トラキア城――

「父上……!? 貴公、父上を知らないか? 朝から姿が見えない……」

 国王トラバントの姿が消えた。
 『三頭の竜』作戦の決行を決定し、その翌朝――その指揮を担うはずだったトラバント王の姿は寝所に無かったのだ。
 城内の捜索の結果、トラバントはトラキア城には無く、国王騎フレスベルグに騎乗しどこかの空に飛び去ったことまでは分かった。

 だが、この調査結果には明らかに不可解な点が2つある。

 まず、トラバントは竜騎士ダインの末裔でありながら、その神器である天槍グングニルを持って行かなかった。トラキア王家の至宝が国王の手から離れたのだ。
 トラバントならば敵陣に単騎斬り込むことはどれだけ無謀であってもあり得ない話ではないが、いかに大陸最強の竜騎士であるトラバントといえど所詮は人間である。グングニルが無ければ生還の可能性は間違いなくゼロであろう。
 グングニル無しでは死にに行くようなものである。斬り込めば命が無いのが分かっているのに死地に飛び込む理由が無い。あの不撓不屈の権化が疲れたので死にたくなったとかあり得ない。
 だが、敵陣に向かったのでなければさらに想像がつかない。乾坤一擲の反攻作戦を指揮するトラバントが姿を消すことはトラキア王国がその機会を失うことであり、打開策を自ら放棄することになる。三頭の竜作戦よりもさらに良い作戦を思いついたのならば国王権限で撤回すればいいし、トラバントに限ってまさか臆病風に吹かれて逃亡したとは思えない。
 トラバントがどこに向かったのか正確な情報は無い……が、どこに行ったと仮定しても納得できる理由が思いつかないのである。

 もう1つは、国王が姿を消したにも関わらず、その後を追った竜騎士が誰もいないということだ。
 深夜から朝までの間に消えたのは確かだが、皆が眠りこけている間に夜陰に乗じて飛び去ったというわけではない。
 事実、三頭の竜作戦のために深夜まで軍議を続けていて、そのまま朝まで寝ないで準備に取り掛かっていた者も少なくない。ただでさえ戦争中のトラキアは夜間警戒も強めており、あの雄大な黒い飛竜が飛び立てば気付く者も多いはずである。
 国王が単騎飛び去って行くのを見て、誰一人追うことなく全員が見送る国家があるだろうか?
 トラバントの気性的に、配下に何も言わず単騎出撃して配下が慌てて追いかけていく光景は考えられる話である。だからトラバント王が飛び立てば誰かは後を追うはずであり、全員が居残っているのは話が合わない。

 この真夜中の出来事を、アルテナは感知していなかった。
 心療的に復調できず、三頭の竜作戦の指揮官を務められず父王に委ねてしまった自分を恥じて悔いて、枕を濡らしているうちに眠り落ちてしまっていたからだ。
 朝になり目覚めると、父王がいない……周囲の兵士に尋ねてもすぐには有効な回答を得られなかった。グングニルがあり、フレスベルグがおらず、そしてトラバントがいない、ということだけだ。

「兄上……あなたか!」

 トラキア王女としての情熱を取り戻せないままのアルテナであるが、話を総合すれば何が状況を隠しているのか思い当たった。
 トラバントが飛び立ったのを誰も追わなかった理由、それは追おうとするのを誰かが制止したからである。そしてトラバントやアルテナを除いて竜騎士たちを束ねられる者は一人しかいない。
 思い返せば、父王に出撃するよう話を勧めたのはそのアリオーンである。ミーズ城を奪われた際に奪回反攻ではなく帝国に援軍を求めて守備を固めることを唱えた慎重派であるアリオーンが、竜騎士全軍を投入する三頭の竜作戦を提案するのはスタンスが変わりすぎだ。こんな大勝負に出たがるのはむしろアルテナの方であり、アリオーンは冷水を浴びせる役目を担うのがトラキア王家の日常であった。
 冷静で慎重なアリオーンの頭に熱が上がったとは考えにくい。となれば、アリオーンは何らかの意図があってこのタイミングでの三頭の竜作戦決行を提案し、アルテナに大役が担えないからとトラバントに指揮を採るよう勧め、そして国王の出撃(?)の後を追わないよう制止したことになる。
 それだけ拾えば、アリオーンがトラバントを亡き者にしようとしたとしか考えられない。そこまで考えれば、トラバントがグングニルを持って行かなかったのも繋がる。だがアルテナから見て、兄と父はそこまで不仲ではない。

