マンスターからの市民流出は、コノート城の解放軍も釣り出す格好になった。
 解放軍の性質上、実際には補給物資を満載した輸送隊だとしても偽装して市民と銘打っている以上は無視できない。

 トラキア軍には非戦闘員である一般市民を攻撃する理由はないが、市民だからといって攻撃を躊躇するような軍でもない。
 市民に偽装した輸送隊だと看破した場合、もしかしたら本当に市民かもしれない可能性あるいは市民が輸送を請け負った可能性を考慮して手を出さない……ということなどないだろう。解放軍と鉢合わせになるのを嫌って自重するかもしれないが、このままだとマンスター北で性急に戦端が開かれる可能性が高い。
 どこの軍隊も遭遇戦は嫌うものである。
 そもそも戦とは勝った場合負けた場合を考えて行われるものである。莫大な戦費と人的資源を消耗する以上、戦争は場当たり的に行えるものではないからだ。急戦を好む者であっても次の準備が整っていないうちに戦うのは、確固たる勝算でもない限りは控えるべきである。
 シグルド軍でさえ、最後の最後でバーハラで敗れた。包囲下に敷かれた不利な状況からの戦闘開始だった理由が最たるものだが、シグルド軍の準備不足が根底にあったことを見逃してはならない。戦の準備が整いきる前に釣り出されたために最後に息切れしたのだ。
 トラキア軍の場合も同様である。もし輸送隊とマンスター城を巡って戦えば、準備が整いきっていないであろう本隊に影響が必ず出る。マンスター城を橋頭堡として確保した上での開戦が本来のプランであるはずなのに、予想外の戦闘で先遣隊が壊滅したら一気に押し込まれることになる。
 一方で解放軍にとって遭遇戦は歓迎の一言である。正面からの戦いには絶対の自信があるし、小さな軍隊である解放軍はそれだけ準備に費やす時間や費用が少なくて済む。それに1度負ければ後がない性質の軍であるから思い切り良く戦えるのもある。先遣隊を撃ち破れればその勢いのまま一気にミーズ城に雪崩れ込むことも難しくないだろう、これは好機と言えた。

 オイフェにとって、十字行軍も市民の流出も想定外のことであった。どちらもレヴィンが仕組んだことだからだ。
 レヴィンがリーフ軍と繋がっている理由は、オイフェの影響下にいない点だろう。解放軍の中でセリスと共に旗揚げしたイザーク組や個人で途中参戦してきた者たちなどはオイフェの指揮下でよく動いてくれているし、それが自然であった。
 しかしリーフ軍は解放軍と合流する前からリーフ軍であった。固体として流れに乗ってきた彼らはすぐ溶け込んだりしない。言い換えればリーフ王子は独自の損得で動く可能性があるということである。
 そもそも、解放軍とリーフ軍では目的が同一ではない。解放軍は帝国を打倒しロプト教を壊滅させるために戦ってきているが、リーフ軍の最終目標は北トラキアからの帝国軍の駆逐に過ぎない。彼らは自分たちの目的のために旗揚げして戦ってきたのだ。
 極端な話、マンスター城まで制圧して北トラキアを解放した後、リーフ軍がどう動くのか保証できないのである。オイフェの青写真ではトラキア進攻だが、リーフ軍も参加してくれるとは限らない。解放したての北トラキア維持に専念したいと言い出すかもしれない。解放軍の手を借りたとはいえ悲願を達成したのだからそれを守ろうとする心情は全面的に否定できるものではない。
 シグルド軍の頃も各国の王族が参加していたが、自国の都合を持ち出す者はいなかった。何せ祖国は滅びてしまいシグルドが勝たねば復興できない状況下にあったからシグルド軍として戦うしかなかったからである。例外はシレジアだったが、逆賊の汚名をかぶったシグルドをかくまって内戦の切り札に使った上に遠征してきたグランベル軍まで撃破してしまったので亡国の王子と同じく一蓮托生の運命にあった。
 解放軍はその遺児たちが多く名を連ねていて大半は帝国を打倒し祖国復興させる目的を抱いている……が、リーフ王子だけは独自に動いて旗揚げした。そして解放軍としての戦いの半ばで彼らの目的は達成されてしまい守るものができてしまった。
 どんな組織でも一枚岩であれば堅く、バラバラであれば脆い。解放軍の戦いに対してリーフ軍の都合が上回ってしまえばオイフェの指揮下から離れることになる。十字行軍のために彼らの戦いぶりは伝聞でしか分からないが、もしマンスター城を陥落させられるほどになっていればかなりの精鋭に育ったと言える。それを失うのは大きい。
 トラキアに攻め入るのであれば、帝国の動きによって情勢が変わる。軍備に精を出したりトラキアに援軍を出すならばまだいいが、解放済みの地域に攻め入って来る可能性もある。わざわざイード砂漠を越えてイザークに攻め入る可能性はさすがに皆無だろうが、直近の背後になる北トラキアならばあり得る。その場合にリーフ軍は祖国を無視しきれるものではないだろうし、制御できる自信もオイフェにはなかった。
 シグルド軍と比べて解放軍が不利な部分のひとつに、現役グランベル貴族の有無が挙げられる。シグルド軍にはグランベルの内情に詳しい人物が多かったので予測も立てやすかった。しかし解放軍はセリス皇子以下大多数の者が片田舎での潜伏を強いられていたために帝国中枢の情報に疎い。トラキア王国という第三勢力も絡むこの地では情勢がどう転ぶか予想できない。もしもこういう場面で帝国がどう動きそうか読み切れれば非常に楽になるのだが、それは叶いそうになかった。

