解放軍はその性質上、略奪暴行などに対して厳しい罰則をもうけられているし、実際に適用も厳しい。
 当たり前の話だが、帝国の圧政から解放する代わりに力尽くで金を奪えば解放にならないからだ。恨みを買えば解放後の協力を得られにくくなるし、この事実が周辺に漏れれば解放軍全体の評判が悪くなる。
 では解放する土地以外ではどうなるのだろうか?
 
 兵士たちは傭兵ではなく、それぞれが目的を持って参加している。
 帝国の圧政に苦しむ人々を救おうとする者、家族や親しい者を殺された恨みから帝国に復讐しようとする者などが多く参加しており、士気は高いし規律もきちんと守られている。
 だからこそ、解放と関係がいない戦をするとなるとそれが少しだけ緩む可能性があった。

 帝国の傘下に入っておらず、またロプト教の影響を受けていないトラキア王国は解放軍にとって完全に第三者である。
 親しき友人ではないしむしろ油断ならない相手には違いないのだが、トラバントを大いに恐れる北トラキア出身者だけではない解放軍内の空気は大きな温度差があった。
「何でこんな山奥でトラキアなんかと戦わなきゃいけないんだ」
 この一言でほぼ全てが言い表せるといってもいい。
 帝国軍相手ならいくらでも戦ってやるし、命も惜しくない。だが大志と無関係な相手に命を賭けられるかとなると難しい。
 とはいえ戦闘を拒否するほどではない。トラキア王国を倒せば今度こそ帝国本国に攻め入ることになるだろうから、トラキアと戦うことが全くの無駄というわけではない。
 けれど本筋からは外れているし、地形的に厳しい行軍になるのは間違いない。不平不満の一つも出るのは仕方がなかった事だろう。
「おい聞いたか? 司令官殿がレイリア嬢と××してるって話らしいぞ」
「マジかよ!? 俺たちゃ女抱き損ねたってのに!」
 非常に間が悪いことに、どこから漏れたのかレヴィンによる流言飛語が兵士の不平不満を増幅させることになってしまった。おそらく流した本人もこれはあまり想定していなかったことだろう。
 規律に厳しい司令官が女を侍らせていたのではその言葉に説得力に欠けても仕方がない。ましてや戦場の花形であり兵士全員のカリスマであるレイリアがお相手となると不公平にもほどがある。
 あと解放軍の大半がダーナ市に入城していないことがさらに悪い方向に助長した。大陸一の色街があるダーナ市で羽根を伸ばしたかった男が数多くいたのだ。娼婦を買ってやるという粋な計画を知っていた極少数の者は勿論だが、知らない者にしても解放軍兵士ならチヤホヤされるだろうし、きっとあんなサービスやこんなオプションもOKに違いない――とか皮算用を立てていても決しておかしくはない。
 だが一度は入城を拒否され、メルゲン城を陥落させた直後にフリージ軍と対峙することになり解放軍主力はダーナ市に入ることは無かったのである。これが空振りに終わったのだから落胆と疼きはなかなか収まらなかったことだろう。
 この皮算用は決して妄想ではない。解放軍はこれまで熱狂的に歓迎されており、これからもそうだという固定観念が根付いてしまっているからだろう。
 それだけにミーズ城を奪取したときの住民の冷ややかな反応が身に染みた。そして解放軍兵士たちは対トラキアに意義が無いことを肌で感じたのである。
「なぁ、トラキアの女ってどうなんだ?」
「まともなもの食ってないからガリガリだろうな」
 相手が帝国ではないので兵士間で帝国軍の話が登らない。かと言ってトラキア軍の話は北トラキア出身者が過敏になるのであまり口にしたくない。となれば女の話ぐらいしかない。
 この時点で兵士たちにそういう不満が溜まっていることを誰かが注視しておくべきだったのかもしれない。
 解放軍の使命から外れた、地の果てのような山奥の国。ここで何か起こったとしても余所に漏れる可能性も解放軍の評判が下がるの可能性も限りなく低い。
 規律とは破ったときのペナルティが怖いからこそ意味があるのであって、それが緩む条件が重なりすぎると個人のモラルが低下するのも自然の流れであった。
「昔はオイシイ目にもありつけたんだがなぁ」
 シグルド軍に限らずグランベル王国の軍は規律自体は厳しかったが、略奪にはやや寛容な部分もあった。生死を賭けて戦っていきり立つ兵士たちのテンションを鎮めるのは非常に難しく、敵兵を薙ぎ倒した後は女を押し倒したり金品を奪うことを無理に制止しなかったのである。
 ただし、理性的な軍隊はこういった行為を日常化まではさせなかった。略奪は戦争の副産物であるという概念を超えると征服地の統治に支障が出るからである。
 略奪のこういう現実的側面をオイフェは知らなかった。まだ少年だったオイフェには性欲の解消方法に強姦という選択肢はなかったし、シグルドも事実を全てオイフェに公開したわけではなかったからだ。
 オイフェが皆に対し解放軍の使命を懇々と説き、略奪暴行の類には厳罰を処すると口酸っぱく教育してきたのは、彼自身の『戦争』経験の不足によるものだろう。