「……いや、全て父上が決められたとおりだ。父上は『あとはお前の好きにせよ』と仰られ、誰も後を追わせないようにとも指示された。グングニルを残して行ったのもそういう意図なんだろう」
「嘘だ……っ!」

 アリオーンは自分も未関与ととぼけなかったが、代わりに全てトラバントが自ら決めたことだと全ての責任を押し付けた。
 アルテナはそのシーンを見ていない。父王が出撃時にそう言い残す可能性はゼロではないが、死ににいく可能性がそもそもゼロなのである。
 アルテナにとってトラバントとは、貧しいトラキア王国の運命を背負い自己の不利益を省みず愛したトラキアの大地のために前進し続ける、という理想のトラキア国王像である。実の子ではないアルテナが成長するにつれトラキア王家に相応しい情熱を燃やせるようになったのは、そういったトラバントの姿を見て育ったからである。そんな父王が自ら命を投げ出すとは到底思えなかった。
 もしも仮にトラキアのために命を今捨てることに意味があるとして、それを全て黙認したアリオーンの対応はおかしい。いくら付いて来るなと厳命されたとしても、アリオーンは国王が単騎が出撃するのを止めなかったし、配下にこっそりと後をつけさせることもしなかったのである。国王命令は絶対であるとしても、王であり父であるトラバントを黙って見殺しにしていいわけがない。
 
「父上の意図は私にも測りかねない。グングニルが残っている以上、私に後を継がせるつもりなのは間違いない。これより私がトラキアを守る、アルテナはもうしばらく休んで調子を取り戻してく……」
「嘘だ嘘だ……っ! 兄上は……父上を殺したんだ!!」

 百歩譲って、トラバントが死にに行ったとして、アリオーンがその意図を全て察知したのならば話は通る……が、トラバントが何のために自ら死を選んだのかアリオーンは語ろうとしないのである。
 トラバントの一握の夢はトラキア半島を統一し、貧しいトラキアの民を救うことにある。グングニルがそのための武であるならば、アルテナが受け継いでいるゲイボルグは北トラキア吸収に必要な政の部分である。旧レンスター王国の神器である地槍ゲイボルグはレンスター王女アルテナの身分証明としてこの上ないものであり、北トラキアの王権を主張できる切り札である。
 だからこそトラバントは17年前にイード砂漠でキュアンとエスリンを撃破したときに幼いアルテナを殺さずに連れて帰って養子にしたのである。道具といえば聞こえは悪いが、トラキア王家にとってアルテナは必要不可欠な存在である。その自負がアルテナ自身にもあったからトラキア王家の一員として相応しい人物になろうと努力し練磨し情熱を燃やしてきたのだ。
 だがアリオーンの物言いでは、アルテナはトラバントが託した相手の範囲内にいない。「トラキアを守るのだ」と言い残した相手がアリオーンのみというのをアルテナは受け入れられなかった。
 厳しかった父だが、アルテナにとってトラバントは唯一の父親である。実父は違う人物であることは知っていてもそれはあくまで系譜上のことであり知識上の存在に過ぎない。アリオーンとアルテナの兄妹が手をとりあって次世代のトラキア王国を担う……ダインとノヴァのように。アルテナはそう信じていたのだ。
 その結果、アルテナはアリオーンの言を嘘と断定した。自分の存在意義を失いたくないのと、事実だとしてもトラバントがそうする明確な理由が考えられないのと、アリオーンが淡々と父王亡き後をまとめようとする姿に親子の情愛を感じられなかったせいだ。
 トラバントがアリオーンにそう言い残したかどうかアルテナには確証が無く、事実を裏付ける証言も無い。言い換えれば全てアリオーンの虚言という可能性もあるのだ。

