父王ブルームが守るコノートへ送る支援を、大軍よりも自身を援軍に選んだイシュタルであったが、戦況は予想を超えて悪かった。
 レンスター城攻略に向かった部隊、森に潜ませた遊軍……共に全滅し、点在する守備兵力を除けば北トラキアに機動戦力はもう存在していなかった。
 戦の勝敗が兵力の数で決まるとは限らないとは言うが、たとえ寡兵で勝つとしても最低限の兵力は必要である。トールハンマーさえあれば一人でも解放軍を討ち滅ぼせると意気込んでいたイシュタルであったが、それはあくまでも方便である。トールハンマーがいくら強くても詠唱中や術後の隙はあるし、大魔法の連発による身体への負担などを考えれば現実的ではない。
 だが、戦わないわけにはいかない。
 トラキア王国のマンスター侵攻は時間の問題であり、イシュタル不在をいつまで隠し通せるか保証がない。単純に対解放軍だけ考えればコノート城に籠城した方がまだ効果的に戦えるが、何しろ籠城戦は時間がかかる。その間にトラキアが動いてマンスターが陥落すれば北トラキアにおけるフリージの領土はコノート城を除いて全て失うことになる。いくら籠城して凌いでもここからの逆転は不可能に近い。援軍でも来ればどうにかなるかもしれないが、イシュトー王子を失った上に北トラキアのほぼ全土を失ってコノート城に籠もって細々と抵抗するしかできなくなったフリージ家が、たとえ勝ったとしても何が残るのか。この失態をどこまで追求されるか分からないが、北トラキアの地盤を失うのはほぼ確実だろう。
 現在、フリージ家は本国のフリージ公家領、この北トラキア、そして最近になって領地管理権を獲得したミレトス地方と、領土は広いがその分だけ支配力が薄くなっている。北トラキアで大恥をかけばフリージ家の信用度は大きく下がる。連鎖してミレトス地方管理権を取り上げられる危険性も高くなるだろうし、イシュタルがユリウス皇子の不興を買うことにでもなればフリージ家の未来はない。
 ブルームにしろイシュタルにしろ、彼らフリージ家がグランベル帝国の一臣民としての立場に徹するのであれば籠城が正しい。
 籠城して時間を稼ぎ、解放軍とトラキア軍が激突している間に本国から援軍を呼び込めれば漁夫の利による勝利も充分にありえる。解放軍もトラキア軍も速戦速攻の軍隊であり、侵攻して得た土地の支配力などたかが知れている。もし軍が壊滅すれば奪ってきた土地などすぐに取り返せるだろう。
 しかしフリージ家にはその作戦が採れなかった。彼らは臣民であると同時に帝国随一の大貴族であり、フリージ家を守らなければならない立場にあった。たとえ帝国が勝ってもフリージ家が没落するようなことがあればそれは敗北なのである。

 結果、イシュタルが選んだ戦い方はセリス暗殺であった。戦争以外で素早く勝つ方法はこれしかなかったと言ってもいい。
 父王ブルームからトールハンマーの魔導書を譲り受けた際、軍を率いるのではなく腕利きの暗殺者を紹介してもらう方を選んだ。イシュタルがいくら"雷神"と恐れられていても暗殺のノウハウがあるわけではない。プロの相棒を必要としたのだ。
 コノートで最も著名なヒットマン"アサエロ"とその弟分の実力は一目見て分かった。アサエロは300年続く暗殺者の家系で、先代は父王ブルーム暗殺の依頼を持ち込まれたこともあるらしい。先代は断ったにせよ、別の実行犯によるブルーム暗殺未遂事件がフリージ家の隆盛運を奪ったのは間違いない。この繋がりは吉凶どちらに出るだろうか。運命がどちらに転がるにしても少なくとも何かしら予感させる暗殺者に違いない。
 一方で弟分にも底知れぬ恐ろしさを感じた。彼が携えている弓は大仰すぎてどう見ても暗殺用ではないのだが、この弓に射掛けられて死なずに済む人間がいるのかという予感を漂わせていた。この弓にいかなる銘がつけられているのかは分からないが、これを聖弓イチイバルと紹介されれば信じてしまうかもしれない……とはいえこんな暗殺者が弓使いウルの直系なはずはないのだが。
 ……だが、ありえないことが起こりうるのが戦場であり、それによって状況が一変することも決してありえない話ではなかった。
 イシュタルはフリージの生まれであり、イチイバルを見たことがなかった。というより大規模な戦争がなくなったグランベル帝国統治時代で他所の神器を見ることなど皆無である。加えて、雷神として才能を持て余した上に他の聖戦士と比べて頭ひとつ抜け出ているユリウスの傍にいたせいか、十二聖戦士とその神器の格について価値観的に測れなくなっていたのだ。
 ファバルと名乗ったこの弟分が、もしアサエロと立場が逆であればイシュタルはもちろん雇い主のブルームも看破したかもしれない。聖戦士の末裔=世界の支配者という固定観念に縛られていたブルームとイシュタルであるから、アサエロの弟分という立場にいるファバルに閃く取っ掛かりがなかったのだ。

