「なっ……!」
 宰相ルーウィンの、ショックで締まりが悪くなった口元から涎が零れた。その次の瞬間には我に返り慌ててすすり直したのだが、組み合わせを操作してまでオーギュストにぶつけたツァイアまでもが敗れたという事実は、彼を放心までに追い込んだ。
 ルーウィンにとって、今の一戦で被った被害は計り知れない。
 まず、騎士階級の有望株であるツァイアを破ったことで、オーギュストを応援する民衆の声は一層大きなものになった。先程までは『特徴のない、面白みに欠ける剣筋』であったのが、『多芸を必要としない王道の剣』に昇格してしまったのだ。同じ物事であっても、それを見る目が好意的か否かで評価が大きく変わる典型のようなものであった。
 事実、淡々とした剣でツァイアを破ったオーギュストの技量は極めて高いものなのだろう、それに気付いた観衆は彼がさらに勝ち進むことを予想し始めた。
 もう一つ、オーギュストが(誰の子かはともかく)開拓民であることが、同じ階級である民衆の支持を自動的に取り付けた。アグスティ王国はおおむね平穏であり、民にとってこれと言った不平不満はない。しかしそれでも市民階級が騎士や貴族を打ち倒すという構図には自然と熱狂してまうものなのである。
 これで溜飲を下げてくれるのならまだいいのだが、たまにこういうことがあると調子に乗りやすいのが民というものである。アグスティがささやかながらも抱えている民とのトラブルの種について、今後の彼らが強気になるのは目に見えている。開拓民オーギュストの勝利によって民衆が無駄に勇気づけられるのは、国政を預かる宰相ルーウィンにとって痛手もいいところなのだ。
 挙げ句の果て、またもや面目を潰された貴族たちから理不尽な不興を買いかねなかった。後見人のみならずツァイアの実力を買っていた全ての貴族たちは、こんな段階で敗退してしまうとは思いもよらなかったであろう。ルーウィンの打つ手が早かったおかげでオーギュストと激突したのが作為的であったことは看破されなかったのだが、そういう趣旨の言いがかりをつけてくる可能性は充分に考えられる。発言力が大きければ言いがかりも真実になりかねない。
 さらに、今後のオーギュストの快進撃を止める手段がなくなってしまった。ツァイアが敗れたとなると、オーギュストを止められるのは優勝候補として名を連ねそうな者たちしかいない。しかしそんな彼を矢継ぎ早にオーギュストにぶつければ、残りの試合が面白みに欠けたものになり、運営責任者であるルーウィンは株を下げるばかりである。そもそも組み合わせの『調整』を次々と行って不正が発覚すれば元も子もない。よって、オーギュストを止め得る有力者を当てるのはしばらく控えざるを得なく、快進撃がさらに続くのが確定してしまった。
 となれば、グレアム伯の野心がさらに色濃くなることになり、ルーウィンにとっては踏んだり蹴ったりもいいところである。非合法ギルドの胴元たちの、番狂わせ連発のおかげで止まらない笑いなど、たとえ届いたとしても宰相には慰めにも祝福にもなりはしないだろう。
 しかし、だからといって思考が停止したりしないのが、まがりなりにも宰相位に就いて10年目を迎える政治家である。すぐさま対策が打てないのであれば、その先で効果を発しそうな策を練り始めた。ツァイア戦が破られた戦線に例えるのならば、ルーウィンが思考に入っているのは言わば新たな防衛線の構築である。悲観的な性格のおかげか、オーギュストを止めるために張られた新たな防衛ラインは、かなり後方に位置するものとなった。
 そして思いついた策は、かなりの度胸を伴った腹芸を必要とするものであった。やや気が小さいルーウィンにとっては苦手な分野であったが、これよりも確実な一手が浮かばなかったので、やむなく採用に至った。
 ただ、本来なら台詞の準備でもしておきたいところであるが、運営責任者にそんな余暇などない。10年ぶりの開催ということでノウハウは薄れ気味であり、陣頭指揮なしで勝手に進んでくれるほど皆は熟知していないのだ。

 せっかくの策を抱えながら準備不足に陥りそうな宰相とは対照的に、グレアム伯は笑いが止まらなかった。
 オーギュストとツァイアとの一戦を迎える際はさすがに不安にもなったが、蓋を開けてみれば王子の完勝であった。今のを鑑みれば、オーギュストの快進撃は止まりそうにないことを完全に確信するに充分であった。
 グレアム個人の環境にも変化が表れ始めた。
 オーギュストの強さは、後見するグレアムの評価に繋がる。直接対決で敗れた騎士を後見する貴族から逆恨みを買うことはあるが、それ以外からは人材発掘の妙を称えられた。今の一戦の直後から、グレアムの周囲には好意的な中流貴族が集まり始めていた。もっとも、彼らはオーギュストをただの貧しい開拓民あるいは騎士階級の遠縁としか想像していなかったので、この層の支持を取り付けてもグレアムは喜びはしなかった。
「オーギュスト殿を紹介してくださらんか」
 一方で、親しくなくとも、先行投資を考えて近付いて来る者もいる。しかしグレアムはこの者たちもまた眼中に無かった。
 ここまで勝ち上がれば、オーギュストが只者ではなくとも驚きはしないだろう。傭兵でもない開拓民に剣が扱えるわけなく、高貴の血が流れているから、という仮説に及ぶのはありえない話ではない。
 ただ、彼らの言う『やんごとなき御方』に先王ゼセルが含んでいるはずがなかった。アグスティ王国の枠内でいかに勢力を伸ばすかしか考えないささやかな人間に、王国そのものがひっくり返る話など想像できるはずがない。グレアムにとって、最後の最後に尻込みしかねない者たちに、野心を分け与える気など毛頭なく、今は剣に集中したいから、と言っている――と適当なことを並べて追い払った。
 結局のところ、グレアムにとって今は味方に引き込みたい者などいやしないのである。もしもグレアムと同じくアグスティの転覆をも辞さない野心家がいたとすれば、それは『権力を山分けする相手』であり、オーギュストを押し立てて権力を独占しようとするグレアムにとって最も邪魔な相手である。
 グレアムが信じるのは、オーギュストの剣と聖痕だけである。あと数回の勝利、それで舞台は整う。
 

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