トラキア王国。
 この国が貧しいことは誰でも知っているが、建国時から貧しかったというわけではなかった。
 初代国王はダイン。神より天槍グングニルを与えられた聖戦士である。そして彼には妹がいた。ノヴァという名の、これもまた地槍ゲイボルグを与えられた聖戦士である。
 兄と妹は仲が良く、トラキア半島に国を作るときに共同統治者となった。半島南北の風土の違いを考えれば、統治者は2人の方が都合が良かったのかもしれない。二人は話し合って、兄ダインは南を、妹ノヴァは北部を治めるように役割分担した。
 もしも逆であれば百年経ってもなお1つの国であったかもしれない。ダインもノヴァも打算があってそれぞれを選んだわけではなく、竜騎士であるダインは飛竜が住まう南トラキアの方が自分に相応しいと思ってのことであり、馬を駆るノヴァは平野部が多い北部を選んだだけであった。
 悪く言えば二人とも政治的に聡明というわけではなく、兄妹が手を取り合って頑張ればきっと豊かになるといったぐらいの、熱意だけが先攻する国王と共同統治者であった。
 スタート当初は非常に上手く事が運んだ。ロプト帝国を打倒して復興に取り組んでいるトラキアの民にとって、ダインとノヴァの前向きな姿勢は労働意欲を大いに掻き立てる存在であっただろう。しかし出る杭は打たれるものであり、政治とは内的にも外的にも邪魔が入る要因が多いものであった。
 トラキア半島の成功を警戒したのは、かつてはダインとノヴァの戦友であったグランベルの聖戦士たちであった。特に国王ヘイムは、一般的に聖者と呼ばれているが実のところはかなり猜疑心が強く、ロプト帝国と戦っている間でさえも他の聖戦士に気を許さなかった。ヘイムがグランベル王国を建国したときにダインとノヴァ、そしてヘズル、セティ、オードの計5人がヘイムから離れたのも当時からの諍いがあったからである。
 そんな因縁もあり、ヘイムはトラキア王国の成長に警戒心を抱くのも自然な流れとなった。自分に忠誠を誓うことを良しとしなかった以上、将来的に敵対する可能性があると言い換えられるからだ。
 グランベル王国はまず、トラキア王国は南北の緩い共同体であることと、ダインとノヴァの間に絶対的な上下関係が無いことに着目した。次いで、北部の各領主を炊きつける政治工作を始めた。
 北部の民衆にとって、南部の存在意義を明確に答えるのは至難であった。竜騎士の精強さは知っているが、ロプト帝国を打倒して平和が訪れたと喜んでいる(あるいは喜びたい)彼らにとって戦争するという考え方自体が無かったし、考えたくもなかった。軍事行動と言えばロプトの残党狩りぐらいなもので、本格的な戦争が起こらないとすれば強大な軍事力は不要である。
 というところまで行き着くと、軍事的には精強でも経済基盤が非常に弱い南トラキアは何のためにあるのかという話になる。土地は貧しく、北部で収穫された作物の一部を回さないといけないのは無駄な行為に思えてくる。もちろん売り手個人には代金が支払われるわけだが、国が買い上げて南部に回すということは血税を注ぎ込んでいるということである。
 飛竜を神聖視する南部の民は北部に移住して開墾に従事しようという考えがまだ薄く、北から流れてくる食料を食い漁るだけの隔離難民のような存在としか映らなくなってくるのだ。
 これだけの山地であるから鉱物資源は豊富にあるのかもしれないが本格的調査は始まっていないし、無駄飯喰らいという評価が眼前に居座っているのを押しのけるだけの力もなかった。
 となると、北部の民にとって南トラキアを切り離すという選択肢が芽生えるわけである。将来的に南トラキアが今以上の重荷になった場合、それでも手を取り合って運命を共にする必要性があるのか疑問符が湧くようになるのだ。しかもグランベルという耳元で誘惑を囁く輩がいるのだから、ダインとノヴァの仲睦まじさのように南北の民の空気は冷めていく方向に向かうのも仕方が無かった。
 更に数年が過ぎると、運命を決定付けるかのようにトラキア半島が凶作に見舞われた。
 物が余っているうちはまだ良かったのだ。しかし北部でさえ暴騰する穀物を南部に回すのは並大抵の努力では済まない。回せば北部の備蓄量は更に減るわけであり、需要と供給のバランスから考えて更に値上がりするのは目に見えている。それを享受すれば民衆の生活は更に圧迫されることになるわけであり、かと言って突っ撥ねれば南トラキアへの供給が止まることになり彼らに餓死者が出ることになる。
 北トラキアの民にとって、南トラキアの民は他人のようなものである。切り捨てるのは人道的に忍びないが、半ば他所の連中のために自分達が苦しまなければならない理由などどこにもなかった。
 そう、つまりトラキア王国という枠組みで一緒に括られているのが問題なのである。もしも他国同士であればこんなに悩む必要などないのだ。