 これがアリオーンのつくり話だとするならば、では真実はどうなのか。
 1つはトラバントが本当に自ら死を選んだ可能性。もう1つはアリオーンによる陰謀の可能性である。

 前者の場合、トラバントが死ぬことでトラキアに何らかの恩恵がある。あの国王が自ら命を捨てるならば、トラキアのためにそうするだけの価値と打算と情熱があるはずだ。
 しかし、それだけの利益がどこにあるのか見当がつかない。アルテナの目線では、戦争責任者であるトラバントが世を去ることで解放軍との停戦が可能になることぐらいしか考えられない。停戦案そのものはアルテナ自身も提案したことがあるが、国王の命を代償として捧げてまでの価値があるわけではない。それに単に停戦するだけならわざわざ死なずとも退位を条件としても成立しうる話である。
 愚直なアルテナには、それ以外の理由が思い浮かばない。トラキア国民は自分たちが戴く国王が自ら傭兵に身を落としてまでトラキアの大地のために戦ってきたのを知っている。その王が死ぬとしたらやはりトラキアのために死ぬのは間違いない。だが、その王が死ぬことでトラキアに何をもたらされるのかまるで分からないのだ。
 才能の面でアルテナは父王に遠く及ばないと自分でも分かっている。国王として重責を担うことも、国民すべての生活と夢を背負うことの大きさを正確に想像することすらまだできていない。人間いつか死ぬものだとしても、トラキア王の子として努力してきたとしても、アリオーンと共にいつか父王の次の時代を受け継がなければならないことにまだピンと来ていなかった。それが甘いといえば確かにそうなのであるが、大なり小なりアリオーンも同様であり、そんな子供たちに任せて死ぬ決断が可能であろうか? それだけの利益があるならまだしも、それが何か明らかにならない。

 となればアルテナが行き着いたのは後者しかなかった。
 アリオーンの画策だとするならば、アルテナが軍を率いることが出来ない状態なのを見越した上で大きな作戦を提案し、父王に引き受けさせる。何らかの方法で単騎先行するようにそそのかし、後を追うはずだった配下たちを静止して父王を死に追いやった――という解釈も可能である。
 アリオーンの言い分がそのまま正しいとしても引き止めなかった罪を問いたいアルテナであるから、苦渋の決断の素振りを見せないアリオーンに不信感を抱かずにいられなかった。

「落ち着けアルテナ。父上がどうなったか決まったわけでもない。情報が確定してから話を聞こう……私も整理したいことがある」

 アリオーンは追及を避けた。
 積極的に父を殺すつもりは無かったが、除きたいと思わなかったと言い切ることもできなかったからだ。
 グルティア城に駐在するロプト教のジュダ司祭に接近した際、トラバント王の排除を条件に挙げられた。ロプト教会は勢力圏拡大のためトラキアに親ロプト政権が誕生したほうが都合が良く、アリオーンが玉座につくことを望んでいた。トラバントはロプト教会から見ても「油断ならぬ危険な男」であり、神の威光を意に介さない人物と関わるのは障害が多いという評価であった。光を教える宗教にしても闇を崇める宗教にしても、聖職者や敬虔な信者にとっては異教徒よりもむしろ無神論者のほうが嫌悪するものである。
 呆然と話を受けたアリオーンであったため、具体的プランは無かった。あの父王が退位や隠居するわけがなく王の肩書きを失えば失ったで今度は何をやるのか皆目読めないためロプト教会の期待に応えられない。
 ただ1つ、『死』こそ絶対の真理である――邪教と付き合いがあるからこそ、この観点が浮かぶのが早かった。死んでもらうしかトラバントを排除する方法がないのだ。
 とはいえ、毒を盛って殺したとしても、国王が病死したと発表して皆に納得してもらえるわけがない。王の威風を皆が知っている以上、病に倒れるなど考えられない話なのである。同様に、飛竜から落下して命を落としたという事故説もあまりに馬鹿げた死因である。
 そう考えれば、『戦死』以外に相応しい葬り方はない。しかし実際の戦争において国王が出陣して討死にするケースは本来は稀である。王の命は最優先事項であり、何よりも守らなければ存在である。ましてや高空を舞う竜騎士である国王の撤退が間に合わない展開となるとまずありえない話だ。
 となると、国王自ら兵を率いる必要があり、安易に撤退できない難しい戦闘が求められることになる。それでも逃げる国王のほうが世の中多いが、トラキアの全てを背負い続けてきたトラバントは祖国の命運を賭けた大勝負ならば絶対に退かない――という打算のもと、アリオーンは三頭の竜作戦決行を進言したのである。
 アリオーンは父王とは別に不仲ではない。宮廷内では自分よりもむしろアルテナのほうが人気が高いことは知っていたし、それを特に気にすることもなかった。トラバントと気性が似ている方が支持されるということを心から納得できるぐらい父王が偉大だと分かっていたからだ。
 厳しいが尊敬する父王を亡き者にする……普通なら誰でも躊躇するが、アリオーンは意を決したらもう迷う余地がなかった。
 トラバントの治世はいろいろと情状酌量の余地が数限りなくあるが、冷淡に見れば大きな結果は出せなかったと言える。王が無能だからという理由は無いが、とにかくトラバント王では悲願の達成は無理だとアリオーンは悟ったのである。セリス皇子率いる解放軍の反乱に乗じての進攻に失敗した以上、もう今の外交スタンスでは好機はないとアリオーンは踏んだのである。
 解放軍と組むのはリーフ王子が存命な関係上、報酬として北トラキアをもらうのは不可能な話である。帝国軍と組んでセリス皇子を討ち果たしたとしても、トラキアに豊かな領土を与えて今後の脅威とさせるのを認めるグランベルでもない。結局はトラバントのときと同じように、次世代も戦争で決着をつけるしかない結末しかないのである。
 そんな袋小路でもなおもがく父王や義妹が眩しいのは確かだが、同時に愚かでもあった。アリオーンは対外戦争による悲願の達成ではなく、自国産業を育てることにより貧しい民を救おうとしたのだ。
 それに協力できるのは、勢力軍事的や経済的な打算を要しないロプト教会だけであり、そのために父王を殺すことが必要ならば躊躇などしていられなかった。外征と内政という大きな違いはあるにせよ、トラキアの大地のためならば親を平然と殺せる強い信念はトラバントとアリオーン両者に共通する因子であり、血の繋がった親子である何よりの証明でもあった。

