「このうつけが! 虚言に惑わされてあたら大事な兵を失って来るとは!」
 トラバント王の怒号がトラキア城に響き渡った。被害者となったアルテナを心配する者も多かったが、久々の光景に我が国もまだまだ大丈夫と安堵する者も多かった。
 アルテナには色々と事情があったが、トラバントは情状酌量というものをほとんど考慮しない人物である。それは彼が何よりもまず結果を出さなければならない運命を背負った人間だからこそであろう。反論の余地を与えないだけの迫力があった。
 アルテナはフィンとの内通も含めて全て報告した。自分の手落ちなのは確かであるし、マンスター城を掠め取られたのはまだしも、先遣隊を全て失った挙げ句ミーズ城まで奪われたことの説明を伏せたままでは不可能だったからだ。
 トラバントはアルテナの不手際について細かくは叱責しなかった。フィンとの密約を即実行するのが短絡的すぎたのが主な原因であることは、キュアンを討ち取って北進するまで綿密な準備を欠かさなかったトラバントにはすぐ分かった……が、原因は分かってもそれを直接叱ることはしなかった。
 父は多くを言わなかったが、アルテナは何を怒られているのか痛感した。兵を失った原因が自分にあること、それが分かっていても従ってくれたコルータや他の将兵を失ったことである。責任を負うことの重大さに押し潰されそうになっていたアルテナにとって、言葉で救ってくれようとしない父王の厳しさが辛かった。
「今、軍議中だ。我が国の運命を決める大事なものだ、おまえも参加しろ」
 父王はそれだけ言い放って出て行った。アルテナの帰還をアリオーン王子や主立った者が出迎えなかったのはそのためのようだ。
 アルテナの帰還を待たずともミーズ城が落城した報は届いているだろうし、アルテナからの情報と本人の安否は知りたいがそれまで待っているわけにもいかない。今やるべき事をやろうと軍議を開いているのだろう。
 そんな中、トラバントだけは軍議を抜け出して娘を出迎えた。最終決定権を持つ国王だから軍議の中途に在席していなくともよいからであるが、それは出迎えを妨害しない理由であって出迎えようとした理由ではない。彼は如何なる理由でわざわざそうしたのであろうか。
 あの怒号のように咎めたかっただけだろうか、失意の王女から情報を引き出すために軍議への参加を促すためだろうか、あるいは(あまり考えられないが)娘を気遣ってものだろうか。
「……」
 いつものように兄アリオーンと衝突するような覇気など残っていないが、軍議に出ないわけにはいかない。トラバントには情報を伝えたが、それを皆に伝えるような父王ではない。アルテナが知ったことはアルテナの口から発せられなければならないのだ。
――パァン!
 父王のだと思い描いて自分で頬を平手で殴打し、気合いを入れ直す。完全に立ち直れたわけではないが、引きずったままでは何も始まらない。何も考えられないなら、せめて誰かに託せなければならない。

 その軍議ではトラキア王国の方針をどうすべきか議論が紛糾していた。あまり口で言い争いする国民性ではないのだが、ここで舵取りを誤ると大変なことになるのは皆も分かっていた。そして慎重に議論を重ねるほどの時間も無かったため、静かに討議するのではなく白熱した舌戦が繰り広げられていた。理論立てて説き伏せるよりも熱意と勢いで寄り切ってしまおうという雰囲気だった。
 トラキア王国の選択肢は3つ。1つはミーズ城を奪回して解放軍を撃破し、そのまま北トラキアに再進攻をかけること。2つめはグランベル帝国に援軍を要請して守りを固めること。そして3つめは解放軍と停戦することである。