 トラキア王国、ルテキア城――
 解放軍の雰囲気を感じ取ったのか、最前線のカパトギア城から多くの女性が移ってきた。
 トラキア王国民にとって、戦争とは奪う手段である。夢の実現のためには北トラキアの豊かな土地を奪うしかなく、そのために戦ってきた。逆に戦いに敗れるということは奪われるということをよく分かっていたトラキアの民は、略奪の憂き目に遭う危険性に不条理さを感じず冷静に受け止めていた。
 だが略奪と言っても奪われるような金品など無い。トラキアの貧しさは自分たちもそして敵方の兵士もよく知っていることだろう。となると略奪の対象は女性しか考えられない。最前線のカパトギア城を守る男たちは自分の妻や娘をルテキア城に避難させたのであった。
「なんと君までとは……この戦い、そこまで厳しいのか」
「ボクのことはお気になさらないで。それよりみんなに毛布を……あと出来れば食事を」
 ルテキア城を守備するディスラー将軍は、移ってきた女性たちのリーダーに面食らった。麗しく気高い容姿に、エッダの法衣を模した清楚なドレスに身を包んだ……少年。名をシャルローと言う。
 トラキアの宿将ハンニバルは老年となっても独身を貫いているが、その理由が稚児趣味の人だからというのは公然の秘密である。近隣の孤児院に赴いて有望な孤児を買い取って養子にしていた。実の子がいないのだから養子をとること自体は問題ないのだが、実情は可愛い少年を手元に置いておくための口実である。
 シャルローもその中の一人だったが、その才能を嘱望されてトラキア国内で注目を集めつつあった。10年後にはトラキア王国史上初の宮廷司祭の誕生かと噂されている逸材である。
 トラキア王国にはロプト教の勢力は勿論、エッダ教会すらまともに存在しない。最高司祭がグランベル六公爵に名を連ねるエッダ教を受け入れるのは内情を吐露するのに等しく、国策にそぐわないのが主な理由である。また、トラキア人は飛竜を神聖視する土着宗教に馴染み深いのもある。そして今日を生きるのが精一杯で明日の夢を叶えるために戦っているトラキアの民にとって信仰の対象そのものが不要だったからでもあった。ミサに出てやるから食料をよこせという要求にエッダ教会が応えれば信者も増えたのであろうが、トラキア王国に力を付けさせるなというグランベル王国の方針に逆らうことになるので施しによる布教活動ができなかったのだ。
 そんなトラキア王国だから、宮廷司祭などいるわけがない。癒しの術のために杖を持つ者はいるが、周囲の者はもちろんその本人自身もまたそれ以上の価値を見出そうとはしなかったのだ。その実情下でありながら将来の話とは言え候補に挙がっているのだからシャルローの資質には皆が期待しているのだ。
 そのシャルローが義父の元を離れてルテキア城に避難してきた。彼が女性ではないが、こういう服を着せている以上はハンニバルはシャルローをそう扱っているのだろう。つまりハンニバルはカパトギア陥落の可能性を暗に示唆しているのであり、シャルローはそれをディスラーに伝える使者なのであろう。
 "トラキアの盾"ですら防ぎきれないのなら、この戦いは非常に困難なものと言ってもいい。それでもなお踏ん張って戦うのならば、一発逆転を狙うか、講和のタイミングを計るか、時間稼ぎに徹して捨て石となるかのどれかだ。
「毛布と食事は手配する……だが遅かれ早かれさらに避難してもらうことになるだろう、君にはまた負担をかけることになるがよろしく頼む」
 カパトギアが抜かれれば、このルテキア城が危機に陥る。そしてこの城も不安材料が数多く、守りを固めても守りきれるかどうか怪しい。場合によってはこの城もまた遅滞戦術の駒としなるかもしれない。その際には更に奥地まで避難させなければならないが、彼女たちにとってさすがに体力的にも精神的にも無理がある。それでも歩いて貰わなければならないが、グルティア城まで逃がせば安全かという保証できない。
 それが分かっていてもそうしなければならないのだ。民を守れない軍が不甲斐ないだけなのだが、その不甲斐ない軍ができることは盾になることしか無い。逃がすための誘導や護衛のための部隊は出せても、彼女たちを励まして歩かせるリーダーにはなれない。まだ幼さが残る少年(少女?)に託さなければならないのは、シャルローの資質を信頼に足るからであり、ハンニバルの子として引き取られた運命によるものであろう。
 ただ、当のシャルローはあまりいい顔をしなかった。トラキア育ちには見えない品と気高さには表情に疲労の色は浮かばず、むしろこの城に留まろうとする意志の方が垣間見えた。
「ボクはコープルを見捨てて逃げることはできません、ここで将軍や父と共に戦います!」
