、自分が指揮しない以上は何かに躓く可能性もある。加えて帝国から横槍が入る可能性も捨てられなく、一抹の不安が残る。師であるシグルドは大胆な戦力分割が得意だったが、弟子であるオイフェは解放軍の個々の部隊について全幅の信頼を置けていない。レヴィンの指から伸びる糸がどう絡まっているのか気になって仕方が無いからだ。戦力を二分割すれば、オイフェが居ない方の主力は当然セリスが指揮するわけであり、軍師であるレヴィンも含まれる。オイフェの目の届かないところで自由に動くことができるわけである。ハンニバルを先に抑えるために主力から外れる方を選んだオイフェであるが、いったん疑い始めるとハンニバル自体が陽動ではないかと思えてくる。ハンニバルを餌にオイフェを外させてその間に……という策略があったとしても不思議ではない。
 何を企てているにしろ軍自体が敗れるわけにいかないので戦闘になれば手を抜かないだろうが、逆に言えば状況に余裕があればあるほどレヴィンに優位ということになる。
 ハンニバル将軍が守るカパトギアがあっさり抜かれた以上、トラキア側は薄い防衛線を何枚も引いて各個撃破される愚を重ねることはしないだろう。トラキア本城まで引き付けて一大決戦を挑むか、竜騎士隊で補給線を切りに行くかのどちらかしか選べないはずだ。どちらにしてもしばらくの間は解放軍主力はこれといった抵抗は受けないわけで、レヴィンに暗躍の機会を与えることになる。レイリアにセリスのことを頼んではいるが王妃候補第一位が出しゃばり過ぎるのも士気の面で考えものであり、完全な効果は期待できない。
 いっそのこと本当に帝国の援軍でも現れてくれればレヴィンも慌てるだろうに……と淡い考えが浮かんだ。新たな敵など来ない方がいいに決まっているのだが、このままトラキア城まで何も無い戦に物足りなさも感じていたし、この次の戦いのためにも帝国正規軍を刃を合わせてデータを採取しておくのは悪い話ではない。
 どちらにしても、ハンニバル捕縛に時間はかけられない。このまま包囲しておけば事実上の無力化になるのだが、殲滅しなければ主力から外れることを選んだ意味が無い。
「停戦……!? うぅむ……」
 ハンニバルがこの使者を送ってきたのは完全に予想外だった。
 確かに包囲されているハンニバル側からしてもこのまま粘っても戦略的価値が薄いが、宿将が単独講和を望めば軍にいかなる影響を及ぼすかぐらい誰にでも分かる話である。この選択肢を選んでくるとはオイフェは考えていなかった。
 オイフェにとっては都合のいい話である。和議が結べればハンニバルの生命は保証されるし、オイフェ自身もセリスの傍に戻ることができる。レヴィンがハンニバルに調略を仕掛けるよりも先行できるのも大きい。
 いいこと尽くめの話ではあるが、一方でハンニバルが望む停戦がこの包囲軍とカパトギア防衛軍に限った話では無い点が難色を示させた。彼からは自分の身柄を賭けて解放軍全てを止めようとする意思が垣間見えるが、軍の全体の方針についてはセリスに決定権があるのでオイフェには即答できない。軍事面ではほぼ全権を委任されているとは言え、戦うか停戦するかとなると外交問題に関わるので話が違ってくる。ましてや覇者としての王位を望むセリスが講和を認めるとは思えず、オイフェとしても受け入れ難かった。本隊との往復を考えても拒否されると分かりきっている伺いを立てるのは不毛なことだ。
 使者を追い返すだけなら問題ない。ハンニバルはトラキア王国の最重要人物とは言え、身分的には停戦を申し込める立場にいない。国王の署名が入った正式な手続きを踏んでくれと突き返せば済む話だからだ。だが山の中で包囲されたハンニバルが国王からの親書を携えるのは現実的に無理な話であり、実質的に拒否したと同じである。
 講和の道が絶たれたのならば、ハンニバルは戦って死ぬしか選択肢が無いし、いったん物別れになった話が纏まるのは安易なことではない。ハンニバルを殺したくないオイフェにとって、この講和を拒否するのもまた難しい話なのだ。
「…………残念ながら、私にはあなた方の武装解除と引き換えに生命を保証することしかできない。今ならばルテキア城に逃れた民も救えるかもしれない」
 思わず出てしまったのがこの言葉である。外交問題を軍事レベルに引き下げてオイフェの裁量権内に収める強烈な一手であった。
 降伏勧告と民衆の生命を人質にしての脅迫にしか聞こえないオイフェの高圧的な回答は、トラキア全てを守ろうと考えていたハンニバルの目論見を打ち砕くことになった。戦況自体はハンニバルにとって悲観的だが、降伏しか認めないほどの決定的戦力差はない。それがハンニバルにとっての拠り所であったのだが、自らが盾となって逃した民の生命を持ち出されば士気が続くわけが無いし、これ以上の抵抗は無意味だ。一晩悩んだとしても夜が明ける頃には白旗を揚げるしかないだろう。
 一方で、この条件を出してしまった以上、オイフェには民の安全を守る義務がある。解放軍の性質的に民を手にかけることはあり得ないが、どのような不可抗力な事故があってもいけない。

「急報! 急報ーッ!」
 ……その矢先、前線から思わぬ報が届き、オイフェを驚かせた。
 前線で展開している解放軍部隊の一部が村を襲い、村人を蹂躙しているらしいというものであった。

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