イード砂漠を経て北トラキアに侵入したセリス軍に対し、フリージ家はメルゲンで迎え撃った。
 出来得ることならもっと引き付けたかったのだが、動乱が続くレンスター地方を戦場とするわけにもいかなかった。リーフ王子は未だ潜伏中であり、彼を支援するレンスター市民も数多く居る。ここで戦うということは足元をすくう相手を勢いを与えてしまうということであり、戦場の不確定要素が増えるばかりである。軍とは分けることはできても、二つのことを平行して実行するのは難しいものである。セリスの目の前で対リーフの軍を、リーフの視界内で対セリスの軍を運用するのは危険が伴うのだ。
 かと言ってメルゲンを戦場とするのが理想形かとなるとこれもほど遠い。
 ブルーム率いる本隊は準備が整いきっておらず、駆けつけるまで時間がかかる。このままだとメルゲンのイシュトー王子が支えている間に援軍として駆けつける格好になるが、最悪のケースとしては各個撃破の恐れがある。ダーナのブラムセル伯と手を組んで挟撃する作戦を立ててはいるものの、成功する保証はどこにもない。
 イシュトー王子が守るメルゲンがどこまで奮戦できるか、フリージ家の命運はそこに懸かっていると言っても過言ではなかった。

「前方に砂塵! 向かって来ます!」
「防御戦! 落ち着いて訓練通りやれ!」
 だが不安材料は多い。
 城主であるイシュトー王子、そして部隊指揮官であるライザ将軍共に優秀な人物ではあったが、実戦経験はほとんどない。
 反乱分子討伐ぐらいならばあるものの、大規模な戦争となると彼らの世代にはもう縁が無い時代であった。北トラキアの地勢上、充分な訓練は積んでいたものの実戦にも通用するものとは限らない。
 ましてやセリス軍の精強さについて予備知識が足りない彼らにとって、『ダーナの傭兵軍団が背後を襲うまで持ちこたえる』という命題がいかに困難なものであったか知る由もなかった。
 シグルド軍の恐ろしさは伝聞や物語でよく知っていた。しかしその次世代のセリス軍もそうだとは限らず、そこまで考えるのは理知的に考えても臆病風もいいところであろう。規模こそ縮小されてはいるもののまさか当時の強さをほぼ再現できているとは考えられるものでもなかった。
 しかもセリス軍はイザーク解放から次のアクションを起こすまでの期間が短く、イザークでの戦闘についての風聞は北トラキアまで伝わるのに時間がかかりすぎた。イード砂漠を挟む位置関係は情報の伝達も困難に拍車をかけていた。

 ライザは帝国には珍しい女性の将軍であった。
 皇帝アルヴィスからしてアイーダという右腕を持っていたこともあり、帝国では女性の将軍についてあまり抵抗は無かった。しかしそれでも珍しいのはやはり男女の適材適所から来るものであろうか。
 一方で、このライザについては醜聞もついて回っていた。
 アイーダがアルヴィスの愛人だという噂は最後まで離れなかったように、ライザもまた主であるイシュトーと男女の仲なのではないかと噂されていた。これについてはイシュトーの父であるブルームからして二人は恋人の間柄だと思っていた。
「おまえを危険な目にはあわせたくないが、他には信頼できる者がいない……すまないな、ライザ」
「これは……恐れ入ります。でも、私のことなど気にしてはなりません。イシュトー様こそ、どうかお気をつけて、それでは……」
 だが当人たちはそれに気付くことがなく、甘えることもなかった。悪魔の血が優先したためにトールハンマーを受け継げなかった悲劇の王子はその運命を享受しつつも聡明に育った。
 メルゲン城から見れば、ブルームの軍がリーフ討伐で手を焼いている以上、ここから先にセリス軍を入れるわけにもいかなかった。戦力的には優位ではなかったが、ここで自分が支えなければという責任感があった。
 そして王子として無闇に聡明であった分、ライザに対して遠慮があった。
 フリージ家が外交に力を置いているのはよく知っていた。両親であるブルームとヒルダは仲睦まじいが元はと言えば政略結婚であったのはイシュトーも知るところである。自分もまたそういう結婚をすることになるだろうという自覚があった。
 ライザの家柄は高いわけでもなく、家の格から言えばイシュトーとは不釣合いであった。しかも主君と臣下という間柄であり、年の差という立場も手伝ってか眉目秀麗の主君については深く考えないように理性で押さえ込もうとしていた。
 もしもイシュトーとライザが、実は自由恋愛が許されていた自分の境遇について正確に知っていたのならば、別れの台詞は別のものになっていたに違いない。

