「甘かった……っ!」
 一言で言い表すならば後悔しかない。
 眼前で次々と叩き落されていく竜騎士の陰影に、フィンは自分の不明を呪うしかなかった。
 手引きによって自軍に隙を作りルーを討たせるという密約はアルテナと結んだものの、まさかすぐさま決行されるとまでは思い当たらなかった。
 あの軍勢は、解放軍本隊に打ちかかって見せることでマンスター城からリーフ軍を引きずり出させようという囮に違いない。おそらくこの付近に城外に出たリーフ軍を吸収する別働隊が潜んでいるに違いない。
 ……が、こうまであまりにも一方的だと援軍に向かわなくてもよくなってしまう。少なくともルーがリーフ王子のふりをして出撃する必要性は無いだろう。仮にも友軍なのだから向かうべきだと勧めても首を縦には振らないに違いない。ルーの価値観に義理を欠くことによるデメリットなど記されているはずがないし、客観的に見ても無理してマンスター城を手薄にする意味は無かった。
 こうなったのもフィンに原因がある。
 リーフ軍が解放軍本隊と切り離されている今こそがアルテナからは好機に見えて当たり前だったはずなのに、フィンはもっと有効な手引きをしようとしなかった。フィンからはトラキア先遣隊の戦力では決行に踏み切れないという思い込みがあり、一か八かの勝負に出るような時期ではないと判断していたのが今回の読みのズレに至ったのだ。
 そしてもう一つ。フィンは解放軍の強さについてアルテナに伝え切れていなかった。
 シグルド軍と解放軍の両方を知るフィンならば理解できるが、この軍の強さを口頭で表現するのは難しい。上手く表現するために比較するものが何もないからである。解放軍の強さについては「シグルド軍並み」と言い表すことができるが、そのシグルド軍の強さについてアルテナが理解できているわけがなかった。
 結果、アルテナにしてもコルータにしても解放軍の強さについて「非常に精強」とは警戒したが、それすら過小評価であることには思い至らなかったために今回の作戦となり結果となったのである。
 マンスター城に飛び込んで来たアルテナとは話していられる時間が少なかったせいではあるのだが、フィンはもっと簡潔に強調しなければならなかったのだ。
「それもこれも……っ!」
 更に理由を挙げるとするならば、コノート周りで進軍している解放軍本隊が思ったよりも早く姿を現したことだろう。アルテナがマンスター城にリーフ軍が浮いている状態を好機と見ていたのならば、解放軍本隊のマンスター入城と合流はタイムリミットということになる。となれば、予想より早い本隊の到着はアルテナの焦りを生んだ要因の一つになったと言っても過言ではない。
 もしも彼らの到着がもっと遅かった場合、ルーを城外に釣り出す策略が使えたかもしれないのだ。例えば、「トラキア王国はリーフ軍との同盟を望んでいる」とアルテナ署名で会談を申し込ませるという手もある。さらに極端な例を挙げれば「トラキアの王女がリーフ王子に一目惚れし、人目を忍んで逢いたがっている」なんて理由でもいいのだ。
 リーフ軍が単独の状態にあるということは、主たるルーが何か無茶なことをしようとしても止める者がいないことでもある。リーフ王子の身を案じて止めようとする者は多いが、正体を知らずとも普段のルーを見ていればどこか緩みがあることだろう。ルーが誘いに引っかかるかどうかは分からないが、少なくとも色々とアプローチをかける時間があったわけであり、成功の確率が上がっていたわけである。
 しかし本隊の予想外の早期到着でそれは潰えた。策を弄する暇など無く、トラキア軍が打ちかかったのは唯一残された手段だったのかもしれない。とにかく、それもこれも本隊の指揮官が悪いのだ。
 
 マンスターに入城したオイフェ。
 直属の騎兵を率いてコノートから先発し、流出市民に偽装した輸送隊を取り込むとトラキア先遣隊を撃破。神速の行軍はトラキア軍の出鼻を挫くことに成功した。
 おかげで戦わずに済んだリーフ軍であるが、主たる面々はオイフェを出迎えての表情はあまりいい顔をしなかった。どうやらリーフ軍がマンスター城の解放者としての地位を固めきる前に現れたのが原因のようだ。
 世界中を転戦してきたオイフェには理解が及びきらないことなのかもしれないが、北トラキアを主戦場としてきたリーフ軍にとって地盤を固めることは重要である。セリスが"次"を見ているように、彼らにもこの聖戦の後の世界が待っている。そのために北トラキアの解放者となれるかどうかは大きな事なのだ。
