グラン暦776年。
 アルヴィスが皇帝に即位して帝政を敷いてから15年しか経っていない。当時の輝かしさを見ていた者は、この僅かな期間での崩壊劇は想像出来やしなかっただろう。
 形あるものは必ず壊れるし、興った国はいつか必ず滅ぶ。しかし、千年帝国の誕生さえ思わせたグランベル帝国が短命に終わるとはあり得ない話のように思えた。
 他の大陸から大軍が攻め込んできたというわけではなく、その理由が内的な要因である以上、避けることは可能ではあった。それを押し止めなかった皇帝に最たる咎があったと言えなくもない。
 ロプト教暗躍と暴政。皇帝が帝国滅亡の要因にどこまで関わっていたのか、主犯であるのか被害者であるのか――人によって解釈は様々であり、対応もそれぞれ異なった。

――ドズル朝イザーク王国、リボー城。
「陛下、オイフェ様が――」
 一般的に、"陛下"と言えばグランベル皇帝アルヴィスを指すが、大陸統一されたユグドラルにも他の国王が幾人いる。そのうちの一人が、イザーク地方の支配者であるダナンである。
 ドズル家はもともとはグランベル六公爵に名を連ねる名門であったが、アルヴィスが皇帝に即位した際、公家の功績を讃えてイザーク地方の王位を与えられた。そのため従属関係の結びつきであり、ダナンは完全な独立国の王と言うわけではない。しかし、イザーク地方の地理的な要因もあってか、周囲の影響を受けにくく、介入を防ぐのもたやすい。グランベル帝国という本流を離れ始めたイザークは、独自の道を歩むうちにその傘から外に出つつあった。
 大陸全土を揺るがしている最たる原因、ロプト教。ダナン統治下のイザークは、このロプトの進出を許していない。天然の防御線であるイード砂漠にロプト教の拠点がある以上、恐怖に怯えずに暮らすのは容易ではない。そもそも、ロプト教が半ば国教化され、ロプトの暗黒の宗教儀式とそれに付随する違法行為を皇帝が黙認している現状において、その帝国の傘下であるイザークが独自に拒否するのは本来ならばあり得ない話である。
「来たか、いよいよ旗揚げだな」
 いくら地理的に離れて独自の道を歩んでいると言っても、僅か15年で帝国に反旗を翻すのも辞さぬ覚悟でロプトを追い払うようになるのは枝分かれにも度が過ぎる。離れるように枝を引っ張る者がいたのである。
「セリス皇子以下、ティルナノグの反攻の準備は整い申した。あとはイードへ潜入中のシャナン王子の帰還を待ってリューベックへ合流いたします」
 もしも帝国中枢がダナンを反逆の罪を問うとするならば、ロプト教弾圧よりもセリスの隠匿を挙げた方が手っとり早いし罪も重くなるだろう。大陸を揺るがせたシグルドの子であることは勿論、ディアドラの最初の子であるセリスの存在は、ディアドラと結婚することで根拠を得たアルヴィスの帝国にとって最大の害である。反攻勢力が帝国を否定するならば、旧体制の遺児であるセリスを担ぎ上げるのが最も筋道が通っており結束も得やすい。ただでさえロプト関係で反乱鎮圧に追われている帝国には存在しては困る人間なのである。
 そのセリスが、イザークに隠れているという情報は公然の秘密であった。
 公的には、セリスの足跡は16年前のリューベックを最後に途切れている。進撃するシグルド軍がグランベル本国に侵入するためにイード砂漠を渡った際、セリスを残していったのまでは間違いない。その後、シグルド軍が壊滅し、セリスは追撃を回避するためにどこかに姿を消したことになっている。
 普通に考えればシレジアなのだが、グランベルはシレジア討伐の際に「セリスを引き渡せば講和」という一見して譲歩の構えを見せることで、遠征の根拠とした。いないと知っていたからである。
 リューベックの位置から考えて、シレジアにいないのであればイザークに流れたのは自明の理である。当然ながらイザークを収めるダナンにはセリス捜索の話が舞い込むことになった。
 しかしダナンはこれに従わなかった。王として位人臣を極めたダナンにとって、皇帝のご機嫌取りをしたところで旨味がなかったからである。不興を買っても得はないが、大陸統一と戦乱の終結を功とするグランベル帝国にとってイザーク遠征は不可能な話であるから損もなかった。