 帝政以後、貴族界は少産の傾向にあった。
 王政末期は六公爵家が凌ぎを削っておりいつ何がどう転ぶか全く分からず、栄光への階段と没落への崖っぷちが同時に垣間見える時代であった。貴族たちは投資と保険のために先手を打ってパイプ作りに勤しむ必要があった。
 これが帝政以後はなりを潜めることになる。ヴェルトマー家のアルヴィスが政権を握り、フリージ家とドズル家は王位を得て地盤を外に築くようになった。他は没落することになり、勢力バランスはほぼ決着がついたようなものである。
 こうなると政略結婚というものは必須とは言え縮小に向かうのが成り行きであろう。当然ながら当主もまた手駒増やしのための積極的な子作りに励むようなこともなくなり、全般的な少子化傾向になるのである。
 フリージ家の場合、イシュタルについてはユリウス皇子の后に収める路線で決定している。家の格を上げるなら上位と結婚するのが当然ならば、相手は皇室しかなかった。ましてや実際に二人が恋仲であれば何の文句も無い。早く正式に后として立ててもらいたいと願うばかりである。と言うよりも、ユリウスの愛人であることは帝国全土で知られていることであり、もはや他に嫁の貰い手が居なかった。イシュタルはフリージ家の命運を握っていると言っても過言でもなかった。

 一方でイシュトーは余った手駒である。
 イシュタルが次の皇妃になるのなら、イシュトーはブルームの後を継いで次の北トラキア王となる……わけではなかった。
 雷魔法トールハンマーを受け継ぐイシュタルが皇室に入れば、フリージ家は受け継ぐべき神器を失うことになる。聖戦士の末裔である象徴が流出すれば火種が増えるのはアグスティ家が証明しており、対トラキア王国の最前線でもあるフリージ家がトールハンマーを失うのは戦力的にも大きな痛手である。これが永遠に続くのは避けたいところであった。
 とはいうもののいい具合に進んでいるイシュタルをユリウスから引き剥がすわけにも行かない。
 このままの路線で進めるならば、ユリウスとイシュタルが結婚して生まれた子供たちのうちトールハンマーを受け継いだ子をフリージに迎える格好が望ましい。この皇子はイシュタルを通じてフリージ家の血脈を受け継ぐ当主であると同時に、ユリウスの血も受け継ぐために帝位継承権も持っている。つまりフリージ家はヴェルトマー家に直系の男子が絶えた場合に皇帝を出すことが可能となり、家門としては光魔法ナーガを受け継ぐバーハラ家と同格の地位に上ることになる。
 そういう計画の都合上、イシュトーは蚊帳の外の存在であり、予備のポジションでしかない浮いている王子とも言えた。彼はフリージ家嫡子であり北トラキアの次の王である。だが彼の子は王位を継げないのだ。極端な話、イシュトーの結婚相手は誰でも構わなかったのである。
 だからブルームは、イシュトーが腹心であるライザとの噂を耳にしてもそれを咎めるようなことはしなかった。悪魔の血を抱えるために家族の結びつきが強いフリージ家であるから、王位が自由にならないならばせめて恋愛ぐらいは自由にさせてやりたいという親心でもあった。

「ライザ……俺は……」
 しかし本人たちはそれに気付くこともなく、散った。
 その一方で、あまりにも早いメルゲンの陥落に、連携を崩されたブルームの本隊とダーナ市は慌てふためいた。
 世界を動かしてきた十二聖戦士、その血脈を受け継げなかったイシュトーは、報われなかった生と引き換えに世界を揺るがす転機をもたらすことになった。

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