 最初の選択肢は日頃からアルテナ王女を支持していた層が唱えた。先遣隊は失ったもののアルテナ個人は無事に帰還したことも追い風となり声に張りと勢いがあった。
 注目は解放軍に旧レンスターのリーフ王子の一派も参加している点である。
 この軍を撃ち破ればリーフも倒すことができ、レンスター王子を失った北トラキアの民衆は意気消沈するに違いない。加えて、今まで北トラキアを統治していたフリージ家ひいてはグランベル帝国の支配に反旗を翻した以上は報復を考慮しなければならない。民衆は誰かの庇護を必要とするのだが、リーフ王子もセリス皇子も姿を消している。となれば槍騎士ノヴァの直系たるアルテナ王女を迎えるしか救われる方法はなく、北進は容易であろう。宿敵トラキア王国の支配下に入ることはなかなか納得できないだろうが、今さら帝国とロプト教に平謝りしてもただで済むわけがない。圧政が身に染みている彼らが更に苛烈な統治になるのを享受できるはずがない。
 問題は、勝てばリターンが大きいが、必ず勝てる保証がどこにもないのが難しいところである。これまでも北トラキア4王国軍やグランベルからの援軍に対しても絶対の勝算があったわけではない。しかし対解放軍に限って言えば、先遣隊を失いミーズ城まで奪われた負のみの実績が残されている。これに賭けるのは思い切りが良すぎるというか無謀に近い。先遣隊と本隊とでは軍の強さが違うし地の利もある……が、勝算があっての発言ではないし負ければ国家滅亡の危機だ。たとえ勝ったとしもトラキア側の被害が再北進が不能になるほど大きくなれば意味がない。
 なお、フィンとの内通話は棚上げに等しい扱いにされた。これに頼って先遣隊が壊滅した経緯からプランそのものに懐疑的な者が多いせいもあったが、フィンは偽王子殺害の手引きは約束したが解放軍を裏切る意思は見せてないのが響いた。舞台が北トラキアならば偽リーフを亡き者にする意味があるが、今は解放軍全体を撃退しなければならない状況である。解放軍を撃破すれば同時にリーフ王子を討ち取れる可能性があるわけだから、信用性に欠ける密約のために貴重な戦力を更に裂く必要がなかった。

 第二の選択肢は親帝国派のアリオーン王子と一部の知識階級が主張した。現状、戦況が良くない上に城の堅牢さに期待できない。耐えなければならない時期に脆さを露呈しているトラキア王国にとって援軍は必要不可欠である。本隊は北進予定だったから準備は整っているが、戦の速度を緩めなければならないタイミングで全軍を投入するのは正しい運用とは言えない。そこで帝国からの援軍を使って補強しようという策である。
 デメリットを挙げるならグランベル帝国との外交の難しさだろう。イザークと北トラキアを蹂躙した解放軍を共同で撃破すれば恩を売ることはできるが、それを鵜呑みにもできない。グランベルが恩義に篤いという話は聞いたことがないし、そもそも援軍を出してくれるという保証自体が無い。親帝国派のアリオーン王子には自信があるのかも知れないが。
 逆に、帝国と仲が良くなりすぎるのも考え物である。解放軍が国家規模の実体を持たないため、北トラキアから叩き出されたフリージ家はその統治権まで失ったわけではない。解放軍が壊滅すると、残った北トラキアはフリージ家の表札が掲げられた空き地ということになる。今度こそ労せずして奪えるが、一応は帝国の領土であるし今度は混乱に乗じてのものでもない。夢のためなら何でもやるのがトラキア王国だが、親密度が上がりすぎるとここで帝国と手を切るのが難しくなるのだ。
 それでも手を切って北トラキアを占領するのがトラキア王国らしいと言えるが、アリオーンがそこまで考えた上で主張するほど腹黒い人物でも悪名や不義理を厭わない人物でもないことは皆も知っている。となるとそのまま帝国と協調路線を貫き様々な譲歩を引き出そうという魂胆になるが、こちらはトラキア人の気風とは合わない部分が多い。
 援軍を求めるのは現実的な選択ではあるのだがどうにもその先が面白くない。民への負担を考えれば、勝っても得るものが無い戦争はやるべきではない。