 トラバントがアリオーンの提案に乗ったのは何故なのか誰にも分からない。
 アリオーンがアルテナに説明した内容自体はほぼ事実である――トラバントはアリオーンの腹の中を読み取ったのか、あるいはさらに上を行こうとしたのか、グングニルを残し単騎で出撃したのだった。アリオーンにとってアルテナ同様ここが腑に落ちなかった、こんなことまで言っていないのだから。
 政治面で祖国を生まれ変わらせるつもりのアリオーンにとって、自分が玉座に登るとき天槍グングニルは必須のものではない。ダインの聖痕を受け継ぐ者として神器が欲しくないといえば嘘になるが、それを惜しんで正直に「グングニルでなく銀の槍で出撃してほしい」と言って渋い顔をされれば水の泡である。グングニルが失われて継承できない点は妥協できる部分として呑み込んだ。
 だが、トラバントはアリオーンが何も言わずともグングニルではなく銀の槍で出撃したのである。出撃したまま帰って来ないで欲しいとはアリオーンの本音だが、グングニル無しでとなればもとより死にに行くつもりだということになる。

 場合によっては騙してでもと話を持ちかければ、全てを読み取った上で何も言わずただ死んでいった――そんな雰囲気さえ残した父王。
 あまりにも話が出来すぎていたため、アリオーンはアルテナに真実味あるように伝えることができなかったのだ。
 なぜトラバントが素直に死を受け入れてくれたのか、自ら捨て駒となることを選んだのか、アリオーンにも理解できなかった。トラキアの一握の夢のためという大方針から逸れることはないのだろうが、アリオーンの意図に沿うつもりだったのなら国王として国策として採用すれば良かった話である。
 アリオーンにもアルテナにも謎かけを残したまま消えたのは、ふたりの子が思い描くトラキアの未来のどちらでもない何かのためなのだろうか。

 トラキア国王トラバント。
 愛したトラキアの大地のために何を最後に成し得たのか――それをふたりの子に伝えなかったのは、自分の背中でトラキアの運命を背負い、その足で歩むことがトラキア王家であるというメッセージだったのだろうか。あるいは、彼が孤独な王だったからだろうか。 
 トラキア半島の災厄の歴史と同一視される稀代の英雄は、死後もなおその威風によって皆を畏れさせた。彼の死はトラキアの運命を変えたのである。

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