「敵襲!敵襲――ッ!!」
 ミーズ城は太陽ではなく奇襲による焼き討ちによって夜明けを迎えた。
 トラキア王国の最前線であり、今回の北進の拠点となるはずの城であったが、この奇襲によってその役目が間違っていたことを思い知ることになった。
 先遣隊がマンスター城を確保して新たな最前線とする一方で、このミーズ城に本隊が集結する予定だった。そして攻城兵器の輸送が完了し、城外に集積していたところを狙われたのだ。
 
 城の守りを任されていたマイコフ将軍は別に無能な人物ではなかったが、状況を甘く見ていたことは否めなかった。攻城兵器の性能上、最前線の城外に集積するのは愚かな行為だ。設置・梱包に時間がかかる攻城兵器は機動力が皆無に等しく、咄嗟の退却などできるわけがない。機動戦力ならば城内に走って逃げ込めばいいが、こちらはそうもいかないのだ。最前線の城ならば敵襲を想定した運営を行わなければならないはずだが、マイコフはこの禁を犯したのである。
 ただ、マイコフは彼なりの思惑があってこのような措置を採っていた。
 北進は何より速度勝負である。本隊が到着して全軍で北に向け進軍しようとするとき、最も円滑で素早い行軍を可能にするためにはどうすべきか……この問題の解答が攻城兵器の城外への集積であった。
 トラキアは地形が険しく国土が貧しい都合上、大きな城は必要が無い。防衛観点上ではこれでいいのだが、進軍の拠点とすべく軍を集めるにはやや手狭であった。特に今回はトラキア王国史上最大規模の軍勢が揃う予定であり、雑多な配置では混雑を呼び進軍に支障を来たす可能性があった。そのため、大胆な解決策として城外に空いているスペースに攻城兵器を集積しようとしたのだ。
 もしも襲撃を受けなければ画期的なアイデアと賞賛されていたのだろうが、ミーズ城に敵が現れないという前提を確信しすぎたためにこの賭けは外れることになった。
 先遣隊が飛び立って行った時点で、マンスター城奪取は揺るぎようが無かったはずなのだ。マンスター城を確保すれば最前線はミーズ城から遥か前方に移動することになり、集積地は安全地帯ということになる。マイコフも最前線に集積するリスクは知っていたが、すぐに最前線でなくなると分かっているからこそこうしたのだ。
 だが現実とはとかく非情である。マンスター城を解放軍に奪われた報と、先遣隊が敗れ去った報をマイコフは受け取ることになってしまったのだ。
 ここで攻城兵器の鈍重さが足枷となった。凶報を受け取ったマイコフはミーズ城の守りを固めようと動いたのだが、すぐに城内に収納できるようなものではなかった。そもそも集積のための運搬は兵士が行ったわけだが、ミーズ城の守りも固めなければならなくなったために回収に総出でかかるわけにもいかなくなっていた。かと言って放棄すれば攻城兵器を失うことになり、北進に大きな支障が出る。北トラキアに組織的抵抗は無いにせよ、トラキア軍の来襲を見れば城門は閉ざすだろう。これを素早く制圧するためには攻城兵器による威嚇効果が大きいのだ。よって何としてでも回収した上で戦いに臨みたかった。
 何とか人員をやりくりして作業を進めていたのだが、敵の出現はマイコフの予想よりも遥かに早かった。
 作業にかかっていた兵士がまず蹴散らされ、攻城兵器に火を放たれた。松明の炎と月光が反ねる刃の動きは、恐ろしく速く、そして静かであった。
 戦場の真っ只中に歌が流れ、炎を背にしながら一斉に城壁に向かってくる解放軍の攻撃に、ミーズ城の兵士たちは肝を潰した。
 トラキア軍は悲願の達成のために命を厭わない心身ともに屈強な兵士が揃っているが、守勢に回るとやや弱い部分がある。トラキア軍史上、攻撃と守備では積み上げた実績と経験に大きな隔たりがあるためである。トラキアの戦争とは一度でも負けた場合はもちろん引き分けすら許されない困難な戦いなものだったからであり、トラキア王国が侵されることがほとんどなかったためであり、武器は揃えられても防具にまで手が回らないためであり……様々な理由で、トラキア軍は防御に向いていなかった。野戦での防御戦ならまだしも籠城戦の実戦経験など完全に皆無であった。冷静に戦えば何とかなったかもしれないが、奇襲に煽られて狼狽している状況ではどうにもならなかった。
 もしも集積地が城内ならば結果は違うものになっていた可能性があった。軍の統制に全力を費やせていたから対応が遅れることもなかっただろうし、増援の到着まで耐え凌ぐことも決して不可能ではなかったかもしれない。

