ヴェルダン王国宮廷魔術師サンディマ。
流れの祈祷師であった事以外にその過去は完全に不明である。
当然の事ながら素性の分からない輩を登用する事に強い反対の声が上がった。
しかし賢王と謳われるバトゥ王はそんな声を無視する様に、彼を宮廷魔術師として迎えたのである。
登用はされたものの、この薄気味の悪い男に好意的に接しようとする者はいなかった。
その為、自室を訪ねられる心配も無く、こうして祈りに没頭する事が出来るのである。
万一この光景が発覚すれば、火あぶりは免れないであろう。
何故ならば、彼が祈りを捧げる神の名はロプトウスと呼ばれるのだから。
かつてロプト帝国を名乗り、大陸を支配した教団が奉じる暗黒神の名である。
ロプト帝国は十二聖戦士と呼ばれる者達の手によって滅ぼされた。
後にその十二聖戦士によって、大陸のそれぞれの地に新たな王国が興され、治められて現在に至る。
このヴェルダンの地を除いては。
不意に密閉された部屋を照らしていた炎が揺らめき、次いで黒い竜巻の様な風の塊が部屋の中央で渦巻いた。そしてその風の中に影の様なものが見え隠れする。
「……サンディマ」
その声は影からのものだった。
「こ、これはマンフロイ大司教猊下!」
サンディマは慌てて平伏する。燭台の炎が揺らめくかの様に、そのマンフロイと言う名を持つ影が揺らめきつつ右手が上がりそれを制した。
「よい、それよりも戦況は?」
「ははっ、バイロンの子倅めは既にジェノア城に達した模様にございます。予想を遥かに越える速度で進軍しております」
影の両肩が僅かに震えるように揺らめいた。もしかすれば笑っているのかも知れない。
「シグルドも存外に役者よの。ユングヴィへの援軍の遅延が、公女奪回と言う名目によるヴェルダン侵攻の口実を作る為に、意図的に行われたものとは誰も思うまいて」
「はっ、ノディオンの獅子王めもそれを信じ、留守中のグランベルへの不可侵を掲げております」
「……バイロンの闇にバトゥの闇……こうも我らに都合の良い闇を持ち合わせているとはな……条件は揃った。後はシギュンの娘にシグルドの種を宿させれば、我らの悲願は達成される」
サンディマは平伏したまま僅かに首をかしげた。我らロプト教団の悲願、ロプトウス神の復活に必要な種はシグルドではなく……
そのほんの僅かな訝しむ態度に気が付いた影、マンフロイ大司教が補足する。再び右手が動き、今度はそれがサンディマのフードを素通りし、それによって隠された顔そのものに重なった。
「……無論、最終的にはアルヴィスの種が必要。しかしクルトが生きている限りシギュンの娘の価値は半減する。……我ら闇の者は人の心の闇を呼び覚ます事以外、何の力も持たぬ。その様な非力な我々がロプト帝国を再建するには、グランベル王国と言う土台が必要不可欠……」
そして風と影は消え去った。
サンディマはマンフロイの意図を察知した。何故シグルドの種が必要であるかと言う事が。それによって必ずバイロンの闇が肥大化すると言う事が!

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