 それを見抜けなかったイシュタルは出撃したもののファバルの裏切りに遭って解放軍にあっけなく捕縛された。
 もしもファバルが携えていたのが聖弓イチイバルだと気付いていれば、彼の母親がシグルド軍にいた事実も分かるだろうし、ファバルが裏切る可能性にも辿り着けただろう。解放軍に味方して帝国を打倒すればユングヴィ公になれるが、帝国に尻尾を振っても現当主スコピオを追い出すことは厳しい。となればファバルは一生を暗殺者のまま終わる気でもない限り裏切るしかなかったのだ。
 アサエロは老舗ということもあり代々続く屋号を守る立場にある。世界最高の暗殺者"D・E・W"を擁したシグルド軍に敬意を払ってはいただろうが、積極的に裏切る理由まではなかった。請けた仕事を放棄すれば信用に関わるし、彼ほどの大物ならばブルームの招聘を断る自由があったはずだ。だからアサエロは信用できた……のが命取りになった。
 結局のところ、アサエロの家名と信用度に頼った分だけファバルへの洞察が緩慢になってしまったのがイシュタルの敗因になった。ちなみに一緒に捕縛されたアサエロは戻ればブルームに処断されかねないということで、妹デイジーの伝手で解放軍参加を申し出てすぐに縄を解かれた。

 さて、イシュタル捕縛は解放軍にとって少し困った事態になった。
 解放軍という性質上、帝国に対して外交上のカードを握っても使い道がないのである。そもそも交渉を行えば相手に時間を与えることになり、対トラキアを踏まえて速戦速攻を余儀なくされている解放軍はブルーム相手にイシュタルを使うことはできない。
 とりあえず捕虜にしておくにしても、これだけの美女を連れていては軍の規律が乱れる元である。手を出すなと厳命すれば不満と欲望が鬱積するのは目に見えているし、逆に指揮官にいい思いをさせれば羨ましがった末端の兵士たちが略奪に走る可能性もある。
「…………」
 陣中に牢獄がないため幕舎の柱に縛り付けられ監視の刃を突き付けられているイシュタルは殺せとは言い出せなかった。フリージ家の隆盛も没落も自分の双肩にかかっていることを自覚していたからだ。両親は自分がユリウス皇子と結ばれることを期待している。ならば助からなければいけないが、女の身で虜囚となりしかも命乞いまでするのなら貞操の放棄は避けられない話だろう。しかしこの手段を採用した場合、助かっても皇妃の資格を失いかねない。死も生も選べないイシュタルは沈黙を通すしかなかった。いっそのこと討死していた方が悩まなくて済む分マシだったのかもしれない。
「……」
「……」
 一方で、別の幕舎で討議を重ねる解放軍中枢の者たち。
 戦場や政略では冷淡を貫けるオイフェとレヴィンも、こと女の扱いとなるとそれぞれポリシーがあるようで、両者ともイシュタルを丁重に扱いたがった。しかしフリージ家が支配する北トラキアを解放する戦いの最中にフリージ王女を丁重に扱うのはそれだけで士気が下がりかねない。悩みの種であった。
 旗頭であるセリスの考えはというと、イシュタルを捕虜としてどう扱うのかは"今"の話であり、それ以前にセリス自身がレイリアに満足しているようなのでイシュタルに興味を示さなかった。
 結局のところ、殺すか逃がすかのどちらかを選ぶことになった。帝国を打倒するつもりの解放軍が帝国から譲歩を引き出す必要がないし、捕虜にしておく理由がないのである。
 単純に考えれば殺すのが楽だろう。雷魔法トールハンマーの継承者であり"雷神"と恐れられるイシュタルがこの世から去るわけであり、再戦時に苦労しなくて済むのは大きい。今回は単独行動の上に仲間の裏切りに遭うという不運もあって難なく捕らえることができたが、戦場でもそう簡単に勝てる相手とは限らない。
 殺さずに逃がすとするなら、殺した場合のデメリットを考えた結果である。イシュタルはフリージ王女であると同時に皇太子ユリウスの愛人である。帝国の実権を握りロプト教会と結びつきが深いユリウス皇子に恨みを抱かせた場合、何が起こるか分からない怖さがある。報復で見せしめの虐殺とかされるのは避けたいところである。とはいえせっかく捕らえたのに無傷で返すのは惜しい……正直なところを言えば、捕らえずに討ち取っていた方が悩まなくて済む分マシというものである。
「セリス……イシュタルは殺してはなりません……無傷で解きなさい……」
「……ユリア?」
 そのときである。解放軍参加以来、傍観者に徹して来てこれまでほとんど喋ったことがなかったユリアが口を開いた。しかし一言で場を支配しながらそれ以上は何も言わなかった。
 なぜ殺してはいけないのか周りが聞いても答えず、イシュタルの解放をどこまで望んでいるのかはっきりしない。意見を述べたと言うよりかは誰かに述べさせられたと表現した方が近いだろう。
「……」
「……」
 貴方の差し金ですかとオイフェが視線を向けたが、レヴィンはというとユリアの秘密を知らなかったせいもあり面食らった要素を隠し通せなかった。オイフェにとってユリアがレヴィンと繋がっているのは明白だが、当のレヴィンの様子からして今回は無関係らしい。となるとユリアを操作している後ろ盾が他にいるということになる。帝国皇女ならおかしくない話なのだが、出し抜かれるとはレヴィンらしくない。
 オイフェはリーフ軍の十字行軍を知らされなかったことでレヴィンへの敵視が色濃くなっていた。と同時にリーフ軍への根の張り方や謎の補給経路など手腕への敬意も強くなっていた。ところがユリアへの影響力が絶対ではないという失態に近い露呈があったために敵視も敬意も少し弱まることになり解放軍に今後ある影響を与えることになる。

 結局のところ、雷魔法トールハンマーの魔導書を没収した上で解放するという折衷案が採択され、イシュタルはすぐに戦線に復帰できないようにレンスターに護送されてから解放された。現在のレンスター城内ではフリージ王女であるイシュタルに生命の保証はなく、トールハンマーを失った彼女には強行突破ができない。かなりの潜伏と足止めを余儀なくされた彼女は、父王ブルームの戦死とコノート城の陥落、リーフ軍による十字行軍とサイアス司祭に嵌められたことを知って失意のうちに北トラキアを後にすることになった。

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