「くっ……これでは手が出せん……っ」
 アルテナが歯噛みして悔しがったのは無理も無い。本来ならば眼下にあるマンスター城を奪取していたのはトラキア軍だったはずだからだ。
 解放軍がコノートでブルーム王と激突している間、マンスターの守りは手薄になり、激戦になればなるほどマンスターに構う余裕が無くなる。コノートが先に陥落すれば北トラキアのフリージ王国は崩壊し、マンスターは無秩序の空白地になる。どちらにしろ労せずマンスター城を奪取できる計算だった。
 ところが蓋を開けてみれば西の山の中から一軍が現れてマンスター城に雪崩れ込んで先に占拠してしまった。アルテナが率いる先遣隊では戦力不足な上、マンスターから流出した市民を追うために兵を分けている現状では攻め込むわけにもいかない。
 要はトラキアの野望は第一歩でもう頓挫しかかったのである。北トラキアの混乱の隙を突いて先遣隊がマンスターを奪って拠点とし、続く本隊が残りの地域を手に入れるべく進撃する……という青写真だったのだが、初手から躓いていたのでは話にならない。
 数だけ言えば本隊が攻略しなければならなくなった城が3つから4つに増えただけだが、これが変わったことによるロスは非常に大きい。
 まず行軍の陣容が変わる。同じマンスター城でも確保済みの拠点に向けての行軍と攻略するための行軍では、装備品も違うし連れて行く部隊も異なる。前者の場合はとりあえず兵士を移動させて次の戦に向けて資材を輸送する程度でいい。
 だが後者の場合、攻城戦に使う兵器や長期に渡る野営のための資材、軍を数十日に渡って支える補給部隊……等、戦争するための軍とはとかく身重になるのだ。どれもこれもどのみち次のコノート攻略には必要なものであれ、マンスターへの移動であれば全てが一緒に行軍する必要は無い。準備が出来しだい出発してマンスターに入ればいいのだから運営面でのフットワークの軽さがはるかに違う。
 ただでさえトラキアは貧しく、余裕をもった物資調達ができない。マンスター攻略用に新たに物資を追加すること自体が難作業なため、準備のやりなおしとなるとかなりの時間がかかる。北トラキアが混乱している今が絶好機である以上、時間的ロスほど痛いものは無い。
 そんな大事な第一歩であるはずのマンスター城を眼前で掠め取られたのである、アルテナの怒りと悔しさは外見面の覇気と対照的に内面では頂点に達していた。
 確かに奇手であり予想外の事態とは言え、解放軍が軍を分けてマンスターにも同時に攻め込む可能性は気付けなかったことだろうか。後の祭りである今だからこそ油断があったと思えるのかもしれないが、少なくとも想定していなかったのも確かである。
 アルテナはトラキア王女として聡明で武術も冴えたが、そして精神的に強かった。トラキア国王に求められる不撓不屈の精神を受け継いだのは、実子である王太子アリオーンではなく養子であるアルテナだった。事実トラキアの民からも愛され、トラバント王からもこの重要な先遣隊を任されている。先遣隊などの別働隊は本隊と切り離されているために指揮が届かず、自力での成功を期待される。つまりこの起用はアルテナと副将のコルータが精鋭として高い評価を受けている証拠である。
 それだけに期待を裏切ることはできない――アルテナには少し気負いがあった。マンスターを先に奪われたのはもしかしたら防げたかもしれないという後悔の念は、どうにかして奪回しなければという焦りも生んでいた。すごすごとトラキアに戻ってトラバント王に報告するだけの王女ではいたくない……養子であるがゆえに誰よりもトラキア人らしくなりたかった。
「むっ!? 青の旗……あれは!」
 マンスターに攻め込むにしても先遣隊だけでは戦力不足は否めない。少なくとも流出した市民を追ったコルータをまず呼び戻してからでなければ無理な話だ。それまでの間、偵察を兼ねてマンスター城の上空を舞う。姿を見せるのは警戒を誘うことにもなるが、今の状況下ではトラキア軍来襲は時間の問題だろうしそもそもそれを想定しているからこそ解放軍は別働隊を用意したのだ。
