二日後、大湖の南岸に位置するマーファ城が陥落し、残すは王都ヴェルダン城のみとなった。
グランベル軍が船を調達をしていないと言う情報が正しければ、聖域である精霊の森を突き抜ける進路を選ぶと思われる。
それを耳にした兵士達の士気は、この危急存亡の時を迎えている時に国王バトゥが病の床に伏して姿を現わさないにも関わらず、非常に高い水準にあった。
ヴェルダンの民にとって精霊の森は神聖不可侵の森である。人の往来の為に森を縦断する細い道を利用する事はあっても、軍靴で踏みにじる事は絶対的な禁忌だからである。
ジャムカはバルコニーに立ち、大湖の西岸に位置するヴェルダン城の港を見据える。
東の城壁の上を行き来する歩哨達には、腕を組み微動だにしない王子の姿は心強く映ったが、その眼が赤い事までは気付かなかった。
……病の床に伏している賢王バトゥは、もう兵士達の前に姿を見せる事は無いだろう。何故ならば、実際には病に倒れたのではなくグランベル軍の陣へ赴いて不在だからである。
病床説ならば、高齢だからやむを得ない、と言う逃げ道が残されている故に兵士への影響も少ないと踏んでの情報操作であった。
国王が敵に捕らえられた、と言う情報が広まるよりはるかにましであるからだ。
……だが、実際には捕らえられた訳ではない。
バトゥ王はグランベル軍の陣に赴いてそのまま消息を絶った。
王からの無事を知らせる使者が来た訳でもなく、王を捕らえた旨を伝えるグランベル軍からの使者が現れた訳でもない。
人質とは、人質がいる事を相手に知らしめなければ価値は出ない。
グランベル軍は王を捕らえた旨を伝える使者を発せずに、何も無かったかのように行軍を続けてマーファ城を攻略した。
つまり……王は捕らえられた訳ではない。
「……我が父マナナンの非業を知らぬ訳でもあるまい!」
「……死ぬぞ」
アイラ王女が残した言葉が無ければ、ジャムカはその可能性を否定したであろう。そして捕らえられた、殺された以外の可能性を当ても無く模索しただろう。
長兄である第一王子ガンドルフはグランベル軍迎撃の為に今朝早くに出撃した。
次兄、第二王子キンボイスはジェノア城で戦死。
そして末弟、第三王子である俺は……?
こうしてバルコニーで腕を組む以外何もしていない。王子としての努めを果たさねばならないのに。
王子としての努め……何をするべきなのだろう……?
俺のするべき努め……。
この戦争が始まる前からして、ジャムカ自身には果たさねばならない責任は全く無かった。父王バトゥは高齢ではあるが政務を滞らせた事はない。加えて、第一王子ガンドルフと宮廷魔術師サンディマが補佐に当たっていれば、ジャムカ自身には出る幕が無かった。
第二王子キンボイスは王都を離れて支城を拠点とし、地方の族長と直に対話する事によって治安維持に一役買っていた。
そして第三王子ジャムカは政務に関わる事も無く、一通りの教養を身に付ける事と、弓の腕を磨く事以外にはする事が無かった。
狩猟が主な産業の一つでもあるので、確かに弓に秀でた兵士は珍しくない。
しかしヴェルダン王国は深い森を切り開いて生まれた国である。その開拓精神は、今もなお多くの兵士達が好んで斧を使う事に垣間見る事が出来るし、国旗に斧がデザインされている事からも伺える。
ジャムカの二人の兄もまた、王族である事もあって斧を用いる。特に長兄ガンドルフは手斧を扱わせれば大陸無双の実力を誇る。
まだ幼かった頃のジャムカは、この斧捌きに憧れて父王バトゥに斧をねだった事がある。しかしその翌日、幼い末っ子に渡されたものはそれとは似ても似付かぬ物だった。
楽器の弦を一本張った曲がりくねった物に、先の尖った細い棒の様な物。その棒を入れておくのに使うらしい筒。これらが何であるのか知らなかったが、少なくとも斧ではない事ぐらいは分かった。
結局、泣き叫ぶと言う猛烈な抗議は受け入られなかった。
自室のベッドにまだ小さな顔を押し付けて、自分だけ差別された事に対する悲しみをシーツに流し込んでいると、鍵を掛け忘れた扉が開き、声が聞こえて来た。
「ジャムカ……お前だけには辛い思いはさせたくなかったが……許せ」
顔を上げ振り向いた時には声の主は姿を消し、扉が閉じられる音だけが残った。
「ガンドルフ……兄様?」
その声は間違いなく上の兄ガンドルフのものだった。慰めに来てくれたのだろうか?
その時、壁全体に大きな音と振動が響き渡った。驚いて部屋から飛び出してみると、廊下の曲がり角で壁に拳を打ち付けて俯き動かないその背中があった。
慰めに来たのではない、詫びを入れに来たのだ。
僕が……辛い思いをしていたから……?
ジャムカはいつも側にいてくれた、この上の兄が好きだった。
だから斧ではないからと言う理由では泣かないことにした。
弓、と言う物を扱う訓練も嫌がらず、むしろ集中して訓練に打ち込んだ。それ故、弓の腕は王国一と称えられるまでに上達した。
俺の……為すべき努め……出来る事……
それは今まで続けて来た弓だけだった。
よく理由が分からないまま行われた無謀なグランベル侵攻。自分と連れて来られたエーディンとの結婚話。
確かにエーディンの美しさには心を奪われた。正直、この女性を妻としてみたかった。だが、それと父と兄の命を引き換えとなっては積極的に話を進める気になどなれる筈も無かった。
だが長兄ガンドルフは、グランベルに逆侵攻され、父と弟を失った事に対して後悔の念を口にする事はなかった。
当初は王子として兄として弱い所を見せられないから、と思っていた。
だが、今はそれとは違う、ほんの僅かな疑念がジャムカの心の中で大きくなり始めた。その疑念は自分の提案によって父親を死なせてしまった後悔の念をどこかへと追いやった。
あの時、父バトゥは自分とエーディンとの華燭の典を見られなくて残念である旨を口にしていた。
長兄ガンドルフは未だにバルコニーの上と下と言う位置関係から進展していない婚約者エーディンとの仲を気にしていた。
今まで「戦利品」であるとばかり思っていた、エーディンと聖弓イチイバルそのものに意味があるとしたら?
それによって命を落とす事が、覚悟の上であり承知の上であったものだとしたら?
偉大なる弓使いウルの武器である聖弓イチイバル。エーディンはその弓使いウルの血を受け継ぐ……
そしてそのエーディンを妻に迎える自分もまた弓を使う。
父と兄が死ななければならなかったのは、「弓」が原因なのではないだろうか?
その「弓」を覚えさせられた自分こそ、この戦争の原因なのではないだろうか?

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