トラキア半島は3つの勢力に分割された。
 北トラキアの支配者で、北東の四半分に追い詰められたフリージ家。そのフリージ家を倒すべく撃ち破ってきた解放軍。そして半島の南半分を擁し、北上の機会を窺っているトラキア王国である。
 どの勢力も今の構造を良しとしていない。事態はすぐに動くものと見られていた。

 フリージ家にとって、解放軍撃破だが唯一の目標である。南のトラキア王国は貧しい土地でわざわざ奪いにいくほどのものではなく、解放軍を破ってレンスターとアルスターとメルゲンを奪回できればそれで達成なのである。
 それだけ聞けば3者の中では最も楽そうなものだが、独力で解放軍に勝てるのであればそもそもこんな劣勢にならない。劣勢だと分かっていて自力で挑まねばならないのだからむしろ最も苦しい立場なのかもしれない。
「援軍?」
 グランベル帝国とトラキア王国は同盟を結んでいる間柄である。一方が危機に瀕して救援を要請すれば出兵する義務がある。自力では苦しい相手でもトラキアからの援軍が加われば互角以上に戦えるはずである。
 しかし、ブルームはもちろんフリージ家の大半がトラキア王国を信用していなかった。トラキア国王トラバントが野心家であることも、隙あらば北トラキアを我が物にしようとしていることも知っていたからだ。援軍と称して軍事介入してくる危険性も充分にあるのでこちらから要請することはしたくないし、それ以前に頼みもしないので侵入してくる可能性まで考慮する必要がある。最悪のケースとしては解放軍とトラキア軍の挟み撃ちになりかねない。
 とは言え、トラキアを排除したまま解放軍に勝てるかとなると難しい。決して勝てない相手とは言わないが、今の軍の勢いでは正面からぶつかっては勝ち目は薄いだろう。
 解放軍とトラキアに挟まれた格好になっているフリージにとって、コノートとマンスターの両方に守備を振り分けねばならない現状は好ましくない。マンスターの戦力をコノートに移して集中できれば解放軍に対し優位にも立てるのだろうが、同盟国であってもトラキアに対し無防備な背中を見せることはできない。加えてマンスターではレジスタンスが不穏な動きを見せているという情報もあり、城を空にすれば何か起こされる危険性が強い。
 このままでは勝つのは難しい。トラキアをあてにするのは非現実的。戦力の集中もできない。
 八方塞の状況をどうにかして打開しなければならないのだが、どこを改善させるのが最適であろうか。戦術を駆使して戦闘で勝ちを拾うか、外交のウルトラCでトラキアと結ぶかあるいは謀略によって封じ込めるか――
「そうか……」
 もう一つの打開策として、グランベル本国からの援軍がある。もし来たら戦力的に非常に心強く、解放軍を撃破することも充分に可能だろう。
 ただ、距離的に遠くそう簡単に援軍を出してもらえるわけはなく、それ以前にもし要請すれば危機だと自分で白状するようなものである。いくら相手が解放軍であっても本国に泣きつくのはフリージ家の面目丸潰れである。息子イシュトーを殺され、その仇も討てずに援軍を求めるのは王として以前に男としての沽券に関わる。
 そんなことになりふり構っていられない状況だが、体裁を全く考えないわけにもいかない。頼み事をすれば代わりに何かしら譲歩を迫られるのが外交というものであり、全てをかなぐり捨ててすがりつけば、解放軍に勝ったとしてもその後にとんでもないことになりかねないのだ。
 そもそも現在のグランベル帝国の混沌とした状況下では、誰に泣きつけばいいのか鮮明ではない。皇帝は半ば隠居状態であるし、皇太子は実権を握っているとは言え大軍を動かすことができるのかよく分からない。幅を利かせているロプト教団も独自の軍事力を備えてきているが規模は大きくない。さすがに手当たり次第に恥を晒して回るわけにもいかず、探っている時間もない。
