「ぎゃっはは、悪ィなセリス、ちょっと邪魔するぜ」
 戦場に乱入し、セリス軍の勝利に貢献した別働隊の主は、セリスと会談すると畏まることなく下品な笑い声を挙げた。
「……あれ?」
 今ひとつ状況が飲み込めていないのか、セリスは柔らかな笑みのまま首を傾げた。
 本来で言えばおかしな話である。
 リーフ王子の軍はレンスターに駐留し、コノートの敵軍と対峙しているはずである。
 アルスターの解放軍が戦力を分割してまでレンスターの救援に向かったのはそのためだったのだが、当のレンスター軍がなぜこの森に軍を進めて来ているのだろうか。
「そこから先が私が説明しましょう」
 そう言って姿を現したのがアウグスト。この悪相で腰が低い話し方をされると逆に勘ぐってしまうのは何故なのだろうか。

 話によると、レンスター軍の目標はマンスター城。北トラキアの地理に明るいのを生かしてこの森から山に入り、ダンチヒの砦を抜けてマンスター城の裏手に出ようと言う腹らしい。
 隠密行軍により、解放軍の進撃具合から北トラキア侵攻のタイミングを計っているトラキア王国を出し抜くつもりである。
 確かに地理的に考えて、コノートよりも先にマンスターが陥落するとは想定していないはずだ。成功すればトラキアの介入による混沌化を避けることができ、解放後の手間が大幅に削減されるだろう。
 アルスターからコノートに向かって北東に進むセリス軍。レンスターからマンスターに向けて南東に進むリーフ軍。これらが十字に交わる場所となる森は、姿を消すのに向いているのだ。

「なるほどな……俺たちは敵を欺くためのダシにされたわけか。オイフェも大変だな」
 頭の上で疑問符が踊っているセリスの代わりに、レヴィンが感嘆したような言葉を紡いだ。
 この作戦は一つの賭けである。
 最も危険な部分は手薄になるレンスター城だ。アルスターからの援軍が到着するまでレンスター城はもぬけの殻になるわけであり、援軍がレンスターに到着するのが何らかの理由で遅れたり、あるいはコノートから押し寄せる敵軍が予想外に早く到着した場合、空城となったレンスターがあっさり陥落することになる。
 また、読み通りにアルスターからの援軍到着が間に合ったとしても、リーフ軍が居ないわけだから単独での迎撃を強いられる。本隊無しの援軍のみの場合、籠城ができない。いくら解放軍の旗を掲げていても、レンスター軍が居ないレンスター城を掌握して防衛体制を敷くことなど不可能に近い。
 つまり、アルスターからの援軍が素早く到着し、即座にコノートからの敵軍と野戦で切り結んで勝ってくれなければ策は失敗である。
 言い換えれば、援軍ならそれだけのことができると信じていなければ成立しない話なのだ。
 しかし、アルスターからの援軍が信頼できるかどうかは、レンスター軍視点では分からなかったはずだ。
 解放軍が強いことはレンスター兵士も知っているだろうが、分割して派遣される援軍の強さまで全面的に信頼できるだろうか。信頼したとして、それに賭けて城を空にできるだろうか。
 となれば正解は一つだ。オイフェが援軍を指揮することを知っていて、そのオイフェの能力を最大限に知っていなければこの賭けに乗ることはできない。
「……でも、その装備で勝てるの?」
 また首を傾げるセリス。
 セリスの観察眼を評価するまでもなく、レンスター軍の兵士たちは軽装すぎる。普段着に剣1振りだけと言っても過言ではない。
 作戦の隠密性から考えれば、決しておかしくない。
 この十字行軍の特性上、レンスター軍がマンスター方面に向かっていることを早期に悟られるわけにはいかない。特にレンスター城からこの森に飛び込むまでの平原を移動中に発見されると作戦が看破されて対応される可能性がある。
 そのため足が鈍る重装備を纏ったり、行軍速度が落ちる補給部隊を引き連れなかったのだろう。
 とは言え、この装備で勝ち抜けるのだろうか。
 セリス軍は北トラキアの地理に詳しくないため、ここからの山越えにどれだけの障害があるのかは分からない。そのダンチヒの砦とやらがどれだけ堅牢か知らないが、この装備で無傷で陥とすのは楽観的過ぎなのではないだろうか。
 そもそも補給部隊無しということは兵糧が無いということである。個人で携帯できる量には限界があり、数日がいいところだ。勝ち続けてその都度奪いながら進めば飢えずに済むかもしれないが、それをあてにするのは無謀であろう。
「あん? 俺様はセリスんトコから分けてもらおうかと思ってるぞ」
「……まだ着いてないけど? あとあんまり余裕ないよ?」
 立場的に差はないと言うか、1歳年下であるはずのリーフの方が兄にも見える主君同士の会話。
 この森を両軍の交差地点と想定したのであれば、この場で補給を受けるのは筋だろう。森の中で動きがあっても傍目に分かることでもないので企みが露見する可能性は低い。
 しかし、セリス軍の補給隊もまた到着していなかった。見通しが悪い森に飛び込んでの戦闘は不確定要素が多く、無防備で脚が遅い補給部隊などはある程度遠ざけておくのは仕方がないことだろう。それとは別に運営面での若干の綻びもありうるわけだが、これはオイフェ不在による影響の一つだろう。
 待つ時間がないわけでもないが、騙されたことに気付いて地団駄を踏みながらコノート軍を迎撃しているであろうオイフェが文句をつけてくる前に退散したいのはリーフたちの心情だろう。そもそもセリス軍から補給を受ける気であれば事前に調整しておくのが筋であり、オイフェに打診しておかねばならないのだ。出し抜くのならば早く山に入りたいところだ。
 それに、セリス軍とて分けられるほど物資が余っているわけではない。兵糧に関しては不足しているほどではないが、山岳戦の装備などの想定外の需要に対してまで都合よく用意しているものではない。順次の攻略とは言えトラキア参戦を防ぐためにできるだけ素早い進軍を求められているのはセリス軍も同じであり、無駄に鈍重にしたくないのだ。
 リーフ王子個人はともかく、アウグストなどの側近までもがそれを予想できないはずはない。ただでさえレンスター城防衛をオイフェの援軍に全て任せてしまうような奇策を打つのである、そこまでしての十字行軍なのに補給面で不安があって保証無くセリス軍をあてにするのは行き当たりばったりにもほどがある。
「仕方がないな……俺の伝手を使おう。セリス……リーフ王子への後方支援として2部隊ほど回すがいいか?」
「ん、いいけど?」
「助かります。では補給はお任せして我々は進軍致します」
 
