「トラキアは何もないところだそうだ、各人は綿密な準備を怠るな。現地で飢え死にか凍死しても不名誉にしかならんぞ、では解散!」
 シアルフィ城――
 出撃準備にとりかかったムーサー将軍の声が響くと共に、この城に特別な活気が沸き起こり始めた。
 戦乱か平和どちらがいいかと聞かれれば戦争など無いに超したことはないが、戦仕度がもたらせる独特な活気というか放出されるエネルギーに肩を並べるものがないのもまた確かであった。戦に赴く者、それを見送る者、帰りを信じる者……城全体が一つの物事に向き合って心鎮まらないということは他になかなか無いものなのだ。

 この城、シアルフィ城から戦に出るのは実に20年ぶりの出来事である。
 "大逆公"バイロンがイザークの地に向けて遠征し、"狂公子"シグルドが大陸制覇の大長路に出た、あの年である。ユグドラル大陸全土に武名を轟かせ続け、シアルフィ騎士団グリューンリッターは僅か3年で世界最強の地位へと登り詰めた。
 だがバイロンもシグルドも、ついにこのシアルフィの地に凱旋することはなかった。鋭すぎた刃は忠誠を誓うべき主君をも傷つけ殺めてしまったために騎士団は消滅し、シアルフィ公家そのものも取り潰しとなったのである。領主を失った旧シアルフィ公家領は皇帝直轄領となり、新たな主を迎えて再建への道を歩むことになった。
 やがてその皇帝が移り住んできてそれこそ領主のように身近な存在になると、民衆は新生グリューンリッターの活躍を求めるようになり始めた。
 騎士として生きるのであれば、勲も誉れも本懐も戦であるべきだ。同じ剣を振るうにしても反乱分子の鎮圧では味気ない。日頃の鍛錬を積み重ねる以上、その使い道を夢見るのは当たり前な話だ。
 しかしグランベル帝国は763年のアグストリア征伐を最後に遠征を行っていない。大陸統一の偉業を達成して大きな敵対勢力が無くなったのが主な原因で、大規模な戦争など誰かが謀反でも起こさない限り発生のしようがなくなっていたのだ。皇太子派の専横とロプト教による弾圧が過激になると武器を取って立ち上がる者が続出した……が、それの討伐は戦争と呼べるほどの規模ではなく、相手もまた歯応えがあるほど訓練を積んでいることもまずなかった。
 騎士にとって戦がしたいという欲求は不要であると同時に必要不可欠でもある。日頃の鍛錬を積むのは目的があってこそであり、そのためになら鍛錬の苦痛にも耐えて来られたのだ。
 だが存在しないものを追い求めてもありつけるはずがない。強いて言えば自ら起こすしかないのだが、帝国に反旗を翻せるわけがない。
 とにかく、欲求不満が蓄積する彼らであるから、戦に出たいかという意識調査に対して「熱望する」と答えるのは自然の流れであった。その話をいち早く受けてきた領主であり皇帝でもある主に深い感謝の念を覚えたのも無理はなかった。
「トラキア王国領に賊軍が侵入、至急援軍を送られたし!」
 セリス皇子率いる解放軍は、北トラキアからフリージ公家を叩き出すとその南のトラキア王国に雪崩れ込んだ。これに対してトラキア王国はグランベル帝国に援軍を求めたのである。
 これを受けて皇帝アルヴィスは援軍派遣を確約し、即日中にムーサー将軍に出撃命令を下した。
 とはいうものの、大陸の覇者たるグランベル帝国でも南トラキアでの戦争経験は無い。援軍を求めたトラキア王国には道案内をする義務があるが、合同演習などやったことがない同盟者と共同戦線を張るならば自前の準備を欠かすわけにはいかないし、全面的に信用できる相手でもない。準備に取りかかるのは早かったものの、実際に城を出てトラキアに向かうにはもう少し時間がかかると思われる。