「ミーズ城まで落ちた!?」
 アルテナはまたも指をくわえて見ているしかなかった。
 マンスター城を奪われる様を、コルータや部下たちが散っていく様を、そしてミーズ城の陥落を。
 もしも十字行軍を、解放軍による山越えの奇襲を見抜けていれば。
 フィンとの密約を信じて無謀な挑戦に出ずに大人しく引いていれば。
 そして遺体や遺留品の回収に時間を費やさず素早くミーズ城に戻り守備を固めていれば――。
 アルテナの立場から見れば、マイコフが攻城兵器を城外に集積させたことを責められない。彼はアルテナがマンスター城を抑えることを前提にそう動いたのであり、アルテナを信頼してのことなのだから。
 ミーズ城の兵士たちは朝靄の中で奮闘し、そして斃れていった。うつ伏せに倒れた者はトラキアの大地と行く末を案じながら。横向きに倒れた者は脱出して行った仲間達の無事を願いながら。
 そして仰向けに倒れた者は自らを見届けるために周回するアルテナを今際に見て何を思うのだろうか。命と城と機会を失うことになった責任を問うのか、あるいはそれでもなお悲願の達成を託すのか。
「私は……間違っていたのか……」
 何もかも、先遣隊を率いたアルテナのごく小さな手落ちから起こったことだ。トラキア百余年の悲願が、蟻の一穴から崩れようとしているのだ。
 
 トラキア王国にとって、今回がそれこそ最後の好機なのかもしれなかった。
 北トラキアは解放軍に荒らし回されて大混乱、組織的抵抗に遭う可能性はほとんど無い。
 もちろんこれが最後だと区切りをつける意図は無いが、今度こそはと願う心が13年前より強くなっているのは間違いなかった。強い意志こそがトラキア国民に必要なものであるが、彼らとて精神力が無限大に蓄蔵されているわけではない。このままではきっといつか心が折れてしまうのだ。
 だが、トラキア軍は最初の最初で躓いた。リーフ軍による十字行軍を読みきれなかったためにマンスター城を確保しそこね、それを前提にしていた編成の先遣隊は壊滅し、ミーズ城は陥落することになってしまった。
 千載一遇の好機を逃した――これはもう拭いようがなかった。
 運命のほんの一転がりで、悲願はまたしても遠のくことになってしまったばかりか祖国の存亡すら危うい状況になってしまったのだ。
 仮に本隊が解放軍を撃ち破ったとしても、その勢いのまま北トラキアに雪崩れ込むことはできるだろうか? 可能かもしれないし、これまでのグランベルの手際の良さから考えれば対応されていそうな感もある。
 それに賭けるのならば今まで以上の急戦が必要になる。北トラキアは時間が経てば事態が収拾してしまうのだから、腰を据えて防御戦というわけにはいかない。ただし険しいトラキアの地の利を捨ててまで決戦を挑むのは大きすぎる賭けでもある。今回が本当に最後の機会だとして悲願成就か国家消滅かを賭ける覚悟が必要だ。
 難しいと見るのならばまずは守りを固めることが肝要になる。トラキアの地形から考えれば防御線の構築は難しくない。"トラキアの盾"ハンニバル将軍に最前線を任せて守備に徹してもらえばそうそう抜かれることは無いはずだ。その間に反撃の態勢を整えればいいし、(形式上は)同盟を結んでいるグランベル帝国が解放軍の裏を突いてくれることも考えられる。しかしこちらを選択すれば今回の悲願成就は諦めるしかない。グランベルにセリス討伐の恩を売れば城1つぐらい割譲してもらえるかもしれないが期待して動くべきものではない。
「……」
 もう何も考えられない。
 情熱だけは失いたくない、だけれどトラキアのために何をすればいいのか分からなくなってきた。
 トラキアのために考え、動くこと。努力したはずなのに、骨身を削ったはずなのに、アルテナが起こした結果は悪い方向に転んでしまった。
 民を導き兵を率いること――王女に課せられた使命が、これほど重いものだったとは。そしてどんなに重くても背負ったものを脱ぎ捨てることが許されないのだ。
 王に涙は許されない。どんなに悲しくても悔しくても寂しくても、王は泣き崩れてはならないのだ。その姿勢だけは父から学んだつもりだったが、まだまだ甘かった。新たに胸に刻み、僅かに潤んだ瞳を伏せ、アルテナはミーズ城を離れて南に飛び去って行った。
「兄上……」
 次代のトラキア王国を共に担う相手。そして最も意見が合わない相手。
 兄アリオーンは、王の重責を理解した上でアルテナと衝突を繰り返していたのだろうか。もしそうならば自分の過ちを認めて詫びなければならない。そしてこれからは真摯に耳を傾けよう。
 父トラバント王はここ最近は陣頭に立たず一歩引いている感がある。隠居を決め込むにはまだまだ若い王だが、アリオーンとアルテナにできるだけ任せてみようという姿勢の表れなのだろう。それは悲願の成就と豊かな暮らしがトラキアの民に根付かせるという単純な夢が自分の代では叶うものではないという考えの裏返しでもあった。
 二人で手を取り合ってトラキア王国を守る――アルテナに課せられた使命の根底はこれではなかったのか。これができなくて悲願の成就などできるわけがない。
 だがもしも兄もまた世間知らずの王子でしかなく王とは何かを知らなかったとしたら……この国はどうなるのだろうか。
 その答を知っているのは父王トラバントだけであり、答を知っていながらなお沈黙を守り通していた。