 対空の弓矢や魔法の死角になりそうな突入ポイントを探りながら飛んでいると、城壁の一角に青い旗が掲げられていたのが目を引いた。他と一線を画す色をしたこの旗が何かの目印であるのは間違いない上に、アルテナには心当たりがあった。

 解放軍がレンスターとアルスターを奪い、コノートのフリージ軍と決戦を迎えようとしていた頃、アルテナは密書を受け取っていた。差出人はレンスター王子リーフ。つまりアルテナの実の弟である。
 内容はというと、リーフ軍が北トラキアを解放した暁には"姉上"を新王として迎えたい、という非現実的な話であった。
 当時のアルテナはこの話に飛びつかなかった。確かにレンスター王女として槍騎士ノヴァの血と地槍ゲイボルグを受け継いでいるのは自分だが、北トラキア解放の立役者は弟リーフである。またアルテナは年長であるがリーフは男子である。どちらが新王に相応しいかとなると意見が分かれるところだろう。言い換えれば、リーフがアルテナに王位を譲る根拠が足りないのだ。
 もしトラキア軍が北トラキアを征服し悲願を達成した場合、アルテナは出自を生かして北トラキア総督の座につくことになるだろう。正統的理由とは言い切れないが、アルテナの血統的根拠は大義名分にはなる。悲願を追うトラバント王は未だ叶わぬ間から達成後の話をしない人物だが、アルテナ自身はその役目を担うことを厭うつもりはなかった。
 しかしリーフからレンスター王、ひいては北トラキア王の座を譲られた場合、そこにトラキア王国の都合は考慮されていない。
 トラキア王国が半島統一の野望に燃え続けたのは、平和的解決の方が難しいからであった。もし平和的統一が成されたならばトラキア王国の民は肥沃な土地を求めて北に移り住むだろう。しかし北トラキア側から見ればそれは難民の群れでしかない。いくら土地が肥沃とは言っても余っているわけではなく、経済的混乱を考えれば人口増加のメリットなど足かせにしかならない。ダインとノヴァの悲劇によって南北に分かれた間柄であっても、北が南を受け入れることはありえなかった。
 それに仮にアルテナがレンスター王になって親トラキア政権が誕生したとしても、問題が解決するわけではない。王こそはアルテナであっても、その臣下は北トラキアの利益を優先する北トラキアの者しかいない。王の権威は絶対だとしても難民受け入れを推し進めれば軋轢を生むのは目に見えている。
 もしもレンスターとトラキアどちらかの利益を優先しなければならないとしたら、アルテナはトラキアを選ぶ。新王はトラキアに服従することを望むことになるだろう。平等的立場での統一が不可能ならば、一方的征服しか手段が無いのだから。
 言い換えれば、そういう可能性を含んでいるアルテナに対してリーフがこの打診をするのは無理がある。アルテナが夜ごと望郷の念に駆られ、一日も早くトラバントの魔の手から逃れてレンスターに帰りたいと星空に祈っている……とでも思われていなければ筋が通らない。確かに両親を殺されて無理やりトラキアに連れ去られた経緯を考えればそういう想像があってもおかしくはない……が、16年前の出来事をアルテナが鮮明に覚えているわけでもなく、逆に16年も王女として過ごせばトラキアの地に愛着が沸いてもおかしくない。だからこの可能性にすがるのは無理がありすぎる。
 よってアルテナはこの密書を無視した。これが謀略だとすれば明確な狙いどころは不明だが、おおかたアルテナの心を揺さぶってトラキア王国内での対立を誘う狙いだろう。国力的に余力が無く、悲願のために一枚岩になるしかないトラキア王国が内部抗争がわずかでも起こればそれこそ戦争どころではない。
 一度は無視したその密書には、アルテナとの接触時には青槍の旗を目印に掲げると記されていた。その旗が目の前に掲げられているということは、つまりマンスター城を横取りしたのはリーフ王子の部隊ということになる。