 この動きに敏感に反応した者たちがいた。帝都バーハラにいる皇太子派である。
 彼らが皇帝を帝都バーハラからシアルフィへと追いやったのは帝国の全権を握るためであるが、今回は地理的に不利な条件が作用してしまった。
 トラキア王国がグランベル帝国に援軍を要請するのならば、直近のペルルーク城に駆け込むのが当然である。ペルルーク城はそれを受けて帝都に向けて早馬を飛ばすわけだが、ミレトスにあるペルルーク城からバーハラに向かおうとすればどうしてもシアルフィを経由することになる。仮にも皇帝が統治する城であるから素通りはできない。
 つまり、皇帝は帝都に向かうはずの情報を横取りしたのである。そして帝都に何も知らせることもなく承諾の回答と援軍派遣準備を実行してしまったのだ。
 皇太子派にとって、皇帝に反逆の意図があるかどうかは最重要事項である。皇帝が反逆するという言葉自体が矛盾であるが、実権を握った彼らにとって皇帝も皇帝派も過去の存在であり不穏分子の一つだからである。
 シアルフィで領主として隠居生活を送るのであれば命まで取ろうとはしていなかった。ロプトウスの化身たる皇太子ユリウスの父でありロプトの覡であるアルヴィスは、ロプト教会から一定の敬意を受ける資格があったからである。
 だがそれはあくまでも大人しく引き籠もっていた場合の話である。皇帝の権威を振りかざしてロプト教の活動を妨害するのであれば粛正されなければならない。
 今回の一件にその意図があるのかどうかが焦点となった。外交について最終決定権を持つのは皇帝であるし、即時の判断が求められる状況にあったのも確かだ。だがそれを隠れ蓑に何かしようと企んでいるのではないか――と不審を買われたわけである。
 仮に何か企みが無かったとして、純粋にグランベル帝国の皇帝としての場合、援軍を出した事によるメリットは何か。
 普通に援軍を送って解放軍を撃退できた場合、得られるものはトラキア王国との関係強化ぐらいであろう。あの貧乏国が莫大な謝礼を支払ってくれるとは思えず、どこまで誠意が含まれているか不明な感謝の言葉ぐらいしか貰えそうにない。狡猾なトラキア王国なら頭を下げるのは無料と考えていてもおかしくなく、利用されるだけに終わって関係強化にすら繋がらないかもしれない。
 他に考えられるとすれば、トラキア王国内を行軍することによって現地の情報の獲得であろうか。グランベル帝国には険しく貧しいトラキア王国を征服する価値はないが、攻める可能性が完全に
ゼロにしてしまえば外交面で舐められることになる。何をやっても攻めて来ないのならば、何をやっても許されるということになる。それを後ろ楯に増長した態度を取って来ないようにすることは必要なことだ。援軍を派遣して南トラキアの地形を調べておくのは恒久的な財産になる。従来ならば遠征せずとも経済封鎖によって深刻なダメージを与えられたが、解放軍によって帝国は北トラキアを失ったために今後に不透明な可能性を残している。解放軍はもちろん撃滅する予定だが、その後にトラキア王国の北侵を防げるだけの防衛体制を北トラキアに築けるという保証がない。そこで南トラキア進攻を意図があることを知らしめちらつかせれば、全戦力を挙げての北侵ができなくなるため勢いが弱めることができる。
 ムーサー将軍にそれだけの指示を出しているのかは不明だが、帝国にメリットは少なからずあるようだ……そして一方でデメリットはどうか。
 まず前述の通り、援軍を出しても見返りが期待できないこと。それ以前に同盟国ではあっても仮想敵国でもあるトラキア王国を助ける義理がない。
 正直なところ、解放軍とトラキア王国が共倒れになってくれたら最上の結果であるのだ。別に南トラキアが空白地になっても困ることがないし、そのまま放置しても全く構わない。帝国の脅威が一度に二つも消滅するのならばこれ以上の喜びはない。トラキア王国は帝国打倒までは考えておらず解放軍の方が脅威ではあるが、まがりなりにも百年の歴史を誇るトラキア王国と国家としての組織が確立されていない解放軍との差は長期的に見ると大きい。
 つまりどちらかが一方的に勝つのは帝国にとってあまり都合が良くないわけであり、ムーサー隊はそのバランス調整のために送り出されたとしてもおかしな話ではない。
 以上から、帝国にとって援軍を派遣すること自体は美味しくはないが意味はあると言ったぐらいであろう。
 だからバーハラは皇帝の判断を追認してもいいのだが、これを皇帝が独断で行って自前の戦力を供出した理由が分からないまま残った。生真面目で白黒ハッキリしている面があるアルヴィスのことだから「同盟を結んだからには盟友」という観念があるだけなのかもしれないが、要らぬ波風を立てずに皇帝としての意見を添えてバーハラに使者を送れば済んだ話である。言い換えれば、皇太子派に警戒されてでも独断で動く必要があったことになる。
 しかし帝国ではなく皇帝がトラキア王国と関係を強化しても得られるものはほとんど無い。反旗を翻したときに戦力となってくれるのを期待して……であれば皇帝も老いたとしか言いようがない。トラキア王国側からすれば援軍には感謝しても皇帝個人のために協力する義理など発生しないからである。もしやるとすれば北トラキアの統治権でも与えでもしないと乗らないだろうし、そこまで譲歩するのならば今の段階で恩を売らなくても飛び付いて来るだろう。
 ……結局のところバーハラ城内では、理解不能だから追認してもいいかという考え方と、理解不能だから援軍を阻止しようという考え方の争いになった。皇帝が現れて意図を説明することもないし促そうとする動きも起こらなかったために不毛すぎる議論に結論が出るはずがなかった。皇太子ユリウスがどちらかを選べばそれで決まったのだろうが、不毛な議論を見て楽しもうとしたのかどちらかに纏める気が無かったように見えた。また、皇帝を妨害したくはないが皇太子派による粛正も怖い面々が少なからずいたせいもあるだろう。
 ここで即座に動いた皇帝との差が出た。ムーサー隊が準備を進めている間に結論を出し切れなかったために皇太子派は時間切れによりやむなく追認するしかなくなった。皇帝の監視を強化することと、ミレトス城にザガム司祭を派遣してミレトス方面の情報がシアルフィに流れないように努めることで今後の対策とした。

 皇帝の意図を読める者は誰にもできなかった。
 だが彼を警戒する者は知っていた、彼は一時代の勝者であったことを。
 皇帝アルヴィスの威光と潜在的脅威――その前には解放軍の快進撃も些細なことであった。

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