 最初に動いたのはアルスターだった。大河と海に囲まれて漁業が盛んなコノートと違って田畑からの収穫に頼っていたためにダメージも大きかった。また、ノヴァが治めるレンスターと距離的に近い点に着目したグランベルが重点的に工作したのも有力な原因だろう。とにもかくも、ダインとノヴァにトラキア王国の南北分割を要求したのである。
「凶作のたびに足枷になるようでは北部には南部を支える力があるとは言えない」
 アルスター領主の主張自体は筋が通っていた。
 北部に南部を支える力が無いから距離を置けという包み方はダインとノヴァの強硬な反対を封じ込めるのに有効だった。もしも南部が足枷になるから切り捨てろと主張すれば感情的に突っ撥ねられたことだろう。後にアルスター王国となり、北トラキア四王国時代はグランベル王国との外交的折衝を引き受けることになるわけだが、この家系はもともとこういう方面に向いている血筋だったのかもしれない。
 ダインとノヴァが返答に窮すると、マンスターやコノートもこれに続くことになった。南部が不必要だとする価値観自体は共通であり、多少の目があると踏めばそれに乗ってきてもおかしくはなかった。
 南北分割の声が大きくなるにつれ、ダインとノヴァの間にも衝突が増え始めた。二人で頑張っていくという約束を信じる妹ノヴァに対し、国王である兄ダインは突きつけられた現実に怯まざるを得なかった。となると、レンスターの民にも広がり始めた反対の声を無視してまで現状維持を唱えるノヴァの存在自体がダインにとって重荷になってくる。二人で頑張ることの意味にずれが生じてくると、ノヴァはダインを信じられなくなってくる。
 ……最終的にノヴァは北トラキア全域の旗頭として決起し、トラキア半島は内戦に突入することになる。一般的にこの兄妹の物語が悲劇として伝わるのは、究極的には痴話喧嘩に等しい兄妹喧嘩のようなもので二人とも命を落とした結末ゆえであろう。二人で手を取り合って頑張ろうと国を築き、二人の仲が悪くなって瓦解した……それだけだった。
 ダインとノヴァの両方を失ったトラキア半島には制御する者がおらず、当初の予定であった南北分割に留まらず各領主がそれぞれ王を名乗り北部は4つに細分化されることになった。ダインとノヴァは二人の仲が悪くなっている間にそれぞれ結婚し、神器を受け継がせる子をもうけていたのでトラキアとレンスターはかろうじて消滅を免れた。
 北部の肥沃な土地を失うことになった南トラキアは食糧問題が更に深刻化することになった。この当時は北トラキアが連携して経済封鎖するほどではなかったが、輸入に頼らざるを得ないのに外貨獲得手段に乏しいのはどう考えても未来は明るくない。となれば自国産業を発展させるかどこからか奪うかの選択を迫られることになり、百年に渡る北侵が繰り返されることになる。
 一方でレンスター王国は政治経済軍事あらゆる面で他の3王国と競い合う必要があった。4王国はお互い友好的に付き合ってはいるが国造りの速度まで足を合わせてくれるわけではない。他の3王国を滅ぼすとまでは考えなくても、従えて北トラキアの盟主的存在になろうとする動きぐらいはどこにもあるのだ。しかし幼い王ではそれもままならず、地槍ゲイボルグを受け継ぐレンスター王国は伸び悩むことになり、北トラキア最強の騎士団を擁するのはアルスター王国であるという評価がしばらく続くことになる。
 レンスター王国が力をつけたのはカルフ王の代になってからである。政治や外交に熱心に取り組む一方でトラキア軍の陣容と戦術を長年に渡り徹底的に研究し、対竜騎士に高い効果を発揮する布陣や戦術を編み出した。4王国にとってトラキア王国の北侵を止めるのは共通の国策であり、この場において最大の功績を挙げた国家が最大の発言権を握ることになる。軍事的勝利のためには準備が必要であり、そのための政治や外交も必要だからである。
 カルフ王率いるレンスター王国軍を始めとした連合軍に大敗を喫したトラキア王国は、王太子トラバントが国王を放逐し玉座に登った。ダインを超える逸材と噂されていたトラバントの戴冠に北トラキアとグランベルは震え上がった。グランベルが本気で軍事的脅威を感じたのは後のシグルドを除けばこのトラバントだけであろう。グランベルの主導でトラキア王国に対する経済封鎖が行われたのは軍事的な正面からの衝突では勝てないと踏んだからに他ならない。
 普通に戦って勝てないのなら、その力を弱める必要がある。軍隊とは莫大な出費が必要であり、それを維持するためには国力の負担が必要である。トラキア王国は脆い経済基盤が弱点であり、ここを突けば軍事力を支えきれなくなり縮小化させることができるとグランベルは踏んだのである。
 やるからには冷徹に敢行するのがグランベルの政略である。北トラキアから入って来ていた食料は完全にストップし、トラキア王国内には餓死者が続出した。経済封鎖よりも兵糧攻めに等しい包囲網は痩せ細っているトラキアの国力を更に衰えさせた。ミレトスの悪徳商人が足元を見て高値で売りつけて来るのを泣く泣く購入したり、安全保障の代わりにとターラ市が僅かに開けた"水門"から流れてくる分に飛びついたりなど、トラキア王国は今日を生き延びるために国力の全てを投げ打たなければならなかった。
