名前はとうの昔に捨てた。
 歴史の表舞台から姿を消した時点からその名が煩わしくなったのが主たる理由であるが、今では確固たる意味がある。
 ……人には、名前など必要がない。
 世界レベルで物事を見たとき、人は全て名も無き者である。そういった無数の人間の営みが世界を形作っている。しかし、人間個人が光を発することはない。
 これが物語であれば、どこかの誰かをクローズアップすることはあり、注目された人物は識別のために名前を必要とされる。しかし、ただ世界を眺めるだけでは誰かが特定の存在と成り得はしないのだ。
 しかし、今のユグドラル大陸には、例外とも言える特別な階級が存在する。神の一族として座り君臨することができる12の椅子。彼らは人間の形はしていても、世界的には基本的に無記名にならざるを得ない人間とは本質的に異なっていた。
 人間の頂点はあくまで人間であるべきで、神の代行者面をした者が無条件で君臨するのは人間界のシステムとして正しくない。神が直接統治するのならばまだしも、血を受け継いだだけの数代後の子孫にまで神格が与えられてはならないのだ。
「聖戦士がいない世界を作ってしまえ」
 一瞬の交錯でしかなかった、煩わしき運命の人に授けられた夢。
 この矢は、世界を作り直す光輝。
 人としての才能と努力と、知恵と勇気と、その他様々なものを駆使して営んでこそ人間。人間が持つべき"力"とは、そういったものだ。
 そんな崇高なものを血脈のみで押さえつける聖戦士は、滅びなければならない。

「はっはは、やはり珍しいか。バーハラでもこれだけ人が集まるのは稀だからな」
 一方で、名も無き暗殺者に狙われた当のブルームは、アルスターでパレードを挙行している真っ最中であった。妹エスニャがアルスター王妃として王女を出産した記念である。
 本来ならば兄とはいえブルームがパレードの主役になるのは筋が違うのだが、いかなる慶事も主家の栄光に還元させるのはグランベルの伝統的手法であった。あのときはバーハラ王家に対してであったが、アルスターの慶事となれば北トラキア連合王国を統括するフリージ家がその役を担うわけである。
 開放感のある馬車に鎮座するブルームの腕の中には、小さな男の子がパレードに参列する人の数に面食らっていた。ブルームの子でフリージ家の公子であるイシュトーである。
 イシュトーは生まれてからグランベル本国から出たことはなかったが、今回、初めて北トラキアの地を踏んだ。城の外に出ること自体が稀であり、しかもフリージとは一風変わった街づくりとこの人の群である、刺激にならないはずがなかった。困惑しながらもしきりに世界を見渡して好奇心を満たしていた。
 フリージ家は、一族内で慶事があれば総出で祝う習慣がある。悪魔の血を受け継ぐフリージの人間にとって、精神の支えのためには家族の絆は絶対に疎かにできないからである。近くのコノートにいたブルームはもちろん、イシュトーがフリージからはるばる駆けつけたのもそれゆえであった。本来ならばヒルダやイシュタルもこの馬車に乗っているはずであったが、帝都バーハラでユリウス皇太子が高熱を発し、見舞いに訪れたイシュタルの手を離そうとしないので断念された。唯一無二の主家バーハラの皇太子にそこまで望まれれば無下にできないし、それに今後の宮廷工作を考えればイシュタルがユリウスの支えとなるのは好ましい限りであったからだ。
「……!」
 イシュトーが、物珍しい風景の奥に一つの光を見つけた。
「ち……」
 無意識ゆえか力強く裾を引っ張った力は、父親の身体を僅かに傾かせた。
----ドシュ!
「……!」
「…………!」
 華やかなパレードが、時が凍ったように止まった。
「へ、陛下ーッ!」
 誰かの声が号令となり、時はまた動き出した。一瞬の停止の間にせき止められていた様々なものが一気に解放され、一帯は大混乱に陥った。
「ちちうえ、ちちうえー!」
 裾を引っ張ったのが幸いしたのか、矢は急所を僅かに外していた。しかし死の概念が薄いイシュトーにとっては痛みに震える父の姿の方が心を打った。もともとは心穏やかな子であったイシュトーであったが、父思いの心は復讐心に裏返ることになった。
「……! …!! ……!」
 何と絶叫したのか本人の記憶にない。無我夢中で、あの光の出所を、父に大怪我を負わせた矢を放った者に向けて力を解放した。
 ……その瞬間、イシュトーの周辺の世界が冥くなった。
 