 罠の可能性も高い。差出人こそリーフだが本当にリーフ王子が書いたものとは限らないし、仮に直筆であってもリーフが書いたものとは分からない。潜伏と流浪を続けていたリーフ王子の字のクセなどトラキア側の誰も知らないからだ。
 だからこれがアルテナを釣り上げるための謀略かもしれないという不安を拭い去ることはできない。そして先遣隊長であるアルテナが捕らえられればそれこそ頓挫どころではない。
 一方でアルテナを引き込んでトラキアの分裂を狙う謀略ならば、ある程度は甘い蜜を吸わせようという素振りを見せる必要がある。そこを上手く利用すればこの状況を打開できるかもしれない。マンスター城を占拠したのがリーフ軍で、先遣隊を指揮するのはアルテナ。つまり解放軍本隊もトラキア軍本隊もいない状況下であり、密かに接触するシチュエーションとして最高の舞台が整っていると言える。罠としても最高の完成度であるが、それだけに罠以外の信憑性も高い。
 レンスター王国史においてアルテナはイード砂漠で行方不明とされている。地形が変化する砂漠において死体を見つけるのは不可能に等しく、捜索も早々に打ち切られた。キュアンに関しては戦利品として持ち帰られた首とゲイボルグを見せびらかせられる屈辱で戦死が証明されたが、アルテナ(とエスリン)に関しては不明のままだった。
 もしトラバントがアルテナに新たな名前を与え、ゲイボルグに偽装を施していれば、レンスター王女アルテナの存在は死亡済みで固められていただろう。あのトラバントが3歳の幼女だからと助けてやるとは誰も思わなかったからだ。しかしアルテナはアルテナの名のままトラキア王女として新たな人生を与えられ、ゲイボルグを抱いたまま育った。馬が飛竜に変わったこと以外は何ら変わりなく気高い王女として騎士として成人した。
 そんなアルテナが前線指揮官となり、ゲイボルグを携えて国境線を飛び回っていれば北トラキア側にも目撃されるし噂も広まる。アルテナ生存説は証明されないまま強くなっていった。
 北トラキア全域を放浪し転戦してきたリーフ王子ならばアルテナの情報を多く入手していてもおかしくない。罠であれ謀略であれ、国境の空にときおり姿を見せる女性指揮官がアルテナ王女であるのが前提である。違っても不都合があるわけではないとは言え、わざわざこうして旗まで立てている以上は信憑性を強く感じているからであろう。
「危険だが……だが!」
 アルテナはあえて飛び込むことを選んだ。
 楽に奪えるはずだったマンスター城を掠め取られた上、先遣隊独力でのマンスター城攻略も難しい。悲願達成の大前提で躓けば夢そのものが瓦解しかねない。アルテナはトラキア王女としての責任感に揺り動かされ、あの青旗に何らかの突破口を求めたのである。
 機転は利く方だが外交交渉や舌先三寸は経験豊富とは言えない。いかに糸口があっても、これからの賭けに求められる能力はアルテナには不向きな分野である。もしここにコルータがいれば止められたに違いない。合流を待たなかったのはそれでも状況をひっくり返さねばならない悲観的状況ゆえだ。
 焦っているのは分かっている、だが飛び込まねばならない。レンスターの王女ではない、トラキアの王女だからこその賭けだ。
 
「ゲイボルグ……間違いない、本当に生きておいでだった……っ」
 それを迎えるは、その青旗を掲げ空を仰ぎ見る、旗と同じ色の髪をたなびかせる一人の騎士。
 愛用の槍を旗の柄とし支柱としたのは、この会談に賭ける思いの表れ。主君キュアンから賜った勇者の槍を掲げ、主の忘れ形見を迎える。
 トラキアのアルテナ王女がレンスターのアルテナ王女と同一人物という確証は無かった……それだけに、この再会はフィンにとって運命を思わせた。
「アルテナ様ーっ!」
 向かってくる竜騎士に手を振る。あの飛竜が城壁に降り立つべき場所を指し示すように円を描いて腕を振る。
 彼にとっての正統な主に。
 彼にとってのレンスターの真王に。

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