 最後の選択肢として解放軍と停戦するという逆転の発想があるが、これは前者二案に輪をかけてあり得なかった。
 まずトラキア王国は解放軍が掲げる大義に同調する必要がなかった。帝国とロプト教による圧政の範囲外にいる彼らにとって、共に打倒しようと誘われて乗らなければならない理由など無いからである。昨今のロプト教の暗躍による社会的混乱が原因で生活必需品の輸入が滞りがちになっているため一応は被害を受けているとは言えるが、滞ったから打倒しようという理屈は極端すぎる。
 グランベルという大国に大打撃を与えれば北進の邪魔はされなくなるが、組む相手が同じくグランベル人であるセリス皇子では意味がない。新王朝を立てさせてやった代わりに北トラキアを寄越せ、または北進を見逃せという条件が受け入れられるとは期待しにくい。少なくとも逆侵攻を受けて不利な状況で出せるような条件ではない。
 さらに始末が悪いことに解放軍にはリーフ王子以下の旧レンスター王国の生き残りが参加しているため、解放軍と停戦してもセリス皇子はトラキア王国を優遇できない。半島を南北に分けて北は北、南は南、と線引きすることしかできないだろう。つまり領土的にメリットがないのだ。解放軍に参加すれば新生グランベルとは友好関係を結べる可能性は高いが、だからと言ってトラキアが貧乏から脱却できるよう産業の振興を支援してくれる保証はないし、たとえ約束しても信用できるとは限らない。
 帝国との協調路線にも同じ事が言えるが、仮にも十数年間の同盟関係を結んでいる帝国と比べて、帝国打倒後の青写真はもちろん人柄すら不明なセリス皇子にはさらに賭けにくい。聖者ヘイムはかつての聖戦でロプト帝国を打倒して英雄となったが、戦友であるダインとノヴァに対しての友誼はそれ以上は続かなかった。ヘイムがグランベル王国を建国した後は徹底的にトラキア警戒したために長い貧困の時代を過ごす羽目になったのである。
 つまりトラキア側にとって聖者ヘイムは現在の状況の元凶となった人物でもある。同じ旗を掲げるセリス皇子が同じように変貌する可能性も考えられるわけで、それを無視するのはトラキア人には難しい。好機を捨ててまで聖戦を手伝わされて、その挙げ句敵視されてはたまったものではない。
 せめてセリス皇子がどんな人物かだけでも知ることができれば考えようはあるのだが、逆侵攻を受けている状況では対話するという時間的余裕が無い。トラキア側にとって防御を固めたい時期に下手な交渉を持ち込んでも、解放軍側からは時間稼ぎとしか見えないので無視されることになるだろう。
 トラキア王国もセリス皇子と解放軍について調査しようとしたことはあったのだ。解放軍は北トラキアに侵入する際にあたりトラキア王国に挟み撃ちの共同作戦を持ちかけたことがあるし、トラキア側も北進のタイミングを計るために解放軍の存在を無視できなかった。だが超人的な勢いで北トラキアを蹂躙した彼らは調査が進まぬうちにミーズ城にまで雪崩れ込んできて現在に至っている。もしもマンスター城をトラキア軍が占拠できていれば、あるいはマンスター城は掠め取られてもミーズ城を死守できてさえいれば、戦線は少しは膠着するため調査の時間も対話の時間も作ることができたに違いない。
 メリットやデメリットというより、不明な部分が多すぎるのがこの選択肢の難点である。良い方の可能性に全てを託さなければならないほど状況が悪いわけでもないし、これでデメリットの方が多いければ判断ミスでは済まされない。かと言って明確にする時間も無いしその頃には状況も変わっており、全てを託さなければならない状況に陥れば停戦してもメリットが無い。
 よって、トラキア王国の一握の夢を叶えるために停戦することはできないのである。そういう状況を作らされたという点で解放軍のせいと言ってもいい。

