ダーナ市の軍が壊滅したという報はブルームの耳にも届いた。
 当初はあわよくばダーナとメルゲンの軍と連携して挟撃するつもりであったが、それは皮算用だとしても三方のうちの2つまでが早々に陥落するとは予想を上回っていた。
 さて、アルスターから出撃した軍勢だけでどう戦うか。
 兵力こそは劣っていないが、勢いの差は埋めようがない。正面からぶつかれば劣勢ではないかとブルームは見立てていた。
 それは決して間違いではない。フリージ家の主力ゲルプリッターはグランベル帝国本土のフリージ公家領に駐屯しており、北トラキアに居る軍は最精鋭ではない。経験や錬度においてもイザークから勝ち抜いてきた解放軍と比べてまだまだ足りない。リーフ軍を撃ち破ったものの本人を取り逃がし、軍の勢いも今ひとつ伸び悩んでいる。
 戦の勝敗は時の運とは言え、不安材料が多ければブルームも慎重にならざるを得なかった。
 さらにこの戦、負けるわけにはいかなかった。
 アルスターの軍勢で解放軍を支えきれなかった場合、フリージ家は北トラキアの西半分を失うことになる。レンスター城は再奪取したものの、城下の森にリーフ王子の小勢に潜伏されており、外に解放軍と対峙しながら維持できるような城ではない。アルスターを失うようなことがあればレンスターも放棄せざるを得ないだろう。
 そんなわけだから、この戦は負けられないのである……が、実際にはここは撤退が正しい選択であった。
 レンスター城とアルスター城は南北でほぼ一直線上に並び、距離もさほど遠くない。もしこの2城が互いに連携し合う防衛ラインとして確立できれば、西から攻め寄せる軍勢に対して非常に強い防衛力を発揮するだろう。よってイザークを奪取した解放軍が砂漠を越えてこの北トラキアに遠征してくるのならば、それまでにレンスターを陥落させて防御体制を整えておかねばならなかった。
 確かに城の奪取だけは達成したが、リーフ王子の軍を討ち滅ぼしたわけではない。彼らは完全に敗れたわけでなく時間を稼ぐために自ら城を放棄して流動的な軍に戻ることを選んだだけであった。そしてその思惑通りに潜伏された軍を討ち取ることが出来ずに時間ばかりが過ぎていったのである。
 形だけ手元にあるレンスター城など何の役にも立たない。すぐ足元にリーフ軍に潜伏されている以上、ここを防衛拠点として活用できないのである。何が起こるか分からない場所に大軍を駐留させるのは危険が大きすぎるのだ。
 つまり実質はアルスター城だけしか使えない状況であり、レンスター城も実質的には敵の影響下にあると考えれば、位置関係から言えばアルスター城は突出している出城のようなものだ。ここから軍を出してメルゲンへ遠征するのはさらに補給線を伸ばす格好になるのでかなり無理がある。もし敗れて追撃された場合、安全圏ではないアルスター城で態勢を整えなおすのが難しい。下手したら芋づる式に陥落しかねない。
 レンスターが城だけ持っていても何の役にも立たないなら、アルスター城もまた微妙な存在なのである。ここを拠点に戦うのは、充分な迎撃体制とは言えないのだ。
 それならばむしろアルスターを防衛戦力のみ残してコノートに退いた方がまだメリットが大きい。戦力を集中できるし安全に運用できる。西半分を明け渡すことの政治的損失は大きいが、帝国本土からの援軍も踏まえた戦い方をするなら粘りのある戦いをすべきである。

 しかし、ブルームは退かなかった。
 ここでセリスとリーフを勢い付かせるのは得策ではないという判断と、息子イシュトーが討たれておいて退いた上に援軍まで要請すれば物笑いの種にしかならない点だ。かつては勇将と称えられたブルームであるから、ここで自重する考え方がなかったのもあるだろう。また、家族の結びつきを重要視するフリージ家としてはイシュトーの仇討ちは成さねばならないだろう。
 とは言え、状況が良くないことも分かっていた。そこで遠征軍にプラスアルファを付け加えた。遠征軍にフリージ家の親族を加えたのである。
 ティニーとリンダ。ブルームの姪でイシュトーからは従姉妹にあたり、血統的にもどちらも優秀なマージである。彼女らがイシュトーの仇討ちを掲げて参戦すれば、その目的のシンプルさから部隊の士気も上がるという効果も期待できる。

 ところが、これが完全に裏目に出る。
 両軍は正面から激突して戦端は開かれたのだが、交戦中にこの二人が解放軍に寝返ったために戦闘はあっけなく決着がついてしまった。最精鋭というわけではないが非常に連携が取れた部隊を揃えていたフリージ軍はなかなか健闘していたのだが、裏切りによって壊滅させられた。
 ティニーの母親はティルテュと言い、フリージ家の公女であった。しかしシグルド軍に指揮官として参加していたために存在を抹消された人物である。処刑されるところを周囲が必死に嘆願して死は免れたが、日の目を見ることは二度となかった。
 その娘であるティニーはあまり公にはできない存在であった。フリージ家の公女ではあるが謀反人の子でもある。ブルームが身元を引き受けた以上は処断されることはないだろうが、公女として社交界に出ることも無いだろう。運命は最初から定められていたのだ。
 それがいきなりフリージ家当主の座を提示されたらどうだろうか。敵軍と斬り結んだらその中に生き別れの兄がいて、二人でフリージ家をこの手にと誘われて拒絶できるだろうか。公女でありながら然るべき地位が与えられなかったティニーにとって、その境遇に逆転の目があるとすれば解放軍に参加するしかなかった。
 解放軍が帝国を打倒して、解放軍に参加したアーサーとティニーを除いたフリージ家全員が死亡した場合、その家督は二人が継ぐしかない。
 継承権順位の枠外に置かれた兄妹の希望は、絶対的消去法という非常措置。解放軍に参加するということは、親類縁者を残らず討ち滅ぼす宿命を背負うことになるのだ。聞けばドズル家の王子も惚れた女のために親兄弟を殺し尽くすことを余儀なくされているらしい。そしてそれは強制ではなく自主的に一歩を踏み出さねばならないのだ。

