「申し訳ありません、やはりもぬけの殻でございました」
「ここもか……当たって欲しかったのだけどなぁ……仕方が無い、撤収する!」

 マンスター城――。
 この城を守るフリージ軍は、負けることの無い戦、しかし最も難しい戦を強いられていた。
 とはいえこの城は決して安全というわけではない。解放軍に対しては王都コノートの背後にあり今のところ直接の危険に晒されているわけではない。しかし後ろを振り返れば対トラキア王国の最前線でもある。
 現状、トラキア王国との同盟はまだ続いている。しかしトラキアはターラ市を占領したばかりであり、鵜呑みになどできない。
 ターラ市は形式上は自治を許された自由都市であり、法的にはグランベル帝国の直接的領土ではなかった。ゆえに占領はグレーゾーンなわけなのだが、しかし軍事的脅威であるトラキアがこのターラに手を出さないことが平穏の証にもなっていた。大国同士の軍事的緊張を和らげる意味で領土的空白は必要なのである。グランベルがターラ市を無理やりに併呑せず代理公主を送り込んでの間接的支配に留めていたのはそれゆえである。
 しかしリーフ王子の蜂起により北トラキアが混乱状態に陥ると、ブルーム王はターラ市の占領を命令した。混乱の隙を突いてトラキア王国が動くと睨んでの先回りである……だがターラ市はあろうことか帝国に支配されるよりかはマシとしてトラキアに降伏してしまったのである。
 ターラ市を得たということは、トラキア王国は北トラキアへの出口を一つ増やしたことである。そしてそれは北上侵攻の意思と前触れに等しい。そのため東側の通路であるマンスター〜ミーズ間についても緊張感が高まっていた。

 城の防備を任されたイシュタル王女は、トラキア王国の脅威を逸らしながら王都コノートに援軍を送る算段を練り続けていた。
 確かにトラキア王国に対して守備を疎かにすることはできない。しかしフリージ王国にとって現在は西にいる解放軍の方が直接的脅威である。少なくともトラキアとはまだ開戦しておらず、解放軍と停戦することはありえない。脅威に序列をつけるならばまず解放軍に対応するのは当然の話だ。
 解放軍とはコノートを守るブルーム王が対峙しているが、正直なところ単独での勝利を期待するのはかなりの博打を打つことになる。楽に勝てる相手なら領土の西半分を失ったりはしないだろうし、今こうして悩んでいることもないだろう。
 イシュタルとしてはコノートに援軍を送り増強させたいところなのだが、だからと言って対トラキアを考えれば手薄にするのも好手ではない。
 しかも、このマンスター城にはレジスタンスが多数潜入しているという情報を掴んでいる。彼らの狙いはここで武装蜂起するカードをちらつかせながらイシュタルを足止めすることだろう。
 彼らを潰さなければ動くに動けない。援軍を送ればただでさえ手薄になるのに内部に敵がいるのでは話にならない。レジスタンスは直接戦って負ける相手ではないが、見つけることの困難と撃滅の確認が非常に難しい。例えて言うなれば、部屋に複数の蟻が潜んでいてそれを潰しにいくようなものだ。
 一刻も早い根絶のためにイシュタル自らが率いてレジスタンスのアジト潰しを続けてきたが、決定的な成果は未だ挙げられないままであった。レジスタンスの規模は縮小させてはいるのだろうが、息の根を止めた手応えは無かった。彼らのリーダーの捕縛処刑は達成されていないのだ。
 イシュタルの焦りは酷くなる一方であった。
 いつまでもレジスタンスとイタチごっこを続けていれば援軍を送ることができない。しかし無視していいものではない。

「姫様、ヴェルトマーのサイアス様がお見えです」
「……? 奥に通して」
 またややこしい人が来た……イシュタルの脳内は最初にそんな印象を抱いた。
 ヴェルトマーのサイアス司祭と言えば、帝国内でもガチガチの皇帝派で有名である。皇子派の最右翼であるイシュタルにとってはある意味で最も相容れない相手とも言える。
 皇帝と皇太子の仲が険悪であることそのものはイシュタルも歓迎していない。だが対立している以上はイシュタルはユリウスを選ぶ立場にある。
 フリージ、解放軍、トラキア王国、レジスタンスなどの複数勢力が渦巻く北トラキア。直接の関連性が薄いグランベル帝国はあくまでも"帝国"という一つの単位に収まっていてほしいのが本音である。これが皇帝派だと皇子派だのさらに複数に分かれられては話がややこしくなりすぎる。