 和平を唱える声が最初に消え、自力で対処するか帝国の力を借りるかという点に絞られた。自力で勝てるかどうかは最前線で必死に防衛線を構築しているだろうハンニバル将軍ならよく分かっているだろうが、この事態で呼び戻す余裕などないし、勝てないから援軍を呼んでほしいと言うようなタイプではないので聞いても参考にならない。
 この軍議中、アルテナは自己主張をしなかった。普段の彼女であれば無謀に近い急戦を唱えてアリオーンと衝突していたに違いないが、今の傷心ぶりでは難しいようだ。ただそれでも出来るだけ、今の彼女で可能なだけ情報は提供した。周囲も心配する表情は浮かべたが、アルテナがこんな状態だから今すぐ決戦を挑むのは控えようとは誰も言い出さなかった。トラキア王女ならば、トラバント王の娘ならば必ず立ち直ってくれるという信頼と現時点での努力を買っているからこそだろう。
 そんな臣下と国民の喜怒哀楽を背負い込んだアルテナに対し、王太子アリオーンには今ひとつ華がなかった。竜騎士としては父王トラバントに匹敵する腕前と言われ、頭脳の面でもバーハラ留学の成果か聡明な面を数多く見せる。容姿体型も申し分なく、一個人の男性としては非の打ち所が無い……のだが、何故か彼には熱狂的な支持者がいなかった。
 もしもアリオーンが能力に見合った支持を集めていれば、この軍議は彼の案ですんなりと纏まったであろう。対抗馬であるアルテナがあの状態で対立しないのだから、本来ならば王太子であるアリオーンの意見を止められる者がいるはずがないのだ。最終決定権を持つ国王トラバントは今の段階で口を挟むことはしないし、宿将ハンニバルは最前線にいるために不在。これでさらにアルテナが沈んだままであるのに、アリオーンは軍議をリードしきれなかった。
 彼の主張することはもっともな話ではあるのだが、理に適っているからと言って理詰めで説き伏せられるものではない。特にトラキア王国は夢の実現ために様々な不条理を厭わずに無理してきた歴史がある。アリオーンは王家の者でありながらその宿命に囚われない柔軟な人物であったと言えるが、それが周囲に理解されるかどうかはまた別問題である。
 そんな不毛な時間がしばらく続くと、結論が出ない軍議に業を煮やしたのか、黙って聞いていたトラバントがいきなり席を立った。
「もういい、好きにせよ。援軍の要請は儂がやっておく」
 それだけ言い残して出て行ってしまった。
 アルテナに対した時のように、アリオーンに対しても同じように突き放したのだ。
「……」
「……」
 父親の仕打ちは似たようなものだったが、意味合いまで同じだったのだろうか。
 アルテナには止まった足を再びを踏み出させるように突き放した。まず目の前のことと相対させるよう軍議に出席させ、急戦派の意見が完全に封じ込まれる前に閉会させたためにアルテナには再出撃の可能性が残った。それしかやれることは無いのだが、とにかく再び竜騎士隊を率いてトラキアの空を舞う時が来るかもしれない。
 一方でアリオーンには独自に動く自由を与えるよう突き放した。援軍の要請をトラバントが行うということは、アリオーンの主張はとりあえず認められたことになる。そしてそれ以降の調整は親帝国派のアリオーンがやるしかなく、好きにせよということは周囲の者がアリオーンを阻止しないことになる。
 解放軍と戦って勝てるかどうかは分からない。帝国と結んで明るい未来が待っているとは限らない。だがどちらも前途多難ではあるが光は見えるし、二人はそれぞれの光を追い求めるしかなかった。

 王子と王女がそれぞれ独自に動くようになったのは、得策だったのだろうか。
 沈んでいたアルテナを引き戻すことはアリオーンにはできなさそうだった。毎日のように反りが合わない意見と情熱をぶつけ合ってきたこの兄妹は、かつてのダインとノヴァのように対等の立場でしか成立しない関係なのかもしれない。
 しかし今のアルテナの状態では二人は対等と呼べそうにないだろう。アリオーンが場を支配できなかったのは、アルテナに異状があったからもあった。彼は王子としても兄としても男としてもアルテナを一方的に包容することは望んでいなかったからではないだろうか。そしてアリオーンにはアルテナを元のアルテナに戻す術を知らなかった。
 トラバントは、二人を干渉させないことで解決策とした。
 とりあえず二人が動き出すことと、いつかまた対等に突きつけ合い、時には背中を預け合うようになることの大きさ――統制がとれないデメリットが何だと言うのだ。
 ダインの血と天槍グングニルの継承者となる兄アリオーン、ノヴァの血と地槍ゲイボルグを受け継いでいる妹アルテナ。二人が手を取り合えばトラキア王国の唯一の夢が叶うのは決して夢物語ではない。

 強烈なリーダーシップを発揮して強引に纏めてしまう手もあった、というよりも普通ならばそうするであろう。
 だがあえて自主性を選んだのは、トラバントがそういう国王だからだろうか、あるいはそういう父親だからだろうか……周囲からはそれを窺い知ることは出来ない。だが理由が何であったとしても、これが失策となった。
 親の心子知らずとはよく言ったもので、二人の子供たちは父王の真意に最後まで気付かなかった。
 そう、アリオーンとアルテナの祖先であるダインとノヴァの兄妹――この二人を待っていたのは悲劇だったのだ。

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