 コープル。シャルローと同じくハンニバルの養子である。
 この血の繋がらない兄弟は仲が良かったが、才能面の出来については大きな隔たりがあった。
 シャルローは早くから未来の宮廷司祭と嘱望され、どう育成すべきか王城内でも熱い議論が交わされているらしいほどの逸材である……が、コープルには能力的に何の取り柄もなかった。ただ何かの偶然か不思議と悪運が強いというか未知の幸運に護られている節がある。半年前もマンスターまで人手の都合でやむなく使いに出されたことがあったのだが、案の定現地の軍に捕らえられたらしい。そして運良くリーフ王子の軍に救出されるという実績を残している。
 ハンニバル将軍は、解放軍との戦いに先立ってこのコープルを人質に差し出してこのルテキア城に幽閉させていた。それぐらいしか使い道が無かったとも言えるが、幸運に恵まれたコープルを捧げることでゲン担ぎの意味もあったのかもしれない。
 この場合の人質とは本来の意味ならば裏切り防止のために強制されることなのであるが、トラキアの宿将ハンニバルが裏切る可能性などあるわけがなかった。ただ、この宿将には国王に対して不退転の決意を表明するときにやたら息子の命を賭ける癖があり、王が口を開く前に率先して差し出したらしい。
 普通、人質は王城であるトラキア城に送られるものである。裏切ったケースを考えれば人質は手元に置いてあった方がいいのは当たり前だし、王城まで押し寄せてきた場合は盾としても使える。
 しかしコープルはあえてカパトギアのすぐ後にあるルテキア城に幽閉された。帝国領ペルルーク城へ続く地理的条件から治安の意味で牢獄が充実しているのもあるが、カパトギアから一歩も退かぬという決意の表れであろう……だがそこまではまだシャルローは分からないようだ。
「無論、ハンニバル将軍もトラキアの盾と言われた武人、最後まで我らと共に戦ってもらうぞ。だがカパトギアに死守命令が出ている以上、将軍がルテキアに撤退して来ることはあるまい。君はコープルのように王命で動いているわけでもない、危機が迫れば退去して貰う」
「そんな……」
 トラキア人は基本的に嘘をつくのが苦手である。現実を受け入れてなお夢を目指す人々にとって、方便で気を紛らわせることなど逃避に等しいし、逃げても状況が改善されないから前に進むしかない運命を背負って来たのだ。だから誤魔化すこともせずにまだ精神的にも未熟なシャルローにも現実を突きつけてしまう。
 死守命令とは撤退を禁止する命令である。逃げ腰にならず踏ん張って死ぬ気で戦うことを強制したわけである。
 メリットは軍の壊走を防ぐことが出来る点。逃げてはいけないのならその場で戦うしかない。自ら退路を断って必死に戦わなければ挙げられない戦果は確かに存在するし、思わぬ抵抗を見せれば攻勢も緩む。
 逆にデメリットは、撤退することによって戦力の温存ができなくなる点だ。撤退できなければ無理な防御戦を強いられて消耗するだけになる。現地の状況が分かっていない上層部がむやみにこの命令を出せば各個撃破の的になり全軍の崩壊に繋がりかねない。判断ミスは絶対に避けたいところだ。
 だがたとえ死守が誤りだとしても、実際には自国領に攻め込まれたときに先手を打って後退するケースはむしろ少ない。軍には機動力があるが民は基本的に動けないからである。特に今回のケースにおいては電光石火のカウンターでミーズ城を奪われたために時間的余裕が無く、カパトギア守備隊が民衆をルテキア城まで避難させながら一緒に後退するのは不可能である。軍が民を見捨てて下がるか、軍が捨て石となってその間に民を避難させるかのどちらかしかなかった。
 その判断を迫られたトラバント王はカパトギア城に死守命令を出した。つまり後者を選択したのである。
 この判断については全員が納得できるようなものではなかっただろう。ハンニバルは"トラキアの盾"と呼ばれるほどの防御戦の名手であり、軍の勝利のみを追求するのならば踏み留まるべきか後退するべきかの判断を彼に一任する方が間違いがない。だが王はそれよりも民の安全と生命を優先させたのだ。
 民を見捨てていいわけがないが、だからと言ってそのために軍を無駄に消耗していいわけでもない。特にトラキアの場合は運命を変えようとこれまで乏しい国力を軍事に注ぎ込んできたのだから、これの浪費は民の心血と期待を無駄にすることになるし、ましてや宿将ハンニバルを捨て石にするのは失うものが大きすぎる。
 しかし王はあえてハンニバルに死守を命令したし、宿将も王命を黙って受け入れた。

 二人とも分かっていたのだ――カパトギアは捨て石にしかできないことを。

Next Index