騎士になりたかった。
特に理由があるわけではないが、少年の変わらぬ憧れなのは間違いない。
とは言え、どうすれば騎士になれるのか分からない。木を削って作った手製の剣を素振りして、夢見るその日が訪れた時に備えてはいるが、結局は夢は夢となる筈だった。
しかし、シグルドがグランベル本国進攻のために軍備増強中で、新たな騎士を募集している、と言う噂を聞いて少年は村を飛び出した。
――騎士になれるんだ!
彼の想いが届いたのか、騎士募集の噂は本当であった。
ザクソン城に到着した彼は、まず門衛の兵士の甲冑姿を間近に見て心震わせ、これからの未来に心躍った。
「……よく来てくれた」
物語でしか知らない、赤くて長い絨毯の上に立った少年は、その先に座る青い髪の人にそう投げかけられた。
竦み上がるような大声を張り上げているのではなく、難しい言葉遣いをしているのでもない。特別な素振りをしているわけもない。ただそこに座っているだけの青髪の“シグルド様”に、ただただ圧倒されるばかりだった。
少年達が憧れてきた、本物の騎士――
「……早速だが、剣を支給する。これから訓練を行うが、壊れるまで存分に使ってくれ」
控えていた兵士から渡された一振りの剣は、鉄製のごくありふれた品ではあった。だが実物の剣を初めて持った少年の興奮の前には、鉄だの鋼だの銀だの関係無い。
「わ、重いや……!」
木製の剣では重量が足りないからと重り代わりに石をくくりつけて稽古していたが、実剣の重さは――鞘の分を考慮してもなお――少年の予想を凌駕していた。
――これで素振り百回なんて言われたらどうしよう……?
少年は身体に恵まれているわけでなく、あまり腕力に自信が無い。本気で振ったら、恐らく十回がいいところではないだろうか。ましてや実戦ではこれまた重そうな鎧を身に付けて振ることになるのである。
無理なのかも知れない――。
それが現実なのかも知れない。
見ていたのは、甘い夢なのかも知れない。
「うん、素振り百回でも頑張る……!」
だが純粋な少年の瞳は、この程度では濁ってしまったりはしなかった。百回振れられるように頑張るんだ、と新たな決意を生み出していた。夢を追う少年の想いは、潰えてしまう事は無い……あくまで、この程度では。
その少年の呟きが届いてしまったのか、シグルドが静かな声で返答した。
「……素振り百回は後の話だ。膂力は鍛えさえすれば解決する話であり、そもそも力が強い事が騎士の本分ではない。騎士に必要なものは別にある。君がそれを兼ね備えている事を切に願う」
そもそも騎士とは何なのか、正確な知識を有していない少年には、騎士に求められるものが強さ以外に何があるのかよく分からなかった。
優しくて礼儀正しいと言う条件があるのは知っているが、剣を持たせていざ訓練を始めようとしてるのだから、礼法でもないだろう。
「あの、それじゃ何を――」
と少年が言いかけた時、自分が入って来た後の扉が開いた。
「遅くなりました。お待たせしましたね、シグルド卿」
そんな声と共に入って来たのは――少年の印象では――シグルド様よりも背の高い、穏やかそうな神父様だった。そしてその白い法衣の裾には、少年よりも1〜2歳ほど下の女の子と、彼女が手にした真新しい杖とが見え隠れしていた。
よほど人見知りするのだろうか、チラリチラリとはこちらを伺うものの、少年と目が合うとたちまち法衣の陰に隠れてしまった。
「……君のパートナーとなるシスターだ。初等訓練は彼女と共に行動してもらう」

「牢屋……?」
その通り、行き着いた先は地下牢であった。
僅かな灯りに照らされた、薄暗い石の廊下。
「あの……訓練って、ここで、ですか……?」
少年達には居心地の良いものではなかった。何しろ高揚状態が残っている少年ですら、この場にいる事自体に若干の勇気を要した。
「……正確には、右奥の牢の中で行う」
ましてや光がまともに届かない牢の中に踏み込むとあっては少年も出来得る事なら遠慮したかったが、しかし訓練をそこで行うとあっては、少年には後ずさる事は出来なかった。
シグルドが軍靴を鳴らして奥へ向かう。
後を追う少年の左右を通り過ぎる、灯りの届かぬ闇を抱え込んだ鉄格子の群れ。
およそ場違いな聖職者が穏やかな表情のままで前に進む。
今までよりもさらに俯いて、懸命に歩く少女。
「怖がる事はありません、先ほど教えた通りに出来れば大丈夫ですよ」
隣では杖を拠り所にしているのか抱き締めるように持つ少女に“神父様”が何やら手順を教えている。少年には分からない単語が出て来るので会話の意味はよく分からなかったが、どうやら手にしている杖の使い方についてなのだろう。
「……」
シグルドが牢の守人に開けさせて中に入る。持ち込んだ灯りに照らされた奥には、鎖に繋がれたボロボロの囚人が居た。
「……内戦中に捕らえた捕虜だ。君達の訓練相手を務める」