「……疲れた。先に休むね」
 ミーズ城に入ったセリスは開口一番で寝ることを優先した。
 戦場でも奮闘したレイリアがそれに伴って廊下の奥に消えていった。セリスに寄り添うことを"仕事"と位置付けるならば彼女は休らう時間が何一つ無いことになる。
「皆も限界か……しかしこの好機……」
 この北トラキアでは強行軍の連続だった。
 トラキアの介入を防ぐために迅速な行軍を求められ、急いでコノート城に向かった。リーフ軍がマンスター城を抑えるといち早い掌握のためにただちに進発した。そして先遣隊を撃破してマンスター城に入ればこれもまた一夜の休息のみでミーズ城に雪崩れ込んだ。功は奏してミーズ城奪取は安易に完了し、オイフェの指揮は当たったと言える。
 だがもしもあらかじめ十字行軍を知っていたのなら、ここまでの強行軍は必要なかった。マンスター城防衛に適うだけの戦力をリーフ軍に預け、本隊は通常の速度で進軍すれば良かったのだ。代わりにミーズ城の守備は堅くなって戦局は別のものになったのだろうが、それでも形勢は決して悪くはない。
 今はミーズ城を奪取できた分だけ押しているが、押しすぎている感がある。トラキアの戦力は崩れたままで、今ならば逆侵攻は難しくないだろう。好機ではあるのだが、こちらの態勢が万全ではないのだ。特に疲労の面でそろそろ危うい。
 シグルド軍は対ヴェルダンの後に1年、対アグストリアの後に半年、シレジアに逃れてから1年と、一つの戦争の後には休養と準備の期間があった。そして最後の対グランベル戦ではこの間隔が一気に狭まって臨むことになった。最後の最後の敗因がこれによるものなのかは断定できないが、要因の一つだったのは間違いない。
 一方で解放軍はどうか。隠れ里ティルナノグで旗揚げして以来、イザークを解放し、イード砂漠を渡り、北トラキアで戦い抜き、そしてこの険しいトラキア王国に雪崩れ込もうとしている。解放軍が掲げる旗の都合上、半年や一年もかけて準備などしていられないのは分かっているが、この強行軍の連続はさすがに負担が大きかった。
 シグルドの背中を追い、シグルド軍のコピーを実現しようと苦闘を続けてきた。だがシグルド軍と同じ行軍を強いるには、休らう期間が無い分だけ負担を強いてしまうのだ。
 できることなら休ませたい……が、戦況は押せ押せの展開である。天険に囲まれたトラキアの地で守備に徹されると撃破は非常に困難になる。戦線を崩した今こそもっと深く斬り込むべきではあるのだ。
「戦うしか、ないのだ……」
 "次"を見るセリスが、軍の全権をオイフェに委ねるときに一つだけつけた条件。"次"の覇者となるために全ての地域・国を踏み潰すこと。
 帝国とロプト教の打倒を掲げる解放軍にとって、トラキア王国は必ずしも滅ぼさねばならない相手ではない。トラキアは形式上は帝国と同盟を結んでいるが、それが宣戦布告の口実にはなっても実の面で運命を分かち合う同盟者だとは誰も思っていない。
 傍目から見れば無駄な戦い。だがセリスとオイフェにとっては戦って倒さなければ相手なのだ。疲労困憊の将兵に鞭打ってでも――。
「疾い軍だったな。シグルドが生きていれば褒めたかもしれん」
 気がつくと、皮肉っぽく賞賛の拍手をするレヴィンがそこにいた。