「里帰りの途中で寄ったのですが……ずいぶんとお困りの様子ですね」
「里帰り?貴方は本国の生ま……あぁそうか。状況をご存知なら良い知恵を貸して欲しいわよ、こっちはもう八方塞……イヤになってくるわ」
 サイアスの母方の祖父コーエン伯爵はこの近郊にある河沿いの砦の守備についている。祖父と孫……この二人の系譜を繋ぐのがヴェルトマーの魔女としてアルヴィスの右腕であったアイーダである。つまりかつてはヴェルトマーで最も力があった大貴族だったわけだが、皇帝が権力を失いアイーダが暗殺されると一気に没落し、ブルームの監視下に置かれて閑職に追いやられていた。
 サイアスはマンフロイからの追及を逃れるために教会に預けられて育った。母親が健在の頃は幼いサイアスに手を出さないという密約がロプト教会と結ばれていたらしいが、そのときの権力者が世を去ったために安全とは言えなくなった。まだ少年の頃のサイアスはここで逆に討って出る方針を選んだ。聖職者の道を歩みながら士官学校にも入学、頭角を現し始めるとその存在と名声は広く知られるようになった。
 ユグドラル大陸において赤い髪は珍しい部類に入る。そこまで貴種であるとは言わないが、ことヴェルトマーで赤い髪といえばアルヴィスとアイーダの顔が浮かぶのは避けられない。サイアスの才能を評価するにあたり、この二人のどちらか(あるいは両方)と関連性があるのを理由にするのが最も的確であった。
 彼は司祭として強大な魔力を身につけると同時に、兵を率いれば連戦連勝。大規模な対外戦争が無いグランベル帝国において『軍神』とまで呼ばれるのは並大抵の功績の積み上げ方ではない。
 そして皇帝アルヴィスはサイアスをヴェルトマー宮廷司祭に任命した。今のヴェルトマー公国は公爵位が空位であり、ロプト教会の根拠地がこの地にあるためにマンフロイの支配下にあると言っても過言ではない。そのヴェルトマーにおいて、ブラギ派のエッダ司祭でありロプト教会の目の敵とも言えるサイアスが宮廷司祭に就くのは異例の人事と言えた。
 権力を失っている皇帝であっても、宮廷司祭の人事権まで奪われていたわけではなかった、というより皇子派が必要としなかったからだ。どう考えても今の時代にエッダ司祭が宮廷司祭に就くのは生命の危険に等しい。いくら得られる俸給や名誉が高かろうとも普通の人間なら尻込みするものである。
 そんなわけで皇子派もこれについては取り上げることはしなかった。宮廷司祭の地位は要職であり、この人事権を皇帝の手に残すことは皇帝派の反発を緩和する意味合いもあったからだ。
 かつてアルヴィスは僅か7歳でヴェルトマー公爵となり、グランベル六公爵の中でも最年少でありながら権力闘争に勝ち抜いて玉座に登った。そういう事例があるために聖職者としては若輩であるサイアスの抜擢について異を唱える者はほとんどいなかった。
 権力を失ったアルヴィスにとって、最後の拠り所は各地に点在する軍内部である。大内戦、シレジア討伐、トラキア戦など大きな対外戦争に勝ってきたアルヴィスであるから将兵に皇帝信奉者が多い。ここに軍神と呼ばれて支持を集めているサイアスを皇帝派として送り込めるのはユリウスとの権力闘争に大きな強みとなる。形骸化した宮廷司祭の地位に実は無いが、皇帝はそれを逆手に取って、実権こそは無いが名誉がある上に束縛なく自由に動ける立場を重要視してサイアスを任命したのである。
 皇帝とサイアスの蜜月関係は、周囲に噂を立てる。赤い髪の共通点、若き日のアルヴィスを思わせるサイアスの才能――もしもサイアスがアルヴィスの子でありファラの聖痕が出ているのならば皇位継承権を持つことになる。第一位ではないにせよ、ファラの後継者であるならばヴェルトマー公爵を継ぐ正統な公子となる。
 皇子派にとってこんな人間を放置できるはずが無い。失脚はもちろん暗殺を企てたことは1度や2度ではない。そのことごとくが失敗に終わった挙句、しかしサイアスが父親ではなく母親の名前のみを公開したために、無言の取引を突きつけられることになった。母親の次は父親の名前の番であり、母親がアイーダであるなら父親の名は容易に想像できる。しかし正式に公開しない以上はヴェルトマー公家を継ぐことはできない。そうしない代わりにもう手を出すなという意味である。
 結果、ロプト教会はサイアスから手を引かざるを得なくなった。もし皇帝派のサイアスがヴェルトマー公爵になってしまえばヴェルトマー領内のロプト教会は死んだも同然である、何しろ母の仇なわけだから容赦しないだろう。アイーダの名前を出したことでサイアスの名声が更に高まったわけだがどうしようもない。
「イシュタル様はアリオーン王子と懇意にされていたと聞いています。共闘を呼びかけるとか適当な口実をつけて時間を引き延ばし、その間に援軍を送ってしまえばいかがでしょうか。ただ大軍だと目立つので……そうですね、貴女ご自身が良いかと」
「名案だけど……」
 イシュタルはトラキア王太子アリオーンと面識があった。アリオーンはバーハラの士官学校卒であり、グランベル中枢とは一定の繋がりがあった。仮にも同盟国であるから当然のことであり、それでも関わりを持ちたがらなかったトラバント王の代理としてアリオーンがバーハラを訪れることは何度もあった。
 ユリウス皇子がいなければお似合いの二人と揶揄されたこともあったが、二人がもし婚姻関係を結んでしまえばトラキア王国は北上侵攻を放棄したに等しく、トラバントが認めるはずも無かった。
 そんなわけでイシュタルにとってアリオーンは好感は抱いても微妙に気まずい相手である。四の五の言っていられる状況ではないのは承知しているがどうにも気が進まない。
 提案としては正しいのである。レジスタンスの根絶が難しいのならばトラキア軍を封じ込めるいう考え方は正しい。レジスタンスの武装蜂起は単独では怖くなく、漁夫の利を狙ったトラキアとの連携がなければ、蜂起してくれた方が探す手間が省けてむしろ都合がいい。レジスタンスもトラキアを当てにしている部分はあるのだろうが完全に手先となっているわけでもなく、ちょっと予定が狂えば連携は乱れるだろう。
 コノートに赴き、解放軍に壊滅的打撃を与えて素早くマンスターに戻る――要はこれだけの時間さえ稼げればいいのだ。父ブルームが持つトールハンマーの魔導書を借りて出撃すれば形勢は覆せる……そうイシュタルは見立てた。それが合っているかはともかく、できるだけ短期間にという条件を考えればトールハンマーを使うことに誤りは無い。
 問題は、その間トラキア王国をいかに封じ込めるかにある。軍がごっそりと消えるならともかくイシュタル1人が姿を消しても気取られにくい……しかしもしこのタイミングで攻め込まれたら落城は避けられない。確かにトラキアもマンスターがコノートに援軍を送って手薄になるのを狙ってはいるだろうが、そうならなければ侵攻しないわけでもないだろう。現時点でもコノートからマンスターに援軍を出せる状況ではなく、トラキア側にしてみれば好機の範囲内にある。これ以上欲張ってくれる保証はどこにもない。
「分かったわ、それで行く……どのみちもう時間が無いし」
 イシュタルは折れるしかなかった。
 共闘を呼びかける名目の時間稼ぎにトラキアが引っかかってくれるか怪しいが、穏健派で帝国寄りと知られるアリオーン宛てならば幾ばくかの抑止効果は期待できる。本来の意図とは違えどトラキア王国内で騒動でも起これば儲けものである。
「私は祖父を見舞った後、また戻ってきます。火急の事態あればレイドリック将軍を助けましょう」

