ヴェルダン地方南西部。
緑豊かなヴェルダンの地の中において、特に深い森が広がるこの一帯は古より聖域とされている。
南北の往来の為に縦断する道が切り開かれはしたものの、それは往来に必要最低限な程度のものに止められていたし、森の出入り口の脇には森を冒した事と、加護によって平和な日々を過ごせられる事への謝意を表す碑が立てられていた。
「じいさん、相変わらず早いねぇ」
いつもと変わらない朝。今日も一人の老いた男が先に来ていて、この道に水を撒いている。この日課は、今では十名余の孫がいる身が、かつてその祖父母が健在していた頃から続けているそうだ。
「お前が遅いだけじゃ、まったく……」
「近頃の若い者は、かい? ま、そんなもんさ」
精霊の森と呼ばれ、数多くの神話や伝説が残るこの森の周辺に住まう者は、毎朝、家業を始める前にこの森の出入り口の道と碑を清める。
若い男が下げて来た桶を碑の真上で上下逆さに回転させた。満たされていた水に作られた小さな滝が碑に勢いよく打ち掛かり、朝焼けを吸い込んだいくつもの赤い雫が跳ねて、若い男の肌着を濡らした。
もっと丁寧にやらんか、と言う後ろからの声に応える様に空になった桶を後に放り投げて、首に掛けていた手拭いを取り出して碑を磨き始めた。
「やれやれ、こんな朝早くに掃除しなきゃいかねぇ所なんかに生まれるんじゃなかったぜ」
ええぃ、黙ってやれと何度言わせれば分かるんじゃ、と言う声を発する老いた男の心は温かい。確かに最近の若い者は皆こう言う事には熱心ではない。この若い男も毎日色々と愚痴をこぼす。しかし、それは毎日こうして現れる事でもあり、愚痴をこぼしながらも碑を磨く時の集中ぶりは背中を通してもよく分かる。
「……!?」
何か音と共に地面が響く様な感覚。恐らく何かが近付いて来る振動が伝わって来ているのだろう。
「じいさん、あれ!」
若い男が指差した方角から、砂塵を巻き上げて急接近して来る騎馬の群れがあった。その集団は二人の前で停止し、先頭の馬上の男が見下ろしている。見た事の無い顔だった。ヴェルダンには青い髪の男などいないから、恐らく異国人であろうか。
いや恐らくではなく、絶対にヴェルダンの生まれではない。この精霊の森を抜ける時は下馬するのが当然である。禁忌であると定められた訳ではないが、ヴェルダンに生まれた者ならば誰もが自然に行う事であるからだ。
こいつらは噂のグランベルからの侵入者だ!
「じいさん、逃げろ!」
老いた男はこの状況が危険である事を飲み込めていなかった。ただ、この森を冒涜する行為への怒りのみがあったからだ。もし若い男がこちらを向き、警告を発しなければ、この騎馬の集団に手にしていた柄杓で打ち掛かっていたかも知れない。
老いた男は曲がった腰を懸命に伸ばして逃げようとした。しかし、先頭の青髪の男が投じた手槍がそれを許さなかった。
「じいさん!」
うつ伏せに倒れた老いた男の背中に突き刺さったまま天に伸びる手槍は、さながら粗末な墓の様だった。
「くっ……!」
怒りと悲しみと……その他いくつもの感情が頭の中で渦巻いたまま、若い男は「殺戮者」の方を振り返った。
「……!」
振り返った目の前に銀色に輝く剣先があった。恐怖で自然と膝が折れ、腰が落ち、背中が碑に押し当てられる。青髪の男の剣先が追いかける様に的確に眉間に迫り、僅かに触れる。こうして生死の境に立つ者のみが分かる、冷たすぎて、熱すぎる感覚。
そして、青髪の男の口がはじめて開いた。
「……シギュンの娘はどこだ」

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