「兄上は何を悠長なことを言っておる! この好機に指をくわえて見ていろとでも言うのか!」
「リーフはまだまだ脆弱だ、レンスターを抑えた程度ではブルームは揺らいでいる思えん。見切りが甘すぎる」
「イザークのセリスに期待する方が楽観視! それとも兄上は本気で密約を信じているのか、それこそ甘い!」
 大陸南東部に位置する軍事国家トラキア。
 南北に分けられたトラキア半島統一。その百年の悲願のために日夜あがき続ける人々の集団である。
 国一丸となり骨身を削っての出兵を繰り返すトラキア国内でも、こと手法の違いにおいては対立することもある。
 特にアリオーン王子とアルテナ王女の衝突は顔を合わせる度に行われており、王宮内で否応も無く目立っていた。
 強硬論と慎重論が対立しているわけではない。二人とも開戦そのものを渋ってはいないのだ。
 現に出撃準備は既に整っている。
 ただ、その時期をいつにするのかで揉めているのである。

 現在、北トラキアではリーフ王子の反乱軍が猛威を振るっている。
 レンスターを解放したリーフ軍に対し、ブルーム王は自らアルスターまで出陣して対峙している。
 トラキアから見れば背中を開けている格好になり、隙が大きい。場合によってはリーフ軍を手を結んでブルームを挟撃することもできる。
 この好機を見過ごすわけにはいかないというのがアルテナの主張である。
 一方で、リーフの快進撃は長く続かないと見たのがアリオーンである。
 アルテナの案は、ブルームの本隊がアルスターに張り付き続けてもらうのが前提条件である。
 リーフがいつまでブルームを足止めできるのかにかかっており、トラキア軍が進入してすぐにリーフが敗れれば都合が悪くなる。
 正面から戦って勝てない相手とは言わないが、グランベル帝国全体との戦力差を考えれば速攻にならない戦争はするべきではない。アルテナはそうなったとしてでも勝つつもりがあるのだろうが、アリオーンとしてはそれに乗ることはできない。
 現状において、リーフ軍の強さを信用できるかとなると難しいところであり、それにトラキアの命運を賭けるのは思い切りが良すぎる。
 そこでアリオーンは、リーフでは心もとないのでセリスの解放軍を使おうとしているのである。
 イザーク地方を制したセリス軍はリーフ軍とは規模が違うだろうし、何よりシグルドの遺児による決起がもたらす心理的影響は大きい。ブルームにしてもトラキアと対峙してセリスに背中を向けるようなことはしたくないだろう。

 これに対しアルテナは、アリオーンの案、というよりセリスそのものに懐疑的であった。
 実はセリス軍からトラキア王国に対し、北トラキア解放についての共同作戦の打診があった。
 内にリーフを抱え、外にトラキアとセリスの二方向と戦わねばらなくなるなら、確かにブルームには厳しくなる。この同盟が成れば勝利はかなり易しくなる。
 だがアルテナはこの密約について、トラキアにメリットがあるとは感じなかった。
 セリスは北トラキアを解放しただけでは満足しないだろう、解放軍の立場上、帝国本土に攻め入ることが不可欠だ。
 一方で、トラキア王国には半島統一以上の野心がない。ブルームを破った後の協調性がないのである。セリスの解放軍に一軍を預けるぐらいはあったとしても、その程度の協力を同盟と呼べるだろうか。
 トラキア王国は、北トラキア半島をセリスと分割する気はさらさらない。半島全土の統一以外にハッピーエンドがないとしている。共同作戦はとるが、奪った領土は全てトラキア半島に帰属する――こんな共闘が成立し得るだろうか?
 普通に考えればブルームを破った後、セリスと領土問題で揉めることになるだろう。同盟を結んで利用するだけ利用して最後にセリスを討つ方針もなくはないが、ブルームを倒してグランベル帝国との戦争になることを考えればセリスと戦うのは正しい選択とは言えない。
 セリスの解放軍が、純粋にロプト教の一掃と帝国の打倒のみを目的としている思想家の集団であれば、政治面で同調さえすれば同志として話は成り立つ。北トラキアの解放とそれに伴う今後の運営をトラキア王国が請け負えばいいからだ。
 だが、セリス軍が覇権を握ろうとする一つの勢力と考えれば、この同盟関係は後に衝突するのは目に見えている話である。それを持ちかけたのは何か裏があるのでは――とアルテナは見たのである。

