アグストリア地方。
 シグルドによって壊滅に追い込まれた連合王国は、グランベル統治下に置かれることになった。
 大内戦でシグルド討伐のために遠征したグランベル軍は、当初の目的だったシグルド軍がシレジアに脱出したのを確認すると、アグストリア地方の掌握に取り掛かった。
 5つあった王家のうち4つはシグルドによって軒並み滅ぼされ、唯一シグルドと手を組んだノディオン王家もシグルドがアグストリアを放棄したことで領地を奪われることになっていた。このため、全土を統治下に治めることにはさほどの苦労は要らなかった。
 とは言え、アグストリアの民は反グランベルの風潮が強く、民衆の不平不満は溜まる一方であった。もともと黒騎士ヘズルがこの地の王となったのも聖者ヘイムと仲違いしてのものと伝えられており、百年経っても変わることは無かった。
 グランベル王国は頂点となるバーハラ王家とそれに仕える六公爵家という形だが、アグストリアは盟主のアグスティ王家に対して周囲も王国を名乗り緩く従属する格好になっている。ヘズルがアグスティ王家を興したとき、土着の豪族だった彼等の勢力との衝突を避けるため王を名乗ることを認めることで支配者になった経緯があったためである。それから百年間も直接的に支配されることがなかったため、中央集権のグランベル式統治が肌に合わなくなったのも無理はない。
 アグストリアが死期を早めたのはグランベルの支配に耐えかねた民衆の不満が爆発し、シャガール王が蜂起したことによるものである。これはシグルドによって叩き潰されて沈静化したのだが、それが解決になったわけではない。
 しばらくは大人しくしていたものの、763年の帝国による海賊征伐でまた火がつくことになった。
 皇帝にしてみれば海賊による被害は無視できるものではないという見地からによる遠征なのだが、アグストリアの民衆にとっては正反対の解釈となった。確かに海賊が海辺の村を襲うことはあるのだが、アグストリア全体から見れば別に海賊を敵視していたわけではなかった。
 オーガヒル島は聖地ブラギの塔があることで巡礼のための船が多く行き来していた。また、シレジアとの交易による収入も大きい。
 海賊はこれらの船を襲ってきたわけだが、アグストリア連合王国はこれを討伐するわけではなく、逆に認めることで上納金を得る方を選んでいた。
 アグストリアは地方豪族の集合体であるから、海賊もまた土着の勢力の一つという価値観があった。となれば潰すというよりも手を組むことを考えるのが自然な流れであった。
 海賊は商船を襲うから海賊なのであって、これが軍船を襲えば海軍である。アグストリアの独立と繁栄は、海賊の存在による制海権の確保によるものが大きい。アグストリアとグランベルは地図上こそ陸続きだが、大半は高い山脈で隔てられていて実質的な陸上行軍路はエバンスの森だけである。海を握られていてはさすがのグランベルも侵攻作戦の立案すらままならなかった。
 アグストリアの国防上、海賊勢力は必要不可欠なものであった。海賊行為を認めることが維持費と考えれば被害はそこまで大きなものではないし、もしグランベルの船を襲えば通商破壊になるし、その上納金は国庫を潤すラッキーな収入になる。
 帝国統治下になれば海賊と契約する国家はいなくなり、海賊もアグストリアを守る義理もなくなった。とは言え、海賊が文字通りの賊になったのかと言えばそうでもない。
 海賊行為による上納金を省いたとしても、聖地巡礼者がアグストリアに落とす外貨自体が馬鹿に出来ない。ブラギの塔を宗教的視点ではなく利権という経済的視点で捉えれば、現在の状態から動かされることは好ましいとは言えなかった。帝国の海賊征伐はこれが覆される可能性があったわけである。
 土着勢力に必要悪を見出さない皇帝にとって、海賊はあくまで海賊である。ただでさえ制海権を握られて面白くない上に聖地巡礼を阻害するし近隣の村を荒らすこともあるとなっては容赦できるものではなかった。761年シレジア・762年北トラキアに続き3年連続の遠征となるので国庫と民への負担が大きかったが断行することになった。
 大軍勢による上陸作戦が成功し、海賊勢力の壊滅は達成した。だが脱出して行った海賊の船を見送るとそれだけで討伐が終わったとは言えなかった。
 せっかく多大なコストを払ってここまで来たのだから、再発防止に努めなければならない。逃げて行った海賊たちがまた戻ってきて荒らし始めれば、遠征の意味が無いのだ。
 帝国はオーガヒル島を調査し、海賊が隠し港として使えそうな特殊地形を残らず探し出した。遠征軍が永久に駐屯するわけにもいかないし、港湾施設を抑えておかなければまた根城にされてしまうのだ。