 オイフェは間接的にそれを意図的に妨害した。十字行軍という単独行動に及んだリーフ軍をレヴィンが操っているのならば、リーフ軍を抑え込むことがレヴィンに対する対抗策となるからだ。リーフ軍重臣達の表情を見れば悪いことをしたかと少し気まずくなってくるが、その中でも特に苦い顔をしているフィンを見つけることができたのは大きな発見かもしれない。
 リーフ王子が偽者で、フィンがルーを密かに亡き者にしている――この真実を知らないオイフェから見て、フィンのあの渋い表情はいかなる理由から来るものだろうか。
 フィンの、明らかにオイフェの登場を嫌悪する表情……オイフェが思い当たる節は2つある。
 まず1つはフィンがレヴィンと繋がっており、何かしら計画を潰されたから。十字行軍までしてマンスター城を単独で奪取したからには、単独でトラキア軍と向かい合うことによる何らかの恩恵を期待していたからに他ならないだろう。それが何かは分からないが、何かはあったはずなのだ。
 しかしそれはオイフェが叩き潰した。リーフ軍の意図を無視して勝手にトラキア王国と開戦してしまうという妨害工作は成功し、トラキア先遣隊は壊滅した。事こうなれば双方とも引っ込みがつかないはずであり、リーフ軍がなだめても鎮めるのは困難になる。さらにその上を行く策を用意しているのかもしれないが、フィンの表情を見る限りは有効打だったに違いない。
 もう1つはごくごくプライベートな話である。
 単純に、オイフェはフィンと仲が良くなかった。ラケシスを巡っての恋敵同士であったわけだが、お互い共に青春の思い出を懐かしく語り合えるような大人には成長しなかったようである。オイフェは過去の記憶の幻影に炎がくすぶり続け、フィンはその忘れ形見を養女として手元に置いてきた。ラケシスの面影を強く残すナンナを育てるということは正直に言って羨ましい限りだが、それと同じぐらいにオイフェには重すぎた。
 ラケシスは誰の目の前からも姿を消した。イザークにいるもう一人の子デルムッドを迎えようとイード砂漠に踏み入ってそのまま行方が分からなくなってしまったのだ。これはイザーク側の責任者であるオイフェの手落ちでもあった。もし上手く連携できていればこのような結末にはならなかったかもしれないのだ。
 その自責の念が残るオイフェにとって、ナンナを育てることは贖罪のようなものだ。ナンナに愛を注げば注ぐほどラケシスの死に責任を感じてしまうのだ。それだけにナンナを育ててきたフィンには多少の感謝と敬意があったわけなのだが……しかしその一方で羨ましい気持ちもやっぱりあり彼への感情はどうにも割り切れない。ナンナの父親のように飄々と自由に生きることができれば気に病むこともなかったのであろうが……。
 フィンから見てのオイフェは、シグルド付きの書記官を務めていたのが羨ましかったに違いない。フィンの主キュアンは"ティータイム"に参加できず、その侍従だったフィンはラケシスと会う口実に恵まれなかった。毎日のように同席できていたオイフェとは雲泥の差である。もしもラケシスを射止められなかった理由をここに求めたのするならば逆恨みしてもおかしくない。最終的な勝者は別の男だったわけだが。
 そのオイフェが大功を立てたことが単純に気に入らなかったのだろうか。解放者として賞賛される前に横槍を入れられたことにはいい顔をしないのは同じだとして、同じ横槍でもそれがこいつならばまだ許せるという人物がいるように、許せない人物もいる。単純で幼稚なことであっても、嫌いな奴に邪魔されるのが腹立たしいことを否定できるものはいないだろう。
 大きく分けて以上の2通り考えられるわけだが、前者ならば詮索する必要があるが後者ならばできるだけ関わらない方が良さそうである。重要な手がかりになるかもしれないだけに、この判断は読み違えられない。

 その夜――
 オイフェは自分の副将を務めるアレスの部屋に赴いてカードに興じていた。
 魔剣ミストルティンを振り回して戦場を切り裂く黒騎士アレスの勇姿は軍を統括すると同時に騎兵部隊を率いるオイフェにとって非常に心強い存在である。今回の一戦も彼の活躍が非常に大きく、ねぎらいの意味で今夜は彼に付き合うことにしたのだ。
「コ、コールだ!」
 ただ、戦場で強ければ強いほど何らかの問題がある可能性が高いのはシグルド軍から続く遺伝的持病であろうか。彼は熱くなると止まらぬ猪武者であるが、剣を鞘に納めればギャンブルに身を焦がす性質の持ち主だったようだ。