 イシュタルはよろしくとだけ答え、自室に戻ってアリオーン宛ての密書をしたためた。武闘派であるイシュタルだが彼女もフリージ家の一員である、一通の手紙が時として趨勢を左右する効果があるのはよく分かっていた。この一通がアリオーンを通じてトラキアを抑え込みフリージを勝利に導く一手となることを念じて、イシュタルは手紙を封じた。
 そしてイシュタルはコノートに移り、トールハンマーの魔導書を携えて解放軍に立ち向かうことになる。留守の不安は最後まで抜けなかったが、サイアスが居るのならば大丈夫ではあろう。皇子派のイシュタルにとっては油断ならない皇帝派であるが、まさかトラキアに売るような真似はしないだろう。彼の微笑を信頼するしかなかった。
 ……しかし彼女は解放軍の別働隊が密かにマンスターに迫っていることを知らなかった。ちょうどサイアスの祖父コーエン伯爵が守る砦を抜けるコースである。

 一方でトラキア王国は問題の密書を受け取ることになった。アリオーン王子宛てで差出人はイシュタル、内容はターラ市経由で解放軍の後方を脅かしてもらいたいというもの。アリオーンはあまり旨みがなさそうなものと見立てたが、軍事的共闘を呼びかけると共に妙に艶かしい恋文のようなアプローチに困惑することになった。
 そんな中、アリオーンの義妹アルテナもまた密書を受け取っていた。差出人は……実弟リーフである。

Next Index