 ティニーの従姉妹であり一緒に出撃したリンダの境遇もまた決して明るいとは言えなかった。母親はブルームの末妹でありアルスター王妃でもあるエスニャ。しかしリンダはアルスター王女ではなかった。
 母エスニャ本人はシグルド軍に参加していなかったが、当時シレジアに流れてシグルド軍の中にいた姉ティルテュに会いに行ったまま戦闘に巻き込まれシレジアから帰ることができなくなってしまった。その間に1男1女をもうけることになる。
 エスニャがグランベルに連れ戻され、アルスター王に嫁ぐ話が決まった。このとき、リンダは胎の中にいた。
 グランベルとの関係強化を急ぐアルスター王はこの事情を承知したが、腹が大きいままで輿入れするのはさすがに不味いため、エスニャはリンダを産み落としてからアルスターに入った。
 リンダは系譜上はエスニャの娘だが、ティニー同様に存在を公にするのには難しい立場であった。エスニャは謀叛の罪で捕らえられることはなかったにせよ、どこの馬の骨とも分からぬ種をもらってしまったのは淑女としては酷いステータスであると言えた。母親であるエスニャがなまじ公に名前を晒すことになったためにリンダは素性を隠して社交界に参加することができなくなってしまっていたのだ。しかもフリージ家一門として悪魔の血を受け継ぐリンダは養子に出すのも非常に難しかった。残りは修道院に放り込むぐらいだが、それはあまりにも不憫に思ったのだろうかブルームにその気はなかったようだ。
 フリージ家が北トラキアを治めているのは、エスニャを楔としたものであった。トラキア王国の侵攻により半壊した北トラキア4王国に代わって支配したわけだが、その根拠としてフリージ家がアルスター王国の外戚となっていたことを使っていた。
 これだけでも強引なやり口だが、もしもエスニャに私生児がいたことが一般レベルにまで明るみになっていたらどうだろうか。フリージ家はアルスター王家に「中古品」を押し付けた上に国まで奪ったように見えても仕方が無い。これが知れ渡るということは北トラキアの統治根拠そのものが揺らぐことになり民衆の反発を招くのは必至である。
 ブルームにとってリンダはティニー以上に表に出したくなかったのだろう。それをあえて投入したのは、どれだけの非難を浴びようともセリスを討ち取って戦に勝てば民衆は希望の光を失うことになるので後で抑え込むのは難しくないという判断なのだろう。ブルームとしては勝負の出どころという判断だろうか。
 しかしリンダもまたブルームを裏切ることになる。ティニーのケースと同じく解放軍に生き別れの兄がいたのだが、物心ついたときにはもう親がいないという境遇は共感を覚えるに充分だった。リンダ本人は政治的野心に乏しかったが、一緒に生きていく肉親と巡りあえた喜びは何物にも換え難かった。悪魔の血を背負うために家族の精神的な結びつきを重視するフリージの家風が悪い方向に出た結果である。

「全軍前進、一気にアルスター城を攻略する」
 フリージ軍を討ち果たした解放軍はオイフェが指揮を担っており、この場にセリスは居なかった。東から押し寄せるフリージと向き合うことよりもダーナ市に入城する方を優先したのである。
 "次"を見据えるセリスが何を重視してそれを選んだのかオイフェには分からない。解放軍である以上、曰くのあるダーナ市への入城はメリットが大きいのは確かだ。
 しかしいかに信頼していると言っても、中枢部を分割して配下に大規模戦闘の総指揮を任せてしまうのは思い切りが良すぎる。軍事面はオイフェが一任されているとは言え、セリスの有無は解放軍の士気に関わる。いくら精鋭ゲルプリッターではないとは言え、相手はフリージ家の正規軍である以上は決して侮れないはずだ。
 それならせめて確実にフリージ軍を撃ち破り、それから訪れても決して遅くないのではないか。機動戦力を失ったブルームは大きなアクションが取れなくなるので、リーフ救出は小部隊の派遣で足りるだろう。こういうところこそオイフェ任せでも構わない部分である。
 あるいはブルームに時間を与えたくないのだろうか。ダーナ市を訪れている間に敗戦を知ったブルームが早々に撤退すればアルスターの奪取は容易になるもののコノートの守備が堅くなる。もしもフリージ軍を破った勢いでそのまま雪崩れ込めばブルームは撤退のタイミングを失ってこの地で討ち取れるかもしれない。
 オイフェはこのケースを想定してセリスの帰還もリーフ軍との合流も待たずに進撃を開始することにした。"次"を見て今を知らないセリスの性格上、プランに則った上で勝手に軍を進めることには四の五の言わないだろう。しかし不確定要素に大きく左右されるのが戦というものであり、ブルームに勝つ自信はあるが首級も挙げられるかとなると確証はできない。
 セリスのプランではどうなっているのだろうか。絶対にブルームを討ち漏らしてはならないのか、あるいはこだわらずに軍事的大勝利を目指せばいいのか。もともと真意が身近に見えない主君であるが、レヴィンという外的要因もあるため読み取るのはさらに難しい。
 シグルドは勝つために私情を挟まなかったが、意外と選り好みも多かった人物である。そしてその子であるセリスの不興を買った者はどうなるのだろうか。"次"をどう迎えることになるのか……そしてオイフェはそれと無縁でいられるのだろうか。

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