ヴェルダン王国、国境北端。
王都ヴェルダン城の後背部と言うべき場所で一組の男女が北を望んでいる。
「……」
アグストリアとの国境である深い森。いざ分け入ろうとする前にシャナンが後を振り返った。
シャナンには兄弟がいない。アイラは甥であるシャナンに対して表面上は姉のように接したつもりだったが、その根底はイザーク王太子の保護者であり守護者でしかなかったのかも知れない。
だが、このヴェルダンの地の三人の王子は保護者でもなく守護者でもなく、兄としてシャナンを迎えたのである。
内向的な性格なシャナンが滅多に見せなかった笑顔。
「いいかシャナン、王になるなら泣くな。王が泣いていたら国の皆が心配するぞ」
シャナンの小さな頭を覆う大きな手。その手を被る事は、もう叶わない。
シャナンは今まで王太子としての自覚がなかった。父親が国王だから自分は王太子である、と言う血縁上の概念しか持ち合わせていなかった。
しかしこのヴェルダンで多くの事を学んだようだ。小さなシャナンが今では一回り大きく見えるのは成長した証だろう。
――王になるなら泣くな。
戦死したと聞かされてもシャナンは泣き出すのを耐えた。それはその言葉を守ろうとする意志であり、王としての努めに目覚めつつある事の表われだろう。
「シャナン……」
短い間ではあったが、シャナンにとっては第二の故郷と呼べるあたたかい場所だったのだろう。しかしいつまでも名残惜しんでいる暇はない。北を向けさせるべくシャナンを促した。
祖国イザークはグランベルと交戦し、滅亡の憂き目に遭おうとしていた。
……捕まれば命はない。
逃れる為にこのヴェルダン王国を頼ったのだが、そのヴェルダンもまた滅びる。唯一残ったジャムカ王子は、王都ヴェルダンの眼前に布陣しているグランベル軍に対し、開城を選んだ。
アイラとシャナンには他に行く所が無かったが、グランベルに投降すれば間違いなく処刑される。
だから溶け込もうとする夜の闇よりもさらに黒い髪をフードで隠している。東方の出自だと知れてしまうこの黒髪が不都合極まりないからだ。
「……!」
シャナンがアイラのマントの裾を引っ張る。アイラにもその理由が理解できた。南から近付いて来るいくつかの気配がある事にすぐ気付いた。
……しかし、気配を消していないのは何故だ?
「シャナン、行って来る」
アイラは追手が気配を消さずに近付いて来る理由は、それに気付かせ森の中に逃げ込ませる為だと読んだ。
地理に不案内である事に加え、この闇夜である。平時ならばともかく、追手から逃がれる為にこの深い森に分け入るのはかなりの危険を伴う。アイラは迎撃を選択した。シャナンを巻き込まない為に遠く離れる。
殺気が無い……何故だ?
その迷いが、別方向から手槍が風を切り裂いて飛来する音に気付くのを一瞬遅らせた。
「っ……!」
かろうじて体を捻り回避したものの、正体を隠す為に着ていたマントの裾を大地に縫い付けられてしまった。手槍を抜くべく手を掛けた時、手槍が投じられた方向から近付いて来る馬蹄の響きが聞こえた。
騎馬だと……!
森の中まで追撃を行うつもりならば騎馬兵を派遣するのは適切ではない、そう高を括っていた。
しかし敵は、森に逃げ込まず迎撃に出ると完全に看破して騎馬兵を派遣したのである。
「くっ……」
近付く馬蹄はアイラに剣を構えさせる時間を与えなかった。手槍を引き抜く僅かの間に一気に間合いを詰められ、剣先を向けられてしまった。剣を抜く事すら出来ないこの状況ではどうする事も出来なかった。
逃げてくれ、シャナン……!
しかしその願いを聞き届ける神は存在しなかった。
「アイラ!」
その声が聞こえてしまった。どうする事も出来なくなった自分への、助けを呼ぶ声が。
これまでか……
新たに現れた騎馬兵に突きつけられる数多の槍の穂先。手槍が力を失ったアイラの手から零れ、布の切れ端を身に付けたまま地面に転がった。
「イザーク王国アイラ王女だな?」
将だろうか、手槍を投じたその騎馬兵がアイラの最後の希望を断ち切った。
手槍を回避した拍子に脱げてしまったフード。露になったイザークの民である事の証明である黒髪。それは身分を偽る事も不可能である事を意味した。
「……」
アイラの肯きには力強さとは縁が無かった。もはや力を込める意味も意欲も無かった。
祖国であるイザーク王国はグランベル王国と交戦中。その王妹であるアイラも、王太子でもあるシャナンも処刑を逃れる可能性は万に一つも無い。
目の前の将が下馬して剣を抜いた。どうやら生死を問わないらしい。
しかし、その剣が振り下ろされる事はなかった。変わりに予想だにしなかった内容の言葉を聞かされた。
「シアルフィ公子シグルド、父バイロンの名代として述べる。……シアルフィ公家は、イザーク王国と盟を結ぶ事を望む」
「……どう言う事だ、グランベルとイザークとが停戦したとは聞いていないし、グランベルはそのつもりも無いのだろう?」
――そして、大国グランベルは敵国の王族の命を助ける事をしない事もな……!
心の中で続けたそれは、父マナナンと、世話になったバトゥ王を指していた。……そして恐らく、ジャムカ王子もまた……
敵将は即答しなかった。代わりに別の言葉を持って答えた。
「ヴェルダン王国のジャムカ王子の身柄は、シアルフィ公家が全力を持って保護する」
「ジャムカ王子を処刑しないと……?」
そこまで口にして、アイラは気付いた。先ほどからこの将が口にしているのは、グランベル王国ではなく、シアルフィ公家である事に。
「……シャナンの身柄も保証してくれるのだろうな?」
「シャナン王子には先ほど手荒な事をして失礼した。どうやら命が行き届いていなかったようだ。これからは賓客として遇するよう命を徹底しておこう」
何処へ逃げても、誰かを信用して保護してもらわなければならない身である。アグストリアへ落ち延びる事が出来ても助かる保証はどこにも無い。
ジャムカ王子が無事で済むのならばシャナンも喜ぶだろう。しかし、このシグルドと言う名の将はグランベルの人間である。それだけでは信用するだけの確信が持てなかった。アイラは相手を試してみた。
「……バーハラ王家の命を違えてもか?」
シグルド公子はその言葉に動じる事も無く、ただ抜き身の剣を高く掲げた。
相手の意志の強さとその意図を察したアイラは自らも抜刀し高く掲げ、剣先を静かに交わした。
「イザーク国王マリクルが妹アイラ、兄王に代わりてこの剣に誓う! シアルフィ公家と恒久の友とならん事を!」

(一章・完)

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