――交戦か停戦か。
まだ戴冠こそしていないものの、賢王バトゥの後を継いだ第三王子ジャムカは、執務室に宮廷魔術師サンディマを招いた。今後の方針を決定する為である。しかし、サンディマの第一声はジャムカの予想の範囲外のものだった。
「交戦か降伏か、です。殿下、停戦は不可能でございましょう」
「……どういう事だ?」
――停戦が不可能……?
サンディマの表情は深く被られたフードによって窺い知る事が出来ない。寛容な父王バトゥはこの男のこの無礼な慣習を咎める事をしなかった為、ジャムカは流浪の祈祷師であったこの宮廷魔術師の素顔を知らない。
経歴はおろか、顔まで不明であるこの男を信用する気はなかったが、父を失い、二人の兄を失っているジャムカにはサンディマ以外に相談する相手が存在しなかった。
国王の努めとは何か、ジャムカはその命題の答えを見出していない。ただ、眼下に迫っているグランベル軍の存在が、心に余裕を持たせない為にその重圧を感じさせないで済んでいる。
ただ、ジャムカ自身は停戦を望んでいた。父と二人の兄の命を奪ったグランベル軍への強い復讐心。だが本意ではないが、これ以上の死者を出すのを防ぐべきだと言う、漠然とした国王の努めへの認識がその選択肢を選ばせたのである。
だが、サンディマは停戦は不可能と言う。
「開戦後、グランベルからエーディン公女と聖弓イチイバルの返還を求める使者は来ていません」
「……!」
それは、グランベルが和平を持って戦争を終結せしめるのを望んでいない事を意味する。何故ならば、戦争とは開戦の理由となった物事が解決すれば終結するものである。
エーディン公女と聖弓イチイバルによって始まった戦争ならば、それによって終結するはずである。しかし、グランベルがそれらによる終結を望んでいないと言う事は、この戦争がそもそもエーディン公女と聖弓イチイバルによって始まったものではない事を指す。
「グランベルは……」
ジャムカ自身はその答えの見当が付いていた。サンディマに尋ねたのは、ただ、認めたくなかったからだ。否定の言葉を期待していたのかも知れない。だがサンディマはその気持ちを汲み取る事はしなかった。
「初めからこのヴェルダンに侵攻するつもりだったと言う事だ」
「……」
父や兄は、何故グランベル侵攻を決定したのか、その理由を告げる事無く故人となった。
弓使いとして育てられた自分、聖弓イチイバル、そして弓使いウルの直系であるエーディン……
自分とエーディンを結婚させ、ヴェルダン王家に弓使いウルの血を宿らせようと言う意図があったのではないか。
ジャムカが出した結論によれば、この戦争はヴェルダンの意思によって起こされた筈なのに。だが、戦争を起こした方の筈の自分達が、戦争を終わらせる権利を持っていない。
現在、この戦争を終結させる権利を一方的に握っているのはグランベルの方だ。
――交戦か降伏か。
しかし、大陸最強の斧使いと信じて疑わなかった二人の兄が敗れた。兵士達の士気の低下は目を覆うばかりのものであったし、ジャムカ自身が自ら軍を率いても勝つ自信は全く見出せなかった。
名誉や誇りを掲げた勝算の無い交戦か、父や兄達の仇に対して膝を折る降伏か。
ヴェルダン王国に、その国王であるジャムカに許された選択肢はたったそれだけなのだ。
「ククク……悩んでも無駄だ。ジャムカ、どの道ヴェルダン王国は助からん」
「……サンディマ?」
ジャムカは、宮廷魔術師であり臣下であるサンディマの口調が変わったのにようやく気付いた。
「……だが、良い事を教えてやろう。シグルドにとって、このヴェルダン城の包囲はもののついでだ、戦死者を出すのは本意ではないだろうよ。だから和を乞えば戦争は終わる」
戦うのが本意ではないのなら……と言いかけるのを制するように高圧的な態度を取り始めたサンディマが続ける。
「……だが、あと王城のみと言う所まで侵攻しておきながら、征服しないで停戦するのも本意ではないだろうよ」
ジャムカには臣下である筈のサンディマの態度を咎めるだけの心の余裕が無かった。グランベル軍の侵攻目的がエーディン公女と聖弓イチイバルの奪還にある、と信じていた父王バトゥは交渉に出向いて殺された。しかし、サンディマの言を信じるとすれば、王都ヴェルダン城の包囲がもののついであると言う事は、征服が目的で侵攻したのでもない。
その真の目的は……?
交戦の意志が無いジャムカにとって、それが分からずに交渉を行えば父王の二の舞いになりかねない。
「待て……!」
サンディマが人を寄せ付けない深い森の様な濃緑色のローブを翻して立ち去ろうとするのを制しようとするが、その足は止まらなかった。
サンディマが残したのは、静かに扉が閉じられる音だけだった。空虚だけが残った執務室で、ジャムカはそれでもこの国を守るべく決定を下さなければならない。
「エーディン、俺はどうすれば……」
美しきエーディンとの結婚……親父や兄貴達は、その時間稼ぎの為に死んだ!
その死を無駄にしないためには!?
戦って勝つ。確かに勝てばそれが叶うだろう。だが、兄貴達が敵わなかったグランベル軍に勝てるか……?
和平を結ぶ。しかもエーディンとの結婚をグランベルに認めさせる和平。そんな都合の良い和平があるか!?
ある筈が無い、ある筈が無いがジャムカはグランベル軍へ和を乞う使者を発したのである。
こんな正気の沙汰とは思えぬ条件提示によって、グランベル軍が態度を硬化させると言う危険性は考えなかった。この危急存亡の時、国王である自分の一挙一動が国家の、そして民の命運を左右してしまう事への重圧が正常な思考を奪ったからである。
……だが、ジャムカにはその狂行を止め得る者がいなかった。宮廷魔術師サンディマは既にその姿を消していた。ジャムカが冷静さを取り戻した頃には、命令通りに使者は王都ヴェルダン城を発していたのである。
冷静に考えれば、それによって降伏すら許されない事態に発展してしまう可能性が頭に浮かんだ。
――俺のせいだ……!
執務室の机を殴り付けても事態が好転する筈が無い。
親父や兄貴達が望んだ、俺とエーディンとの結婚。
いや、最後の最後で望んだのは自分自身だった。
優しきエーディン。
美しきエーディン。
……そんな個人の感情を、父や兄の遺志と置き換えて、国王の努めを優先させる事から逃げていただけだ。
それに気付いたのが使者を発した後だった。
グランベル軍兵士によってなで斬りにされる民。国王の狂行によって死ななければならない、何の罪もない民。机を殴り付けた両拳が痛むのが何の罪滅ぼしになる!
……だが、戻って来た使者が携えていた返書の封を恐る恐る切ったジャムカは、目を通してまず自分の目を疑った。
それは、ヴェルダンの統治権を放棄し、シアルフィ家の一兵士となるならばエーディン公女と結婚を認める、と言う信じ難い内容だった。

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