 レヴィンがリーフ軍に手を貸した理由はこの混沌狙いだろう。わざわざ自分の息子をレジスタンスのリーダーとして送り込んでまでリーフ軍を支援したのである、帝国が大きく動かなくてもオイフェの影響下から離れてしまってもおかしくない。それにしても、その場所が対トラキア最前線で最も混沌となるであろうマンスターなのも偶然にしては出来すぎる。十字行軍によってリーフ軍がマンスターを抑える事になったが、これをオイフェが知らされなかったのはその偶然を伏せるためだったのではないだろうか。
 むしろ狙ってやったにしては出来すぎると言うべきなのかもしれない。リーフ軍が旗揚げしてレンスター城を奪取するまでどんな道を歩んだのかオイフェは知らないが、息子セティを通じて誘導しながら勝たせるのは並大抵のことではない。仮にリーフ王子の決起そのものからレヴィンの手が働いていたとしても、セリスのイザークでの旗揚げと比べて条件が非常に厳しい中で成功させること自体が至難だったはずなのに。
 かつて"ティータイム"の書記を務めていたオイフェは、その参加者だったレヴィンが政略家としても非凡だったのを知っているが、これがもし筋書き通りの展開だとしたらその才能はオイフェの知っているレヴィンではない。
 シグルド軍の後継者として己を磨いてきたオイフェ。だがそれと同じだけの時間がレヴィンにも流れてはいた。12年前、潜伏期間中にバーハラで出会ったときの無気力で澱んだ瞳は何を映していたのか……それとも常人には辿り着けない世界に何か得るものがあったのだろうか、オイフェには想像つかなかった。
 だがリーフ軍を自在に動かせるということは北トラキア情勢の責任も背負い込むことになる。特に対トラキア戦略は北トラキアの歴史と同一といってもいいぐらいの重要事項である、レヴィンがリーフ軍を操るのならこの問題をクリアする用意もしてあるはずである。
 多くの者が気付かないのか忘れているのかあえて黙っているのかオイフェは知らないが……リーフ王子はレンスター王国の王子であり、そしてレンスターは北トラキア全域を支配した国ではない。北トラキア4王国はあくまでも並列の存在であり、最大の軍事力と地槍ゲイボルグを擁したレンスターの発言力が高かっただけに過ぎない。北トラキア解放の立役者ではあっても支配者ではないはずだ。
 アルスターのミランダ王女がリーフ軍に参加しているらしいが、コノートとマンスター王家の者の消息は聞かない。北トラキアが解放されてもこの2城は国家として建て直しが利かないのだ。
 王家抜きで都市国家としてやっていくのはトラキア王国の脅威が残る限り不可能である。軍事力で対抗するなら王家の強い指導力が必要になるし、従属するなら半島のパワーバランスが崩れるので他の2城が黙っていないだろう。
 となると結局はレンスターの支配下に収まるしかないのである。アルスターは事実上の傘下だろうし、レンスター王家による北トラキア支配が完成することになる。