 結果、レンスター軍は軽装のまま山に踏み込むことになり、セリス軍から派遣される支援部隊が彼らの補給を担うことになった。支援部隊はレヴィンの言う"伝手"から物資を受け取り、前進を続けるレンスター軍に引き渡すという流れである。
 詳しいことについてはレヴィンは「まぁ色々あってな」と、この場では明らかにせず、補給地の場所も支援部隊の長にしか伝えられなかった。
 戦の前の入念な準備とは縁が無さそうな話の進ませ方を訝しむ者も少なくなかったのだが、セリスが気にしていないのとレヴィンが自信ありげなのとオイフェが不在なのもあって場は収まった。
「セリス王子……」
 レンスター軍が出発するのを見送る中で、セリスに囁きかけるように話しかける一人の女性がいた。
 解放軍には様々な立場の者がいるが、セリスを"王子"と呼ぶのは一人しかいない。
 セリスがなぜ光の皇子と呼ばれているのか。
 それはセリスが亡き皇妃ディアドラの子であるからに他ならないのだが、この解釈は厳密に言えば間違いである。
 ディアドラは皇妃ではあるが、それ以前にかつてのグランベル王国の長であるバーハラ王家の当主でもあった。皇帝となったアルヴィスはバーハラ王家にとっては婿であり、シグルドに次いで2番目の婿である。
 グランベル帝国としては皇帝アルヴィスの第一子として皇太子ユリウスが継承者第一位である。だがバーハラ王家主体の旧グランベル王国の継承順位は、ディアドラの第一子セリスが第一位になる。
 この点に気付いている者はほとんどいない。セリスを旗頭とする解放軍の面々でさえセリスを皇子殿下と呼んでいる。気にしていないのかよく分かっていないのか当のセリス本人が訂正を求めないのも一因ではあるが、解放軍自体がセリスを担ぎ上げる正当な根拠を理解していないのが現状である。これはセリスに近しい者がむしろシグルドの子として見ているせいもあるだろう。
 そんな中で、唯一人だけセリスを正しく"王子"と呼ぶ女性がいる。
「ん、どうしたのレイリア? ……そうだ、ダーナでの続きまだだったよね。今しようか?」
「いえ、今はさすがにちょっと……」
 解放軍中枢部は、些細な悩みを抱えている。
 セリスがダーナ市を訪れてから連れて来た、このレイリアという女性である。
 天性の美貌とスタイル、気品と舞踊の才能。ダーナ砦の聖壇で舞い、解放者セリスを迎えた巫女としての神秘性……彼女が持つ特別な雰囲気は、セリスを上回るものがあった。
 レイリアの名は広く知れ渡っており、解放軍に参加したことを聞くと一目見ようと多くの将兵が群がり、そして魅了された。
 彼女の存在が解放軍を一際強くしたのは否定しようもない。最強シグルド軍をよく知るオイフェやレヴィンまでもが揃って「ラケシスとシルヴィアが並んで立っているようだ」と称したという噂が流れているらしい。
 一番食いついたのがセリスである。
 セリスは女性に興味を示すような世俗的反応は希薄だと思われてきたが、どうやらレイリアにご執心なようである。ずっと傍にいたユリアと比べると確かに女性の魅力の面で段違いなのだが。
 将兵の前で戯れることに抵抗というか悪意がないらしいセリス。回した手がレイリアを撫でていると、周囲が知らぬ顔をして視線を外す。やがてその手が最密着したときに密かに囁いた。
「それで、なに?」
「レヴィンの手際が良すぎます。アウグストとのやり取りが浮いていて、互いの状況を知らない人同士の会話とは思えません」
「最初から仕組んでた会話、ってこと?」
 確かに、レヴィンは解放軍の軍師であり、オイフェと不仲なのは表向きは露にしていない。そのオイフェに無断で独自の行動に出たレンスター軍について、レヴィンは咎めるのが筋だろう。
 しかしレヴィンは咎める代わりに感嘆したのである。敵の目を欺くのであっても、最高責任者に等しいオイフェやレヴィンに告げていないのは筋が通らないのに。
 レイリアはこの点を見咎めたのである。
「王子は普通にしていて下さいませ。王子は私が守ります」
 将兵からは背中側しか見えないが、寄り添って何か頷きあっている姿は微笑ましく映る。
 しかし、解放軍の真の中枢部でしか知らない対立が"次"を賭けて姿を変えながら続いているのである。

Next Index