 調査が終了すると、通商上必要不可欠な港は確保し、隠れ処になりそうなその他の港は全て破壊または封鎖した。大軍を配置するわけにもいかない以上、永久的統治を考えればグランベル側にとって必然の一手であった。
 だがこれがアグストリアの民衆にとって不満の種であった。グランベルがオーガヒル島を管理するということは、聖地巡礼の利権を持って行かれることになるからだ。少なくともグランベルが管理する港を使わなければブラギの塔に行けないのだから。
 海賊が横行していた頃はオーガヒル島に近いアグストリアにいったん立ち寄って様子を見ることが多かった。巡礼にあたりグランベル側が航行の安全を保証できなかったために護衛の船をアグストリアで確保しなければなかったからだ。だが海賊がいなくなればグランベルからの巡礼者は寄り道する必要が無い。となればアグストリアに落としてくれたはずの外貨が落ちにくくなるのだ。
 収入が減るから海賊は生かしておいてくれというのがアグストリアの民衆の本音なのだが、大声で言えるものではないし皇帝が考慮するはずもなかった。駆逐された静かになった海を眺めながら不満のみが溜まっていくことになる。
 これに加え、ロプト教が台頭してくるとさらに打撃を受けることになる。
 皇帝が公認したロプト教は一種の新興勢力である。これと仲良くしようとする領主たちは、ロプトウスへの信仰心は無かったとしても、ポーズとしてブラギの塔への巡礼を控えることになる。ということは大口の巡礼客が減るわけであり、観光収入はさらに大きく落ち込むことになる。残ったのは敬虔な信者になるわけだが、それは清廉潔白なとてもとても偉い人物なので大盤振る舞いは期待できない。
 そして子供狩りである。アグストリアの我慢はもう限界に達していた。
 蜂起するとなれば旗頭が必要である。王家は壊滅したものの、王族全てが皆殺しにされたわけではなかった。ノディオン王家はシグルドと手を組んだし、アグスティ王家も滅ぼしたシグルド軍がすぐシレジアに脱出したこともあり、逃亡できるだけの混乱はあったはずである。
 そんなわけで、アグストリア各王国に関わる有力な生き残りを探すことになった。
 何人かは見つかったのだが、帝国の統治から独立を勝ち取る戦いには尻込みする者が多く、了承した血気盛んな無謀な者はあっさりと叩き潰された。
 さらに探すうち、非常に期待できる人物が2人見つかった。
 一人は、ノディオン王エルトシャンの遺児アレス。シグルド軍との戦役前に王妃グラーニェと共に実家があるレンスターに避難しており、レンスターがトラキアによって滅ぼされるとダーナに逃れ、傭兵となっていた。魔剣ミストルティンも受け継ぎ、実力的に申し分ない。
 だが、アグストリアの民は必ずしもアレスを歓迎していたわけではない。エルトシャンは穏健派でグランベルとの開戦を最後まで反対し、独断で講和を結ぼうとしてシャガール王に処刑された経緯がある。グランベルのせいで命を落としたのは確かだが、恨みの刃を向けるのは筋違いだしそれに民衆も乗るのも難しい。実力的に非常に惜しいのだが、旗頭とするには相応しいとは言えなかった。
 事実、アレスは解放戦争後にアグストリアに帰還するわけだが、統一国家を望むアレスと以前の緩い連合体への回帰を求める地元の有力者とが衝突し、内戦に拍車をかけることになるのである。

 もう一人は、グランベル帝国軍に所属し、頭角を見せつつあったムハマドという人物である。
 見る人が見ればすぐ分かるほど、彼は亡きシャガール王と瓜二つであった。
 普通、国王の顔を知っている者はそんなにいないのだが、民のために立ち上がったシャガール王は民衆と近い距離にいたために覚えている者は多かったのだ。
 アグスティ王家の系譜にはムハマドという名前は無い。もし彼がシャガール王と血縁であれば落胤あるいは偽名ということになる。
 大内戦で大量に発生した孤児をどうするのか政治面で悩みの種の一つであった。これに対し皇帝は、孤児院を現住所と認め、新たに戸籍を作ることで素早い解決策とした。掌握できない民衆が大量に存在すれば税収や治安の面で不利が生じるので、思い切り良い手を打ったのである。
 一方で出身や両親など過去の追及が途絶えることになったため、帝国にとって敵対した勢力の遺児を追討する手がかりを失うことにもなった。メリットとデメリットを比べれば恩恵の方が大きいのだが、不安の種という面では完全に無視できるものでもなく、これが解放軍の快進撃に便乗した多くの蜂起に繋がることになる。
 さておき、ムハマドも孤児の出身である。それ以前にアグスティに居たのかどうかを知る者は誰もいないし、証明となるものをムハマドが所持していたわけでもなかった。だが何も分からないというのは希望の可能性も残していることでもあり、接触して来る者は後を絶たなかった。