 名将はギャンブルにも強い。洞察力、判断力、決断力……求められる資質は戦場での指揮能力とあまり変わらないからだ。勝つための模索、勝負どころでの思い切り、敗色での撤収の早さなどなど、共通する部分は多い。
 そんなわけで、賭け事はあまり好きではないオイフェは色々と糧になるかと相手を務めようと思ったわけだが……これがまたアレスはどうしようもなく弱かった。黒騎士ヘズルの末裔なのでと自分の副将に据えているのを考え直したくなるぐらいアレスはギャンブルに弱かった。表情一つ見れば、声一つ聴けば、相手の手役の強さがほぼ予想できた。これで負ける方がおかしい。
「では勝負」
「……っ!! んが――っ!!」
 戦場では吼えれば兵の士気が上がって軍が強くなるかもしれないが、公平なルールに則って行われるカードゲームではわめき散らしても意味が無い。いくら暴れてもまた大量のコインが移動することに変わりは無いのだ。
「ふぅ……」
 勝って懐が暖まるのは悪いことではないし、一喜一憂が激しいアレスは見ていて面白い……が、勝負自体が全く楽しくない。アレスのは過度だとしても、勝負に熱くなるのが快感なのは大半の人間に共通している。だがこれだけ一方的だとそれが全く無いのだ。長く続けてきて少し疲れたのもあり、溜息が漏れる。
「これ以上やると本当に一文無しになるが……まだやるのか?」
「うるさい、レイリアみたいなことを言うな!次早く配れ!」
 頭に血が上った人間を説得するのは至難の業である。もっと負けが込まないと冷静にはなれないようだ。そのときには逆に青くなっているのだろうが……。
 これは後に本人に聞いて分かることなのだが、アレスはレイリアに多額の借金があるらしい。何で勝負したのかは不明だが、文字通り身包み剥がされただけでなく、彼の人生までもが借金のカタにされてしまいレイリアに従属しているそうだ。ダーナ市では同棲しており公認の恋人同士と噂されていた二人だが、実態はかなりの上下関係がある模様だ。ただお互い悪くは思っていないようなので、あるいはこういう形に収まるのが自然なだけだったのかもしれないが。
 アレスが逃げないのはレイリアに愛情を寄せているからなのだろうが、レイリアからはどうなのだろうか。単に便利だから使っているだけとも受け取れるだけに判断が難しい。
 何しろレイリアはセリスの寵愛を受けており、現時点では王妃候補筆頭の女性である。資質から見てレイリアが王妃の座に収まるのはオイフェにとっても順当であるが、アレスとの兼ね合いが将来的な問題として残る。アレスからはセリスに寄り添うレイリアがどう映るのだろうか、他人の恋路になどあまり踏み込みたくないがいつかは解決しなければいけない。

 コンコン――
「ん?」
 アレスとの不毛な勝負に上手く水を差してくれるノック音。
 来客となればもちろんギャンブルを続けるわけにはいかない。この水入りによってアレスの熱も少しは冷めてくれるだろう――渡りに舟とばかりにオイフェは席を離れてドアを開けた。
「どな……あっ――」
 ドアの先にいたのは――ナンナだった。
 想い人の忘れ形見。手にしている小さな燭台に浮かび上がる美麗な陰影と、魅惑的な衣服。これに心踊らないはずが無い……が、それは筋違いであろう。ここはアレスにあてがわれた部屋であり、ナンナはアレスに会いに来たことになる。ナンナにとってアレスは従兄弟に当たり、エルトシャンとラケシスは因縁深かった兄妹だった。親同士がどんな結末を迎えたのかオイフェは知っていたが、この二人にはどう伝わっているのだろうか。
「ぁ……」
 ナンナが小さな声を漏らした。オイフェがここにいるのは予想外の出来事なのだろう。
 こんな夜更けに人目を忍んで会いに来るのは小さな理由ではあるまい。いくら血が繋がっている従兄弟同士とは言え、深夜に男の部屋に忍ぶのは普通考えられないことだ。とはいえ恋仲になっているはずはないのだが……。
 一方でアレスはというとナンナの来訪に疑問符が頭の上で踊っている。どうやら面識は全く無いらしい。
「あの…アレス様に用件があって参りました……これを…」
 オイフェがいたのは意外ではあったが、不都合というほどではないようだ。というか、優雅さと気品を十二分に受け継いだナンナにとって、見苦しく隠すという考え方が無いのだろう。母親のような覇気とは形が違うが、行動に出ておいて退くのは自分が許さない点は似ている。その意味では、最後まで戦争に反対して処刑されたエルトシャンや無謀な勝負を続けて身を滅ぼすアレスとも共通点があり、さすがは血縁と言うべきだろうか。
