「おい、フィンのクソ野郎はどこ行った? どっかでくたばったんじゃネェだろうな?」
 血がこびりついている甲冑をまとったまま、玉座で組んだ膝に肘をつきながらリーフが悪態をつく。
 計画通りにマンスター城に雪崩れ込んだリーフ軍は領主レイドリック指揮の守備軍と切り結び、これを撃破した。フリージ軍の表面的抵抗は無くなったが、ロプト教の残存勢力が地下神殿に立て籠もっているらしく戦闘は終わったとは言えない。
 リーフ軍にとって主要の敵は北トラキアを支配していたフリージ家であるが、圧政の主な原因としてロプト教の暗躍が挙げられる以上、一緒に叩き潰さねばならない相手である。それが足元に潜んでいるとあっては見過ごすわけにはいかなかった。
 トラキア軍を出し抜くための十字行軍であるため、マンスター制圧後はただちに対トラキアの防御体勢を敷く必要がある。しかし城壁を優先すれば潜伏するロプト教団に逃亡または反撃の時間を与えることになってしまう。とはいえ地下神殿突入に戦力を裂き過ぎればトラキア軍迎撃の準備が整わなくなる。マンスター城内の混乱はまだ収まりきっておらず、手を抜ける状態ではない。
 つまり予断を許さぬ状況にあるわけだが、そんな時期にフィンの姿が見えない。どうしようもなく不仲の間柄であるが、戦力としては必要な存在だ。
 リーフは能力さえあれば私情を挟まないような人間ではなく、嫌いな人間を優先的に死地に放り込むタイプなだけである。ロプトの地下神殿がどういう構造でどれだけの抵抗があるのか分からないため、突入は少なからぬ被害が出る可能性がある。だからリーフにとっては自軍陣中でフィン以外に先陣の名誉を与えたい相手がいなかったのだ。
「アレです、レンスターで申し上げたことが実際に起こっているかもしれませんな。まぁ自業自得というやつです」
 細民王子と妙に気が合う腹心のアウグストが、しれっととんでもないことを口走っている。リーフ王子というかレンスター王国の一大事とも言える状況をそう他人事のように済ませられる人材はそういないだろう、本人に言わせれば「何しろ他人ですからな」というところなのだろうが。
「もしそうならばすぐ戻って来るでしょう、本人は隠れてやっているつもりでしょうから」
「マジでコレでいいのかよ……」
「遅かれ早かれ誰かには祭り上げられるのです、フィン殿に担がせた方が色々釣れますから得というやつです」
 フィンの暗躍については泳がせる方針を採ったリーフとアウグスト。フィンとの避けられぬ対立が選ばせた賭けであった。

 その半年前、レンスター城――
「貴様ァ!」
 踏み越えてはならぬ一線がどこにあるのか分からない主従関係が、また一つ騒ぎを起こした。
 ただでさえ本来あってはならない罵声と悪態と脅迫と挑発が応酬していたリーフとフィンの間柄で、初めて実力行使が行われた。フィンの右拳に吹き飛ばされたリーフが玉座の上でぐったりと崩れ、次いで掴んだままの胸倉を引っ張られて玉座から転げ落とされた。
 幸運にもこの場には事情をある程度は知っている近臣しかいなかったとは言え、彼らがこの光景に青ざめないわけにはいかなかった。不仲と噂されるぐらいならまだいいが、家臣が主君を殴ったことが明るみになれば洒落ではすまない。フィン自身もそれが分かっていたからこそ昨日まで口論だけで踏みとどまって来れたのだろう。
 しかし聖人ではないフィンの我慢にも限界というものがあり、フィンも今までよく耐えてきたと言っていい。内側に溜め込んできた鬱憤を抑えきれなくなるとフィンはリーフに踊りかかったのだ。
「……ヘッ、このリーフ様に手ェ出すとは……死ぬかテメェ」
 引き金となった事件は、リーフがレンスター王が座るべき玉座に腰掛けた……それだけだった。
 レンスター王位はカルフの討死と同時に空席となり、現在もなお国の主は定まっていない。トラキア王国とフリージ家によってレンスター王国そのものが消滅してしまっていたから、久しく空位のままだったのも仕方が無い話だ。
 リーフ軍が繰り広げてきた北トラキア解放とレンスター王国復興の戦いは、厳密に言えばリーフの即位を目的にしたものではない。フリージ家から北トラキアを奪い返した後にレンスター王として戴冠式を挙げることは確かに解放戦争の終結と祖国復興を具現した形ではあるが、リーフ軍はリーフを王に押し上げるために戦ってきたわけではないのだ。
 レンスター城を奪回したのはリーフ軍であり、その主はリーフ王子である。しかしリーフはレンスターの王ではない……そういう状況下にあった。
 フィンがリーフに「決して玉座に触れるな」ときつく凄んでいたのは、表面的には筋道を立てたものではあった。だがこのリーフ王子ならば、冗談と反抗心からフィンの目の前でこれ見よがしに玉座に座る可能性は予想できたはずである。険悪の仲だと知っている周囲の者は、また口論の種が増えたと頭を抱える一方、常軌を逸している主従関係に麻痺してきたために玉座についての警告をさほど重要視しなかった。
「やめなさい御二人とも!」
 騎士が主に手を挙げれば死罪は当たり前である。命令系統上の上下関係であれば重罪ではあっても無条件での極刑とはならない、臣下が主君を殴ったから、越えてはならない一線を踏み越えてしまったから死で償うしかないのである。命を賭けて仕えるということは、その相手に刃向かうのは賭けた命を捨てるのと等価値である。そうでなければ命を賭けたことにならないし、その覚悟で仕えている騎士ならば命による償いしか想像できないはずである。当然ながら刑罰的にも極刑以外に適切な量刑になりえないのである。
 今回については情状酌量の余地が無いわけではない。リーフがレンスター王子に相応しい品性を備えているとは言い難く、このままだと今後も改善の見込みも限りなく薄い。普通に諌めても効果がないし、もし命を賭けて諌めようとすれば「じゃあ死ねよ」と返されるのがオチだ。一触即発の状況が続いていたのは周囲も認めるところであり、少なからず同情もあったためにさらに殴りかかろうとするフィンを止めに入っても罰しようとまではしなかった。
「あぁそうだ……リーフ様ならな」
 それはあくまでも真の主従関係だった場合である。
 目の前のリーフ王子に対し、耐えてきたことが怒りによって決壊してしまった。
 言ってはならぬこと、本当に踏み越えてはならない最後の一線……真実を知っている者がフィンの口を塞ぐことは間に合わなかった。
「図に乗るな"ルー"…っ! 貴様のようなクズがリーフ様の名を騙るな……っ!」
「ケッ……テメェでこのアザをつけたくせにガタガタ言うんじゃねぇ! ケツも拭けねぇ負け犬が!」