 ついには騎士団の維持費すら捻出できなくなり、屈強の陣容を誇ったトラキア騎士団は解散に追い込まれた。騎士の多くは傭兵に身を落とし、ついにはトラバント王自らが金銭契約に従って配下を引き連れて大陸を転戦しなければならなくなった。
 トラキア王国軍の弱体化という主目標を達成したグランベルと北トラキアはこれで枕を高くして寝られるようになったのかとなるとそうでもなかった。始めこそは"傭兵王"と嘲笑の対象にしていたが、トラバントとトラキア竜騎士の圧倒的強さを大陸中で見せ付けられることになったため、実体がなくなったはずの敵軍への警戒を緩めるわけにいかなくなった。特にトラバントの武名は大陸中に鳴り響き、彼の黒い飛竜が闇夜の空を覆うのが怖くて北トラキアでは誰も夜中に外を出歩かなくなった。
 トラキア王国側から見れば騎士団の解体は苦渋の選択であった、平時では維持費の塊でしかない軍隊を保持するだけの国力などもう残っていなかったためやむを得なかったわけだが、軍備放棄はトラキア再統一の夢を捨てることになる。戦で不甲斐なかった父王を放逐してまで王となったのは、トラバント自身の、そしてトラキア王国の民の夢を叶えるために必要であり有効なことであったはずだ。そのはずが統一のための武器となるべき騎士団を捨てなければならない状況に追い込まれた。このときの彼の心境は如何ほどであったろうか。
 しかし彼は武器を捨てても夢を諦めなかった。国王自ら傭兵となり契約金目当てに雇い主に頭を下げて回る姿を嘲られ続けても、彼の炎は燃え尽きなかった。忍び難きを忍び、耐え難きを耐え続けて国を守ろうとしていた。
 転機が訪れたのはグランベル王国内に起こった大内戦である。聖騎士バルドの血を受け継ぐシアルフィ公家が叛乱をを起こし、大陸中が巻き込まれた。混沌の渦に巻き込まれた各地の有力者は溜め込んだ富を吐き出して軍事力強化に走り、傭兵業界に一大特需をもたらした。莫大な金を手に入れることができたトラキア王国は騎士団を再建し、宿敵カルフの子キュアンを討ち取って悲願成就の足がかりとしたのである。
 当時のグランベルは後に皇帝となるアルヴィスがシグルドに執着しすぎる感があったが、若いアルヴィスと違って長年に渡ってトラキアを警戒し続けて来た宰相レプトールは、シグルドとの一大決戦においてフリージ公家軍の精鋭ゲルプリッターをあえて温存し、対トラキアへの備えを残した。その2年後、これが英断となりトラバントとの野望と夢をギリギリのところで止めることに成功したのである。更にレプトールの子ブルームは北トラキアの王権を握ってトラキアを山中に封じ込めたのだが、レプトールがアグストリアの王位を蹴ったのもこのためではないだろうか。
 それ以後のトラキア王国はグランベル帝国と同盟を結び、経済封鎖はかなり緩められた。一時期の悪夢のような状況こそは脱したが根本的解決になったわけではない。封鎖を緩めるのも強めるのもグランベル帝国の腹積もり一つであり、トラキア王国にはそれを止めることはできない。名目上は同盟国だがグランベル帝国にとってトラキア王国は仮想敵国に違いないだろうし、憂いを断とうとしてもおかしくない。
 時代は変わっても、トラキア王国にとって北部進攻と半島統一の夢は代わらないのだ。戦って勝つしか活路を見出せない彼らにとって北トラキアとの融和は存在しない選択肢であり、それを突きつけられた北トラキア側も彼らと永遠に敵対するしかなくそれが当たり前の価値観になっていた――。

「……簡単ですがこういった流れです」
「ん、分かった。ありがとう」
 ミーズ城。
 セリスがトラキア半島の歴史を(もう一度)聴きたがったのでオイフェは知っている範囲内で説明した。イザークで隠匿していたころは勉学には全く興味を示さなかったが、ここ最近は色々なものを知りたがるようになっていた。"次"を追い"今"を知らないセリスにさえこのトラキア半島に根付く怨恨は無視できるものではなかったのか、この怨恨が"次"にも響くと見ているのだろうか。どちらにしても多くを識ろうとする行動自体について次代の王として成長していると目が細くなるのはオイフェの欲目であろうか。
 さてトラキア半島の歴史を知りたがったその理由が前者ならばともかく後者であるとすれば、解放軍を指揮するオイフェにはこの怨恨を取り除いて"次"に残さない勝ち方が必要である。だがトラキア人ではないオイフェにはどうすればいいのか今ひとつ分からない。北トラキア出身者が多いリーフ軍の面々の声を聴けばトラバントへの恐怖心が圧倒的だが、果たしてトラバントを討ち倒して解決する話であろうか?

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