 顔を合わせるのはアルスター城以来、十字行軍の直前である。このレヴィンの仕掛けによって解放軍は大きく振り回され、止まる事が許されない急勾配の下り坂を走らされている。
 だが改めて顔を合わせればそれを咎める気は起こらなかった。この状況がレヴィンの思惑通りならば、次の局面で何かが待ち構えて何かが起こるはずなのだ。今さら過去のことを蒸し返しても何も始まらない。
「ならば、軍については私に一任させてもらいたいのですが」
 オイフェが言えたのはそれだけだった。レヴィンの動きはオイフェの足を引っ張るわけでない……が、どこかに向かって誘導されているのは間違いない。レヴィンによって軍が敗れることはないが、無いのは今の話である。今のところは無いだけであって将来的にどうなるのか分からない。レヴィンの最終目標が何で、そのために何が必要で何が邪魔なのか読みきれない以上、今のオイフェはセリスのために戦って勝ち続けるしかない……が、このままで本当にいいのか心のどこかに疑問視する欠片が埋め込まれているような気がする。
「オイフェ、お前が率いる軍は確かに強い。強さだけならシグルドの頃と遜色が無いだろう。だがな……お前の軍は綺麗すぎる」
「綺麗……?」
「シグルドは侵略者で、征服者で、反逆者だった。セリスの手を白いままにしてこの先も勝てると思わんことだな」
 そう、シグルドは正義のために戦っていたわけではなかった。
 客観的に見てもヴェルダンやアグストリアを滅ぼした侵略者であり征服者であり、グランベル王国に弓引いた反逆者だった。シアルフィ公家はクルト王子暗殺の首謀である以上、シグルドの戦いに正義は無かった。
 オイフェの記憶でも、シグルド軍の誰しもが正義を口にしていなかった。強いて言えばラケシスぐらいだが、彼女にとっては自分自身が正義であり衆目のために掲げる旗ではなかった。だがシグルド軍は正義の軍隊ではなかったがよく戦い、連携も良かった。シグルドの死後こそは瓦解したものの、勝っている間は一枚岩と言ってもいいぐらい纏まっていた。
 解放軍が掲げる帝国とロプト教の打倒は、解放軍全将兵が共有でき得る正義である……が、それはそこから踏み外してはならない枠組みとも言える。
 セリスは解放軍の旗手として聖者となるべき人物であるが、本人が望んだのは覇者であった。そしてそれを推し進めるための真の戦争目的もまた皆の知ることではなかった。

 オイフェとレヴィンの静かな戦争は、十字行軍という形でトラキア半島に大きな影響を与えた。
 この流れを起こした者、流れに乗る者、流れに逆らおうとする者、流れに飲み込まれる者……誰しもが何かを被った。
 誰かの正義は、他の誰かのそれとは限らない。それが衝突するから争わなければならないのだ。
 そしてトラキアの地は、解放軍が掲げる正義とは直接の関係が無かった。
 そして解放軍は約束の地を実行支配する宿敵ではなかった。
 戦わなければならないが戦わなくてもいい、適っていない正義を賭けた戦い……始めるしかなかったのだろうか?

(反・聖戦の系譜 第12章 完)

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