 国内に潜伏しているセリスの所在は、ダナン側は察知していた。生殺与奪権を握っているのだから、急いで殺す必要もない。
 そして、ダナンにはセリスを生かしておくことのメリットがあった。むしろ、欲しいメリットのためにはセリスに友好的でなければならなかったのだ。
「息子たちがまた入り浸っているらしいな。二人とも行っても詮なきことだが」
「両殿下のどちらを選ぶかでラクチェも迷っているようです。私もヨハン殿下を薦めてはおりますが……」
 潜伏中のセリスには、旧イザーク王家が手を貸している。普通に考えれば現在の支配者にとって旧体制の生き残りなど邪魔な存在に過ぎないが、遊牧民族であるイザークを統治するにあたっては例外である。農耕民族であるグランベル出身のダナンにとって、定住しないイザークの遊牧民の管理は困難を極めたのだ。
 王からは民の営みを見ることができないため想像に任せるしかないが、その営みに関する知識がない場合は運営のしようがない。都市部ならまだしもそれ以外を無理矢理に押さえつければ不満の声が挙がるのは目に見えている。
 徐々にグランベル式を浸透させていくことも考えはしたが、イード砂漠によって隔てられているイザークは文化の交流というものがほとんどないためこれも不可能であった。
 となると、ダナンの方が折れるしかない。王が民に合わせるのはダナンにとって気分のいいものではなかったが、グランベルの公爵からイザークの王に転身した以上は土着化は避けられない運命だったのかもしれない。
 最も手っとり早いのは血の交流である。旧イザーク王家と婚姻関係を結べば新王国に反感を抱いている者も感情を和らげざるを得ない。
 ダナンには3人の子があり、いずれも男。長男ブリアンはグランベル帝国内のドズル領を任されておりイザークにはいない。次男のヨハンと三男のヨハルヴァが父の元で育っており、このどちらかがイザーク王家の姫と結婚してダナンの跡を継げば、ドズル家はイザークの地に根を下ろしたことになる。ただ、ヨハンとヨハルヴァが二人してイザークの姫君であるラクチェ王女に惚れ込んでおり、兄弟喧嘩が絶えないというのが悩みの種であるが……。
「息子二人どちらと結ばれるのか本人の意思を尊重するが、呑気に見守ってやるほどの時間もない。一刻も早く軍を整えて兵を挙げねばならんのだからな」
 イザークには、強兵を作り出す土台がある。
 遊牧民族であるイザークでは駿馬に恵まれている。ここを抑えていれば、大陸最強の騎馬軍団を育て上げるのも難しい話ではない。加えて、生まれついての騎手であるイザークの民を騎士団に組み込めばその精強さは倍増する。
 勇猛で名を馳せたグラオリッターを最強の地位に押し上げるのは、ドズルの当主であるダナンにとって悲願の一つであった。そのためにはイザークの安定した統治は不可欠であり、ラクチェ王女との縁談は何としてでも成立させたい。
「ロプトを討ち、皇帝陛下をお救いすること……我らも力の限り手伝わせていただきます」
 頭を下げたオイフェについて、ダナンは全面的に信用しているわけではない。
 単純にロプトを毛嫌いしているダナンにとって、世界を蹂躙しているロプト教打倒のためにはセリス皇子は必要な旗頭である。
 ロプト教はグランベル帝国に寄り添うように活動している以上、ロプト打倒のためには帝国の統治体制も一新しなければならないだろう。そのためには、シグルドの子であるセリスは反帝国のシンボルとして相応しい。その点においてはダナンにとっても利害が一致している。
 ただ、皇帝アルヴィスが暴君だという結びつきが頭の中で成り立たない者も多く、皇帝もまたロプトの被害者だという解釈が有力である。帝位にありながら居城を帝都バーハラからシアルフィに移すなど不可解な行動が多い。即位以前のアルヴィスを知る者にとって現在の皇帝はまるで別人のように見えるため、彼は正常の状態ではないと判断されるのである。
 ダナンは盲目的に皇帝を信じているわけではないが、やはりロプトのみが除かれることを望んでいる。帝国の関係者である以上、15年前の眩い時期こそが最上の形だという価値観に囚われているからだ。もっとも、その当時に囚われているからこそ皇帝を被害者だと認識してしまうのだが。あるいは、皇帝に弓引くことに耐えられない臣下が、精神安定の都合でそう思い込んでいるからかもしれない。ただでさえロプト嫌いが理由で兵を挙げようとしているのだから、皇帝は無関係としなければ理由が正当でなくなる。