内戦が終わって結構な時が過ぎているが、この囚人はいつからここにいるのだろうか。その証であろう髪や髭は乱れて伸び、少年よりも一つ二つ年上であろうその顔は、遠くからでは年齢の識別を困難なものにしていた。
こんな暗くて薄気味悪い狭い空間に、しかも繋がれたまま過ごす――少年にはその労苦がどれぐらいか想像できなかった。
「俺を、出してくれるのか……!?」
「……彼らの初等訓練が終了次第、君を解放しよう」
「ほ、本当だな! 分かった、何でもやる!」
囚人の顔に光が戻った。
自由の身――その有難味が分からない少年にとっても、この牢の中から解放される事がどれほど喜ばしい事かは容易に想像できた。自分の訓練に付き合う事で出れるのだから、少年は自分の存在が何かの役に立った事が少し嬉しかった。
「……有難い。積極的な協力の申し出に感謝する」
シグルドが僅かなりとも頭を下げた時は大概は凶事の前兆である、と言う傾向は、少年の知る由ではない。
何しろ、それどころかシグルドの騎士としての礼儀正しさに感銘を覚えたぐらいである。少年が内に抱いているイメージが誤りだったと知るのはもう少し時間がかかるのだろう。
少年は「この捕まっている人は、剣(あるいは杖)の稽古をつけてくれる」とばかり思い込んでいた。“シグルド様”について少年は静かな人と認識していたが、冷たい人と言う印象は持たなかったからだ。
だから訓練の内容がどう言うものであるのか完全に誤認していた。
「……これより初等訓練を開始する」
――あれ……?
少年が抱いていた“訓練予想図”においては囚人は自由の身であり、自分の打ち込みを受ける剣を握っている筈だった。
しかし囚人は鎖を外される事無く、剣が与えられるわけでもなかった。
「おい、外してくれよ!」
囚人の言う事は当人にとってはもっともな話だろう。
だがそれとは対照的に訓練を執り行う大人二人は、放置するかのように無関心であるのと目を細めた穏やかな笑顔を浮かべているのとで、囚人を動かそうと言う意思は全く見られなかった。
「あの……いったい何をすれば……」
少年は失念していた事があった。シグルドは訓練を牢の中で行うと言っていた事である。
牢は決して広くなく、二人が剣を交わすほどの余裕はほとんど無い。この中で剣を振るえるのはスペース的には一人だけであろう。それが意味する事は――
「……この囚人を斬れ」
「えっ……!?」
「なっ……!」
少年は我が耳を疑って思わず聞き返した。
「今、何て……」
「……騎士の務めは国と人とを守る事。そのためには躊躇無く敵を“殺す”事が出来なくてはならない。これは膂力や技量よりも最優先に求められる適正だ」
正論ではある。
守るべきものを守るためには、外敵と戦わなければならない。その際に殺さずに済ませる余裕などまず存在しない。もしもそれを躊躇すれば自分の身が危なくなる。
とは言え、シグルドの命令があまりに酷なのも確かではある。少年はただおろおろとするだけであった。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「……骨としては敵を人と思わない事だ。まず剣を抜かねば何も始まらないが」
囚人の反論を無視して続けたシグルドの言葉は、ただただ正確であった。
正常な思考能力を持つ人間の場合、同じ人間を殺そうとすれば当然ながら剣先も鈍ろう。
だからと言って――たとえ敵同士であっても――人を人と思わず虫ケラだと思って剣を振るえ、と言われても、そうそう実践できるものではない。
騎士、とは――少年の騎士への印象は、自分が抱く“騎士像”に沿っているので、シグルドの静けさは落ち着きによるものだと思っていた。
確かにシグルドは感情の有無すら怪しいほど落ち着いている静かな人ではある。
だがそれは彼の騎士の部分であり、対グランベルのための精兵を求める“騎士を束ねる者”としての部分は別なものが求められる事までは分からなかった。
そのギャップが埋まりきらない少年は、騎士になるための最初の訓練が“人殺し”に慣れる事と言う事実を飲み込む事が出来なかった。
「……作戦が末端まで浸透しないのは指揮官の責があるゆえ、改めて命令する。剣を抜き、この囚人を斬れ」
おろおろするばかりの少年の姿が指示が理解できなかった故と認識したのか、シグルドは少年の事情を考慮する事無く再び命令を下した。
「お、おい……ほ、本気か……? なぁ、冗談なんだよな……?」
囚人からは既に威勢の良さが引いていた。
死への恐怖に対し、紛らわせるために精神が自己防衛機能を作動させたので、本能的に状況を楽観視するようになったのだ。
シグルドに気圧された少年は、思わず剣を抜いてしまう。だが上段に構えたまでは動いた両腕は、それ以降はそのまま鎮座してしまった。
「ハァ、ハァ……」
剣の重さによるものではない。
たった一回振り下ろす――ただそれだけの行為ができないのでいるのだ。
――そんな事、出来ないよ……!