 ナンナが一通の手紙を差し出した。まさかアレスへの恋文ではないとは思うが、ラケシスへの引っかかりで内容を知りたくなった。"ティータイム"に同席していた経験から、守秘義務がどれほど重いものなのかは分かっているつもりだった。だから他人の手紙の内容には関知すべきではないと分かっているのだが、それでも知りたかった。
「密書は感心しませんが……いかなる内容です?」
「ノディオン王エルトシャン陛下から、アレス王子殿下に宛てた手紙です。内容は私も存じませんの……」
「ふむ……」
 引っかかる点がある。アレスはアグストリア戦役が始まる直前に王妃グラーニェの実家があるレンスターに疎開していた。つまりこの時点ではこの手紙は書かれていたわけではない、もしそうならばナンナが預かっている理由が無い。ナンナが持っているということは、母ラケシスから受け継がれているはずなのだ。となればもっと後の話……死の間際に書かれたものに違いない。
 だが、ラケシスは律儀に手紙を残すような人物だろうか? 他言はできないが、犬と蔑んでいた兄エルトシャンから託された手紙を処分しないでいられるだろうか? ラケシスとの人となりやエルトシャンとの関係を知るオイフェにとって筋が通らないのだ。
「ナンナ殿、この手紙……ラケシス様から直接渡されたものですか?」
 ラケシスを経ないとなると、エルトシャンからナンナに繋がる因子が無い。ナンナの父親はエルトシャンと懇意にしていたらしいが、ナンナの記憶には父親はほとんど無い。ナンナ自身が手紙の内容を知らない点から考えれば差出人と宛て先だけ受け継いだとは考えにくい。
 つまり、この手紙に信憑性が無いのだ。誰かが「この手紙は〜」と銘打ってナンナに渡していなければ成立しない話なのである。
「いいえ、もともとはシレジア王レヴィン陛下が預かっていたものです」
「……!」
 繋がった! オイフェは驚きよりも嬉しさの方が上回った。
 リーフ軍にばかり注意が向けられてしまったが、アレスもまた浮いた存在であった。現在のアグストリアの状況からして、"次"の時代にアレスが立てば諸公連合ではなく統一王国となる可能性もある。アレス一人の懐柔でアグストリア地方に影響を及ぼせるようになるのは利得の面でも大きい。
 おそらく、手紙の内容はレヴィンの創作だろう。影響下にあるリーフ軍の中でも特にアレスと深い繋がりがあるナンナを使って何か吹き込むのが狙いに違いない。
「分かった、貴女を信じましょう。……アレス、私はこれで失礼するが、手紙は頭を冷やしてから読むんだ」

 内容は気になるが、ナンナすら知らないのにオイフェが中を検めるのは気が進まない。内容を読んだことをレヴィンに知られたくないのもあるが、どうにもナンナを裏切りたくない気持ちからの判断であろうか。
 手紙の内容については、後でレイリアから聞き出してもらおう。レイリアは表面上はオイフェとは繋がっていなく、ここから漏れるとはレヴィンも想定していないはずだ。向こうが気付いていないのならば計画を一つ防ぐことができるし、ここを逆利用してレヴィンに一杯食わせるのも狙える。また、アレス−レイリア−セリスという流れで何かアクションを起こされる可能性もあり、セリスを守る観点で言ってもレイリアに注意喚起しておくのは有効であるはずだ。
「それにしても……」
 コノートからマンスターまでの強行軍にレイリアは大いに貢献し、本人も城に着いているだろう。普段はセリスと共に居るので接触が難しく、こういった戦の直後でなければなかなか逢えない。
 それにしても、ナンナの姿と声に心動かされた直後に別の女に逢いに行く……なんと贅沢で背徳な夜だろうか。ナンナはオイフェに逢いに来たわけではないし、レイリアには用があっての訪問である……が、それを差し引いても単純に逢えることが嬉しい。
 だがナンナはフィンの被保護者であり、レイリアはアレスと付き合いながらセリスの寵愛を受けている。どちらの女性も本来ならば私的に逢うのは許されない相手だ。

 オイフェの夢は、帝国とロプト教を打倒しセリスを王に押し上げることに違いない。
 だがこの二人の女性については……果たして、どちらも叶わぬ夢であろうか。

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