 どちらにしても、ダナンにとって反帝国の兵を挙げるのは確定事項である。滅ぼしたいのはロプト教のみであるが、ロプトが帝国と寄り添っている以上は帝国と戦わざるを得ないのは避けられないだろう。反帝国の軍隊として見られるのであれば、その象徴として"光の皇子"セリスを旗頭に据えた方が多くの支持を得られる。ダナンがセリスと共闘しているのはそのためである。
 ただ、問題がないわけでもない。戦いに勝った後である。
 ロプトを壊滅させ帝国の建て直しに成功した場合、解放軍指揮官であるセリスは、祖父と父による反逆者の汚名を返上し、シアルフィ公爵として帰参するのが筋であろう。皇帝にとっては複雑な気分かもしれないが、被害者説が正しいのであれば信賞必罰にうるさいアルヴィスが私情を挟んだりはしないだろう。
 しかし、問題はセリスが望んでいるのが名誉の回復ではなかった場合である。
 すなわち祖父と父の遺志を受け継ぎ、世界制覇を望み覇者になろうとしているのであれば皇帝の下で公爵位に甘んじる気などないだろう。ロプトを滅ぼした際には皇帝の責任を理由に打倒しようとするのは目に見えている。
 つまりダナンとセリスは最終的に道を違える可能性があるのだ。15年も隠れ里ティルナノグに潜んでいたセリスには、自力で野心を芽生えさせる環境にないだろう。どちらを望んでいるかはこのオイフェの教育の結果と考えて差し支えない。もちろんオイフェには意思確認してその上での同盟関係なのであるが、腹に一物ある可能性も否定できない。野心は環境で変わる以上はこの先どうなるか分からない。シグルドの傍に仕えて転戦し、主の遺児を守って隠遁しているオイフェの最終的な望みは何なのか――セリスの保護者であり傀儡師でもあろう彼の動向によってダナンとドズル家は対応を修正しなければならない。
 オイフェの祖父である名軍師スサール卿の名声はダナンもよく聞いていた。六公爵家時代、彼がいなかったらシアルフィ家は軍事面でのイニシアティブを握れなかったと言っても過言ではないだろう。その孫でありシグルドの近習であったオイフェならば、能力は疑いようもないだろう。それゆえに危険ではあるのだが。場合によってはセリスを無害化させるためにオイフェを除かねばならないかもしれない。しかし現時点においてはオイフェがダナンと仲違いするメリットがないため、談笑するだけの友好が崩れることはないだろう。今は信用してもいい。
「これよりシレジアの工作に向かいます。留守中、セリス様をお頼みいたします」
 一方でオイフェはダナンの内政能力を高く評価していた。地理的な要因もあるが、このイザークの地にロプト勢力を一歩も入れさせないのはかなり困難な仕事である。フリージのように政治的理由で積極的に誘致する国もあれば、トラキアのように拒否しつつも経済的理由で受け入れざるを得ない国もある。ロプト教がグランベル帝国と一体化している以上、ロプト教への扱いは帝国との外交政策と言い換えても過言ではない。それを全て突っぱねられるということは、ドズル家は帝国から自立しているということになる。ロプト教とグランベル帝国に束縛される要因がないからこそ、セリス皇子にとって貴重な同盟者になり得るのである。
 シグルドの遺志を継ぐのであれば、セリスはアルヴィスに決戦を挑んで倒さねばならない。その意味で最終的にはダナンをどうにかさせなければならないが、少なくとも今の段階でドズル家を敵に回す必要性はどこにもない。オイフェとしては誠実を貫くのが基本方針であった。
 ダナンにとってもオイフェにとっても、現状においては互いに敵対する理由がないために信用しており、それゆえに共闘が成り立っていた。
 ……ところが、この蜜月関係は突如として崩壊した。帝国の工作でもなく、実行力のない旗頭であるはずのセリスが、独断で兵を挙げてガネーシャ城を襲ったからである。

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