「兄上では埒が明かぬ! 父上に掛け合う!」
「おい待……」
 アリオーンは呼び止めようとしたが、勢いよく踵を返したアルテナを見て無理は言えなくなった。
 アルテナは地槍ゲイボルグを受け継ぐレンスター王家の正統後継者であり、レンスター滅亡に伴ってトラキアに連れ去られた戦利品であった。
 しかし国王トラバントはアルテナを王女として迎え、王太子アリオーンに次ぐ王位継承権を与えた。
 政治的な意味合いで言えば、半島統一の暁にはアルテナを北部の総督として据えるなど、血統的に北トラキアへの影響力が使える。
 だが、百年に渡る夢を追い続けるトラキアにとって、その後のことを想定する意味はあまりない。ましてや長年の宿敵だったレンスターの王女をそんな理由で生かしておいても世論が許さないだろう。
 それでもアルテナは養子としてトラキア王室に入り、今ではトラキア王女として立派に君臨している。
 トラバントの血を引いていない彼女がここまで受け入れられたのは、トラキア国民の夢を背負うだけの王者の器を示したからであった。
 トラキア王家は、悲願成就のための情熱と覇気で成り立っており、養子であるアルテナであってもその資質にさえ恵まれていれば非難する者などいないのである。
 兄であるアリオーンと比較すると、(年齢差もあるが)及ばない点は多い。しかしトラキアの民の夢を叶えようとする情熱だけはアルテナの方が強かった。
 積極論のアルテナと、慎重論のアリオーン。アルテナに前線指揮を、アリオーンに後方統括を任せることでトラキア軍は強固なものとなった。ハンニバル将軍を除けばこれと言った指揮官がおらず国王トラバントに負担を強いていた従来から、一本芯の通った軍に生まれ変わった。
 それが実感できているから、アリオーンもアルテナに強くは言えなかった。血の繋がらない妹がいてくれることが、トラキアにとってどれだけ大きなことか。
「……」
 だが、それだけに失敗は許されない。
 グランベル帝国との同盟を結んでいる以上、北トラキア侵攻は同盟破棄である。
 以前のような経済封鎖は解かれて少しはマシになったトラキアの財政にとっては、かつてのような状態に戻りたくないのが心情だろう。そのリスクを背負ってでも半島統一を狙うのがトラキア王国である。
 もし失敗すれば、たとえトラキアが滅びなくとも再び経済封鎖が敷かれ、生活レベルは最悪に戻ってしまう。なまじ改善されていただけに地獄に堕ちなおせば今度は耐えられなくなるかもしれない。
「もしかしたら……」
 夢を捨てる方がいいのかもしれない――。
 そんな考えが、アリオーンの頭を過ぎった。
 開戦時期をいつにするのかでアルテナと揉めていたアリオーンだったが、開戦しないと言う選択肢は無いのだろうか?
 帝国との同盟を堅持しながらトラキアの経済状況を改善していく考えがアリオーンにもアルテナにも無かったのは、何かの思い込みなのではないだろうか?
 夢を追う不撓不屈の権化とも言えるトラバントの下で育って来た以上、少なからず影響は受けただろう。だが、それは父の意志を継いでいるのか、それとも刷り込まれているだけなのか。
 トラキアの未来についてアリオーンとアルテナで二つの選択肢を用意できるとしたら、それは何と何を選ぶべきだろうか。
 夢を叶える戦争で勝つための戦略に二つとも注ぎ込むべきか。
 あるいは、夢を追うことと、夢を諦めることを並べて考えてみるべきか。

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