 そう……この細民王子は、リーフ王子ではない。
 カルフもキュアンも討死し、アルテナは生死不明で事実上の死亡扱い。残ったリーフ王子が死ねばレンスター王家は完全に滅びる。北トラキアを支配するフリージ家を打倒し、レンスター王国を再興させるためにはリーフ王子の生命は必要不可欠であった。
 しかし、そのリーフ王子は逃亡途中で亡き人になってしまった。安らぎを得ることができない逃亡と隠匿の毎日による心身両方の疲労からか病に倒れ、必死の看病も空しく衰弱死のようにあっけなく息を引き取った。
 レンスター騎士フィンの人生はこの時点で終わっていたはずである。王家が滅びれば騎士は存在理由を失う。新たな主を探す選択肢はフィンには無かったし、シグルド軍の指揮官でもある帝国のお尋ね者を雇う者もいるはずがなかった。
 フィン個人については後を追えば解決する話であるが、フィンと同じようにレンスター王国の再興を望んでいる者はたくさんいる。ある者はこの北トラキアのどこかに潜伏して機会を待ち続け、ある者はそのままレンスターでフリージ家に仕えて毎日を過ごしながら奇跡が起こることを夢見続けている。その共通した旗頭であるリーフが死んだことを、フィンは公に認めることができなかった。
 リーフの生命を預かる使命を背負ったことと、再興を信じる同胞の夢を打ち砕くことができない責任感が、フィンを暴挙に出させた。
 偶然にも、故人となったリーフ王子と同い年で、髪も瞳も同じ色で、しかもルーという幼名と同じ名前をつけられた少年が存在した。フィンはこのルーという少年を密かに替え玉に立てたのである。
 表面と名前が一致しているだけで誤魔化しきれるものではない……が、幸運にもフリージ家がこのルー少年こそリーフ王子ではないかと疑ったために信憑性が上がった。貧民窟にて追っ手からタッチの差でルーを救出したフィンは、意識を失っていたルーに小さな痣をつけた。
 聖戦士の末裔にはその証として聖痕が現れるのは有名な話である。しかしどういうデザインの痣が浮かび上がるのかを正確に知っている者は多くない。ましてや騎士ノヴァの聖痕が現れているのは姉アルテナであり、地槍ゲイボルグを受け継がないリーフにはハッキリとは出ない。となると、リーフ王子であると証明できる聖痕がどのようなものかなど誰も正確に言い表せないのである。それっぽい痣があって聖痕だと言い張れば聖痕になってしまうのだ。
 ここまでの道のりにおいて多くの同胞と合流したが怪しまれたことはやはり少なくない。しかしレンスターに忠誠を誓う騎士が、目の前のリーフ王子が偽者でフィンが替え玉を立てていると想像できるはずが無かった。幼児だったリーフしか知らない者にとって、長い時を経た結果こんな細民王子になっていることに落胆はしても、そういう成長結果は決してあり得なくはないのだ。
 体裁上こそはリーフ王子は旗頭として存在しているが、フィンにとってはこのリーフ王子はどこかの馬の骨に過ぎない。それが本物の王子のように横柄で威張り散らされればフィンならずとも腹は立つだろう。毎日の衝突は主従関係としてはありえない話だが、事情を全て知っている者にとっては起こって当たり前の話なのだ。