 となると本国内にあるフリージ公家の軍ぐらいだ。これなら身内の軍なので自由に動かせるし、そこまで気兼ねする必要もない。しかし帝国本土におけるフリージ家は余裕がなかった。フリージ妃ヒルダがミレトスの統治権を獲得したばかりであり、今ここで兵を割いて何か起これば不興を買うばかりである。
 ミレトス地方はロプト教の聖地として大規模な建築ラッシュが行われており、"子供狩り"で集められた子供たちはこの地に送られている。当然ながら奪回を目論む抵抗勢力に狙われているわけであり、警備を手薄にするわけにはいかない。子供狩りは次世代の帝国貴族となりうる優秀な人材を選び出すためのものであり、言い換えれば帝国の貴重な財産である。これが奪われるようなことはあってはならないのだ。
 ブルーム王としては、イシュタル王女がユリウス皇太子との個人的な仲にも期待していたのだが、情勢を知って北トラキアに駆けつけたイシュタルの口からは都合がいい回答が得られなかった。皇太子妃に迎えられるのは確実と目されている割にはフリージ家にもたらす恩恵があまりないのは今後の課題になるのだろう。
 その代わり、イシュタルはマンスターの守備に就き、トラキアに睨みを効かせてくれることになった。"雷神"がいることが知れ渡ればトラキアもおいそれと動けるものではない。逆に言えばイシュタルがマンスターにいるのならば戦力をいくらかコノートに移せることになり、解放軍に対しての戦力が増大することになる。場合によってはトラキアを封じた上で密かにイシュタル本人を解放軍にぶつけることも不可能ではない。この匙加減は易しくはないとは言え、イシュタルの帰還は数少ない好材料だろう。
「あとは……」
 解放軍に対しどう立ち回るかだ。
 情報によれば解放軍はレンスターとアルスターに軍勢を分けており、戦闘が始まればまず合流するかあるいは別々にコノートを目指すものと思われる。
 この隙を上手く突けないだろうか。解放軍は強さこそ凄まじいが規模が小さいため一つの痛手が大きく響く。奇襲に成功すれば壊滅させることも夢ではない。
 伏兵に向いている場所がある。マンスターとコノートの間、山の際に広がる森である。レンスターにもアルスターにも近く、解放軍が合流しようとすればがら空きとなった城に乗り込むことができる。また合流せずに進軍した場合、マンスターからコノートに向かおうとするとこの森を通ることになり、待ち伏せになる。
 重要な場所だけにここに布陣する部隊には要求される能力も高い。戦に強いのは勿論だが、展開によっては動くのか留まるのか見極める広い視野も必要だ。命令はコノートから出されるとは言え、最前線からでしか見えるものもあるだろうし場合によっては命令を待たず独自に動くことが必要になるケースもある。
 だがここ最近のフリージ家は、本国の公家領、ミレトス地方、そしてこの北トラキアと勢力圏が広く分散しているため人材面での層の薄さが指摘されていた。例えば帝国きっての名将と謳われるリデール将軍はミレトスに赴任中。ゲルプリッターの主力は本国に残したまま。砦の防衛程度なら務まる者は数いれど、機動部隊を率いる将となるとなかなかいない。
「やむを得ん、あいつを使うか……」
 それだけの能力を備えた人物がいないわけではない。
 ブルームとしてはできるだけ遠ざけておきたかったのだが、四の五の言っていられない状況だ。偉大な功績を挙げられたら後が怖いが、真相は噂レベルのものであり他人の空似であれば何の問題もないのだ。

 かくして、フリージ軍の布陣が決まった。
 マンスターはイシュタルが守りトラキアに睨みを利かせる。コノートはブルーム自身が守り、傭兵も加えて軍容を揃えた。
 まずレンスターを攻め、アルスターから援軍を出させて手薄になったところを森の伏兵部隊が攻める。あるいは真っ直ぐ進軍してきたらそのまま森に伏せていて討ち滅ぼす。
 この最重要地点である森に配置された将軍の名はムハマド。アグストリアの真王と噂される男である。

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