 ムハマドはやんわりと否定することで関わろうとしなかった。認めれば担ぎ出されるから拒否するなら繋がりはないと答えるのはどこの遺児も同じであったため、それで食い下がってくれるわけでもなかった。
 一方で帝国軍内でムハマドの評価は高まりつつあった。育った孤児院が有力貴族が出資したものであり、貧しい育ちながら幸運にも出世の足がかりは用意されていた。周囲の兵士たちなどは面白がって『アグストリアの真王』と呼ばれ始めた。フリージ所属ということで噂を聞きつけたブルームの監視下に置かれることなった。
 ブルーム自身はシャガールに会ったことは無いが、肖像画を見かけたことはある。ムハマドが祖国を捨ててグランベルの将軍として生きる気ならばいいが、何かしら腹黒いことを考えていればと警戒すれば最悪のケースを想像した場合での被害が大きい。もしアグストリアへの転属でも願い出ればそれこそ処罰しかねないぐらいに警戒することになる。
 これがブルームの父レプトールであればどうだろうか。軍事よりも経済や外交を重視する人物であるから、むしろ歓迎する方向だろう。仮にムハマドがアグスティ王家ゆかりの者であれば、ムハマドを厚遇すればアグストリア地方に太いパイプを築くことになる。ムハマドが名声を高めれば高めるほど寄って来る者が増えるわけだから、それにつれてフリージ家が得られる利権も大きくなる。
 しかしブルームは武の人であり、アグスティ家復興のような軍事関連の事象を歓迎も無視もできなかった。これと言った落ち度もなく、容姿さえ除けば優秀な将軍である。処罰して禍根を断つこともできないために閑職に回すことでこれ以上の功績を積み上げるのを防ぐぐらいしかなかった。
 ムハマドにとってはいい迷惑であったが、それが解放軍襲来に伴い最前線の指揮を委ねられることになった。武の人であるブルームは、ムハマドの能力そのものは高く評価していたのだ。

 森に潜み、機会を窺う。
 レンスターへの救援で全軍が出払えば留守になったアルスター城に乗り込み、何もしなければレンスター攻めに加勢する。あるいはアルスターからコノートに向かうつもりならばこの森で伏兵となって迎え撃つ――状況判断が問われる要の部隊である。
 解放軍は兵を二手に分け、一方をレンスター救援に、もう一方でコノート攻めに向かうつもりのようだ。これではアルスターを攻めることもレンスターを攻めることもできない……が、戦力の分散は正しいとは限らない。半減した解放軍をこの森で撃滅すればアルスターは丸裸だし、レンスターは孤立して風前の灯になる。この戦いが持つ意味は大きいし、功績も計り知れない。
 イザーク出身の剣士で固められたのだろうか、先陣を切ってきた敵の歩兵の鋭さは恐ろしいものであった……が、ムハマドの実力も劣っているものではなかった。幾人もの血を吸ってきた槍と命を射抜いてきた弓矢が一閃するたびに士気と状況を盛り返し、ついには解放軍の足が止まった。
 戦力を分けたことで敵の指揮官が不慣れなのか、あるいは解放軍の強さに誇張があったのか、どちらにしてもムハマド隊にとって互角に戦えているのは大きい。レンスターとアルスターを奪われたことで解放軍の勢いと強さを怖れる兵士も少なくなかったのだが、やれると分かれば士気の上がり具合も違ってくる。
 一方で勝ちっ放しで来た解放軍にとって、足が止まることは不安を呼び、焦りはミスを誘って綻びが出来る。それを突けば痛撃を与えられるはずだ。解放軍は完勝の連続でここまで来たのだから、指揮官の誰か一人が討ち死にするだけでも発狂するぐらい士気にダメージを受けることになるだろう。後悔しても時間は巻き戻らないのだから一気に大崩れする可能性もありうる。
「突進!」
 ここは攻勢に出るタイミングだろう、ムハマドは前進を指示した。
 戦略戦術、戦力や装備や地の利でも戦の勝敗は決まるが、怖れない軍隊も強い。解放軍に対して互角に戦い士気でも負けてもいないのなら反撃に出る頃合だ。
 ところが――。
「敵襲――っ!! 右翼から敵が突っ込んで来ます!」
「何ぃっ!?」
 挟み撃ちに遭う格好になったムハマド隊は崩れ、息を吹き返した正面のセリス軍にも反撃されて一気に壊滅した。ムハマド本人も命を落とし、真か嘘かは分からないまま、アグスティ王家再興の有力な芽は断たれることになった。
 だが、ムハマドの驚愕は筋違いではなかった。
 ただでさえ半数に分けた解放軍が、さらに兵を分割して回り込ませる作戦を採るのは考えにくい。ましてや森に潜む軍と戦うのである、狙い通りの場所やタイミングで戦闘に参加できるとは限らない。上手く転がらなければ各個撃破のいい的である。
 そう、あの別働隊が北トラキアの地理によほど詳しいのでなければ有り得ない話である。

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