 それでもフィンはよく我慢した。
 いくらルーが王子らしからぬ態度を取り続けていたとしても、表面的にはレンスター王子リーフなのである。偽者と分かっていながらもレンスター王国再興のために押し上げなければならない存在なのだ。将来的に偽者を王に据えることを享受できるかは先の話であり、少なくとも当時はルーをリーフに偽装する以外に方法が無かった。
 ところが、トラキア国境を飛翔する女竜騎士の噂を聞くと計画が変わった。アルテナという名のトラキア王女で、見事な槍を携えているらしい……それが生死不明のレンスター王女が成長した姿なのかどうかの確証はないが、フィンに希望を与えるには充分だった。
 替え玉を偽装してまでリーフを立てたのは、どれだけ王子として相応しくない下賤の者でも担ぎ上げてきたのは、レンスター王家の生き残りがリーフしかいないと思っていたからだ。
 だがアルテナが存命ならば話が変わる。地槍ゲイボルグを受け継ぐ槍騎士ノヴァの正統後継者であり、レンスター王家の王位継承権を正式に持つ唯一の人物である。アルテナがレンスター王となってくれるのであれば、偽者王子ルーの価値などゼロに等しい。
 リーフ軍の動きに合わせて北トラキアの混乱が大きくなり、トラキア王国の軍事介入が現実味を帯びてくるようになって来ると、フィンはアルテナへの接触を試み始めた。直接の会談は叶わなかったが、手を尽くして密書を届けることはできた。
 密書に全てを書くことはできない。もしもアルテナ王女が同一人物でなかった場合、無駄に秘密を暴露するだけに終わる。リーフ軍とフリージ家による争いの漁夫の利を狙うトラキア王国に致命的弱点を教えるのは考え物である。
 しかし全てを隠したままではアルテナを会談の場に引っ張り出すことができない。差出人をリーフ王子と偽装してレンスター王として迎えたいと好条件の内容で纏めたのはフィンの苦心の作と言える。リーフがアルテナに王位を譲る根拠に乏しかったために一度は無視されることになったのは、フィンが他人を操る政略面に優れてはいないからであろう。
 試みは失敗するはずであった……が、誰に祈ったのか危機的状況で幸運が訪れるのがフィンの天性の才能であった。十字行軍によってリーフ軍だけが突出する格好でマンスター城を占領し、先を越されて手詰まりになったアルテナが状況打開の賭けに出て来る……いくつかの偶然が重ならないと起こり得ない会談だった
「……微かに記憶がある。あの頃私はおぬしに甘えてばかりいた」
 アルテナはフィンと名乗った騎士にそう答えた。向こうがレンスター王位を餌にしてくる以上、ある程度は食いつく素振りを見せる必要がある。レンスター時代の記憶を披露することは望郷の念をアピールすることになり、好印象を与えることができる。
 やや打算もあったアルテナと対照的に、フィンは素直に喜んだ。自分を覚えていてくれたことが単純に嬉しかった。声の張りと体躯が漂わせる風格も、王女として何ら申し分ない。あの偽者王子と違ってあらゆる意味で真なるレンスター王家の者である。
「まさか生きておいでだったとは知らず、隣国にありながらお救いすることもできず……今はそれが悔やまれてなりません……」
 感動に打ち震えていると、なぜもっと早くに会うことができなかったのか……後悔の念に襲われた。レンスター城にいた頃の記憶を残していたアルテナを15年も放置していた自責の念と、あのルーを立てて忍耐の日々を送る必要は無かった怒りの感情である。
「時間が無い、次の連絡方法だけ聞いておこうぞ」
 あまり時間はかけられない。フィンもアルテナも本来の軍務を抜け出している状態であり、長話はできない。アルテナが城壁に飛び込んだのを目撃した者もおり、追っ手が差し向けられる危険性が高い。また、戻って来たコルータがアルテナ救出のため慌てて押し寄せて来るかもしれない。

 フィンはこの後さらに大まかな計画を明かし、これからの連絡方法を確認してからアルテナは頷いて飛び去って行った。
 アルテナがレンスター王となるためには、ルーが邪魔である。真実を公表すればルーの失脚は堅いが、ルーをリーフと信じて戦ってきた将兵たちの混乱は避けられなく、最前線で軍の崩壊を招くことになりかねない行為はすべきではない。
 一応はリーフ王子とされているのだから、真実を伏せたままリーフ王子として死んでもらうのが最善手だろう。
 アルテナ率いる先遣隊とリーフ軍が交戦し、密かに手引きしてルーを討たせる――フィンはその内通を持ちかけたのだ。

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