心優しい少年が構えを解いた瞬間――。
「……!!」
横から突風が吹き込んだかと知覚した瞬間、少年の前髪は瞬時に消失し、さらに延長線上の石壁に亀裂が走った。
「……戦闘中、敵を殺す事に躊躇しては自分が命を落とす事になる。ただし今は訓練中につき、それを理解してもらうためにも、今回は威嚇に留めておく」
「あ、あ…………」
少年と囚人の声にならない呻き声は、自分が置かれた状況を理解させられた証であろう。特に少年は直接的な殺意を受け止めてしまったショックで正常な思考ができなくなっていた。
少年は、本来なら自分が助かるために他人を殺めるような選択をするような人間ではなかったが、理性も本能も奪われた今の少年はシグルドの言葉に従って再び剣を振り上げた。
――斬らないと……殺さないと、僕は……。
「や、やめてくれ……」
少年の表情が悲愴な決意に染まったのを知った囚人は、唯一まともに動く首を懸命に振って拒否を表し、声で少年の良心に訴えた。
「い、嫌だ、死にたくねぇ……た、助けてくれよぉ……!」
――お願いだから、そんな“人間みたいな事”を言わないで……。
「やめてくれ! 俺は死に……………………!? ……! …………!……!!」
囚人の助命を願う声は、突如として音を発しなくなった。
「今のが“サイレス”です。この杖は対象の周囲の音を奪う効果があり、主に魔法の詠唱を封じるために使います。強大な魔法の使い手が敵方にいる時、味方の被害を少なくするためにこれを用います。憶えておいて下さい、私やあなたのような癒し手は傷や病気を治すだけではありません。味方が傷つかないように補助するのも癒し手の役目なのですよ」
牢の入り口付近で、そんな声がするのは知覚した。
だが少年にはそれに気を留めたり振り向いたりする余裕など無かった。
「……」
人間の証とも言える、声がなくなった事で、剣を振りかぶった少年の両腕を縛るものもなくなった。
「………………」
振り上げた剣に力を加え、反動をつけて振り下ろした。
「!! ……! ………………!!!!」
最後まで囚人の口は何かを訴えようと大きく開閉し、鎖を伴った身体が暴れていた。
しかし声は発せられず、鎖が床に叩きつけられる音も鳴ったりはしなかった。

「……!!」
直後、最初に動いたのは少女だった。
シグルドが少年に課した訓練内容を聞いた時、最も驚き悲しんだのは彼女だった。だが人一倍人見知りする性格の彼女は異論を唱えることが出来ず、ただ目を伏せて嵐が通り過ぎるまで耐えていた。
だが少年の剣が振り下ろされた雰囲気を感じとると、最終的に癒し手としての本能が優った。瞬間、彼女は囚人の下へと駆け寄ったのだ。
「……」
実剣を振るった事の無い少年の一撃は、囚人の顔を苦痛に歪ませるまでで、命を奪うには至らなかったのだ。
「……このままでは回復が出来ない。剣を戻せ」
シグルドの命令に無反応で従った少年が肩に食い込んだ剣を引き抜くと、傷口から紅い噴水が湧き上がった。
「! ……!」
少女は白いシスター服や顔が染まり汚れてしまう事に気も回らず、慌てて小さな両手で傷口を塞ごうとする。
「忘れましたか? こう言う時にこそ、あなたの杖があるのですよ」
後から投げかけられた声で我に返った少女は、腋の下に抱えていた杖を取り出した。
「レ……ミフ……セィハ……」
途切れ途切れに聞こえる少女の詠唱のような、ごく小さな光が囚人の肩口に灯った。
「危機に瀕して慌てるのも尤もですが、慌てたせいで詠唱や結印につまづくと、助かるべき人も助からなくなります。ですから、癒し手はどんな時にでも冷静さを失ってはいけません。勿論、生きるか死ぬかの瀬戸際ですので焦るぐらいに急ぐのも忘れてはなりませんが」
結局、少女の癒しの力は成功した。
苦痛のためにこの世のものとも思えぬ歪み方をしていた囚人の顔は穏やかなものに戻り、傷口も完全にとまでは至らないものの大事無い程度まで回復した。