 これはリーフの父キュアンが遺した野望でもあった。いかにシグルドの義弟で親友だったとしても、1国の王子が丸2年も国を空けてシグルド軍に参戦する理由にはならない。平穏な国ならばまだいいがレンスター王家の者がトラキアのことが頭をよぎらないはずがない。宿敵トラバントがキュアンの留守を狙う可能性があることぐらい熟知していたはずである。
 それでもなお参加したのだから、言い換えればそれだけのメリットがあったことになる。また、キュアンの父カルフ王はかなりの慎重派なのに息子の暴走を止めなかったのはおかしく、止められなかったのか慎重派でも飛びつきたくなる美味い話があったのかのどちらかになる。
 となると、シグルドの勝利の見返りに北トラキア遠征でレンスターによる統一の手助けをする密約があったことぐらいしか考えられない。
 グランベル6公爵家を除き、聖戦士の直系でありながら地方統一ができていないのはノディオンとレンスターだけだった。しかしノディオン王家の黒騎士ヘズルの血と魔剣ミストルティンはアグストリア諸公連合の盟主アグスティ家から渡ったものだから例外なのであり、特に上下関係のない4王国が並んでいる北トラキアで聖戦士の末裔がこの規模の王国に甘んじているのは格に不相応と言えた。
 グランベル王国は表向きは友好関係を築いていたがレンスターが大きくなりすぎることを嫌っていた。トラキア王国の拡大さえ食い止められさえすればいいのであり、北トラキアを統一されると半島にはトラキアとレンスターの2つしか存在しないことになる。トラキアとレンスターは不倶戴天の敵同士ではあるが、王家自体は親戚関係にあり、もしも対等な力関係になれば和解する可能性もあり得る。あるいは本気で戦争してどちらかが滅ぼしてしまうかもしれない。どちらにしても強力な軍事力を有する国家に成長することになり、グランベルにとっては今後の脅威となる。それならば北トラキアは4王国に分割されていて防戦一方な方がグランベルには都合が良かったのだ。
 前々から北トラキア統一の野望はあったが、グランベルの支持は取り付けられない。かと言ってグランベル抜きではトラキアの侵攻を退けられる保証がない。聖戦士の末裔ということで品格は大いに尊重してくれるが国家としての実は断じて譲ってくれなかった……それが従来のグランベルであった。
 キュアンがシグルド軍に参加したのは、グランベルを本当の意味で親レンスター体制にさせるためのものだった。それはあと一歩のところで瓦解してしまったが、その遺児リーフ王子が野望も受け継いでいてもおかしくない。ただでさえ王家が消滅し解放者を待っている状況下だから、リーフ軍が北トラキアので勝ち抜けば統一への機運は高まるだろう。
 北トラキア全体が結束するためにリーフによる統一王家を欲するように仕向けるためには、トラキア王国の軍事的脅威は残しておいた方が効果的である。
 となると、レンスターにとって解放軍がトラキアと戦ってもらっては困るのである。トラキアが滅びれば脅威はいなくなるが統一の夢が難しくなるし、解放軍が負ければ仮に統一できてもグランベル帝国を敵に回しているのだから存続できるはずがない。トラキアを残したまま帝国を打倒してもらうのがレンスターにとって最も都合がいい結末なのである。
 ここで現在の状況に思い当たる節があった。
 レジスタンスの蜂起と十字行軍によってマンスター城はリーフ軍が抑えたが、本来ならばトラキア先遣隊の手に落ちていた公算が高い。となれば解放軍とトラキア軍との衝突は絶対に避けられない。
 しかしここをリーフ軍が抑えることにより、トラキア王国の軍事境界線は動かずに済んだ。これは展開によっては開戦を回避できる可能性が残ったとも言える。

「出撃!」
 まだ夜も明けきらぬうち、オイフェは自分直属の部隊を引き連れてコノート城を進発した。
 トラキア王国を無視してグランベル帝国に攻め込めば留守を狙われるのは目に見えている。解放軍の戦略としても先にトラキアを叩くしかない……が、それがレヴィンの計画と矛盾している以上、レヴィンにはまたオイフェを出し抜く用意があるはずだ。
 戦わないで済ませるということは、トラキアもまたレヴィンの影響下に落ちるということである。悲願達成しか頭にないトラキア王国の侵攻を止めるのは並の切り札では通じない。よほどの大物手を用意しているに違いない。
 それが何かは分からないが、防ぐ方法があるとすればその秘策が完成する前にトラキア王国と開戦することである。先遣隊を叩き潰されればトラキアも黙っていないだろうし解放軍ももう引っ込みがつかない。その状態から停戦するのは至難になる。
 先遣隊は竜騎士と分かっているが解放軍は竜騎士との戦いは未経験である。空を飛ぶ竜騎士が相手では地上での戦いにおける常識は通用しないため、甘く見ていると大損害を受けかねない。
 しかしオイフェにだけはシグルド軍がシレジアで天馬騎士隊と戦ったのを見て得た知識があった。飛竜と天馬の違いはあるが根本的な運用はほぼ同じであるから、対処法も似ている。
 加えて、市民に偽装した輸送隊の救出やマンスターへの救援のためには足の速い部隊が必要であり、オイフェ自らが指揮する騎兵はその役に相応しい。
 以上から救援部隊はオイフェが直接指揮するのが望ましい。この整合性はレヴィンの策を潰そうとする意図を覆い隠すことができる。

 ……結果としては解放軍の動きから逸れることはなかった。もともと開戦する気だったのだから。
 しかしセリスの忠実な臣として解放軍全軍を統括してきたオイフェの意思は、解放軍とセリスのための行動原理から初めて外れたのである。
 レヴィンを止める――今のオイフェにとってそれが正義であった。

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