「ふぅ……」
それを確認した少女が、大きく安堵の息を吐き出した。
だが、それで全てが終わったわけではなかった。
「……以上の要領を反復する。第二撃、用意」

暫時の休憩と食事を挟みながら、訓練は続いた。
少年と少女を指導していた二人はとうに立ち去っていたが、少年は剣を振るい続け、少女もまた訓練の中止を要望しなくなった。
第一撃を放った直後から、少年と少女の思考は原型を失い始めていた。
少年や少女の精神核を守る心の闇が、自分の行いに良心が苛み精神が崩壊するのを防いだからだ。闇は主を守ろうと、思考能力を麻痺させて罪業の価値観を緩和させたのである。
今の少年は人を斬る事に抵抗を覚えなくなり、少女は目の前で殺戮が行われる事に慣れてしまった。もう戦場の真っ只中に放り込まれても決して臆する事は無いだろう。
「……!! ……ッ! エ……!? ア、アアア……!!!」
そしてある程度の時間が経ったせいか、サイレスの効果が切れたらしく、囚人は声を取り戻した。
だが囚人は斬られては癒されての繰り返しを、決して死ぬ事で解放されたりしない地獄の苦しみを味わされ続けたのである。彼の精神核はとうの昔に崩壊してしまっていた。
「オォォォレヲォォコロスゥゥゥゥゥ!!!」
第一撃の時、囚人が声を発しなくなったのは、少年に剣を振るわせる手助けになった。
しかし今となっては、囚人が声を取り戻しても少年は躊躇したりはしなくなっていた。
「やぁ――っ!!」
訓練を続けているうちに、気合いを入れて斬る事が高い効果を得られると知った少年の、これまでで最も強い一撃が囚人を襲った。
「ガ、アアアァアアァァ……!!」
呻き声とも悲鳴ともつかない囚人の一際大きな声が牢に響き渡った。剣の扱いに慣れてきた少年の一撃の威力は、ついに少女の癒しの力も追いつかない致命傷に達するまでに成長したのである。
――出来た、ついに出来た……!
少年の精神は、人を殺めてしまった罪悪感よりも、そこに至るまでにまで成長した達成感に包まれていた。
囚人の精神は、今の衝撃で奇跡的に回復した。身体が崩れ落ちる一方で、最期の瞬間に人間を取り戻した。
「……タ、ス……ケテ…………カ、ア……サ…………ン…………」
「……!!!」
その声は、少年の耳にも届いた。
――あれ……? 何で、こんなに悲しいんだろう……。
少年は、何故か目元に熱いものが溜まっているのを知覚した。悲しい事なんて何も無い筈なのに。
――何が足りないんだろう……。
少年は、自分の心の内に空虚の部分がある事に気付いた。光でも闇でもない、丸くて大きな穴が空いているイメージ。
――何が変わってしまったんだろう……。
ほんの少し前までとは、何かが違うような気がする。単なる違和感に過ぎないが、どうしても納得できない、今までと違う何か。
ガッ――。
思考がやや虚ろになったせいで、握っていた力が緩んで剣の切っ先が床に落ちた。
その音に反応して見やった少年の目に映ったのは、囚人の血を吸って汚れた刀身と骨肉を断って欠けた刃――。
――あぁ、そうだ……。
少年は、自分が抱いた違和感の当てを、少し前とは異なる部分を見つけた。
正確には、少年の精神核を守る心の闇が、当てを見つける事で空虚の部分を埋めようとした。
少年は返り血がこびりついた右手の甲で涙を拭った後、小さく呟いた。
「鍛冶屋に行かなきゃ……」

グラン暦760年初頭――ユグドラル大陸は、一見して平穏な空気に包まれていた。
だがそれが嵐の前の静けさである事など誰でも知っており、その当事者はその時に備えるべく、こうして戦力の増強に勤しんでいた。
春も、決戦の時も、遠からじ――。

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