 グラン暦764年、ブルーム王暗殺未遂事件。
 その実行犯が誰であったかは最後まで明らかにならなかった。狙撃地点はすぐに特定されたが、討伐隊が駆けつけたときには判別不可能となった黒焦げの死体が転がっていたからである。遺留品とこの地点からの狙撃の難易度から、犯人が希有の弓使いであることまでは弾き出すことができたが、そこから先はどうにもならなかった。
 だが一国の王が暗殺されかけたのである、誰の仕業か分かりませんでしたでは済まされるはずがない。何としてでも犯人を洗い出さなければならない。実行犯が駄目ならその背後で糸を引いている勢力でもいい。
 この一件で割を食ったのは、現在逃亡中のリーフ王子の勢力であった。
 ブルームがアルスターでパレードを挙行する情報は入手していたが、暗殺の計画まではしなかった。リーフの年齢を考えれば、仮にブルーム暗殺に成功しても解放戦争を起こすには幼過ぎたからである。
 なので、今回は全くの無関係であったのだが、実際に事件が起こってしまうとそうも言っていられなくなった。普通に考えて、ブルームの命を狙いそうな勢力といえばリーフしか思い当たらないからであった。当の本人ですらそれしか思いつかないのだから、ブルームがリーフをやり玉に挙げるのは目に見えている。
「……どうしましょう?」
 さらに、現在の居場所がまた間が悪かった。
 レンスター城から脱出して落ち延びた先、つまり現在の身元引受人は、目の前で鷹揚に首をかしげる女性、アルスター王妃エスニャであった。
 エスニャはシグルド軍に参加していた姉ティルテュの身を案じ、単身シレジアに渡った。そのまま大内戦が終わり、姉と共にシレジアに留まっているところを侵攻してきたグランベル軍によって連れ戻された。そのままアルスター王家に輿入れして王妃となっていた。そういった成り行き上、シグルド軍の指揮官とは若干の面識があった。
「さて、また逃げるとするか。世話になったな」
 本来ならばそれだけの義理でリーフを抱え込みなどできないのだが、リーフ一行にいた一人の傭兵がどういうわけか大陸中の王妃・王女クラスに対して顔が利き、どういう交渉をしたのかエスニャもまた危険を顧みずリーフの保護を受け入れてくれた。
 だが、事こうなるとさすがに出て行かざるを得ない。逃亡中の身では長期間の滞在は難しく、転々とするのは仕方がない。次の落ち着き先を求めてまた流浪の旅をしなければならない。
 
 九死に一生を得たブルームだったが、エスニャがリーフを匿っていることが明らかになると今度は心痛に悩まされた。
 コノートやレンスターで起こった事件ならまだしも、アルスターで起こった以上はアルスター王家の責任を問わざるを得ない。ましてやリーフを匿っていてそのお膝元での暗殺未遂である、いくら未遂とは言えエスニャに"兄殺し"の嫌疑をかけないわけにはいかなかったのである。
 やむなく、追求の手をエスニャの夫であるエイン王に伸ばすことで妹と自分の負担を軽減した。兄妹の情愛もあったが、フリージ家の中で内紛が発生したなどと広められてはたまったものではないから、政治的な意味でも外部の者をやり玉に挙げるしかなかったのだ。最終的にアルスター王家は取り潰しとなり、北トラキアは旧四王国全てが姿を消すことになる。北トラキアを支配するフリージ王家にとっては都合のいい部分もあったが、今回の一件でフリージ家が評価を下げたのは間違いないなかった。バーハラに次ぐグランベルNo.2の地位が揺るがなかった頃から比べて一諸公と肩を並べる方が近いまでの転落を余儀なくされ、本国のフリージ公家を預かるヒルダは重い負担を背負うことになった。
 捕縛処刑できれば失った信用も取り戻せたのだが、肝心のリーフ王子はまたしても捕らえることができなかった。ブルームがエスニャを拷問にかけることができなかったのは原因の一つであったが、姿を晦ます事ができるだけの土壌が北トラキアにあるとも言えた。いざとなればリーフを隠してしまうだけの潜在的反逆者が無数に存在することであり、今後の統治方針に影響を与える一因ともなった。

 そして真の仕掛け人であるレィムは、拠点に戻るといきなり隠棲を宣言して周囲を驚かせた。代行者レィムの功績をよく知る教会は引き留めたものの、レィムは耳を貸さなかった。代わりに、大司教マンフロイを復帰させることを条件に出した。
  レィムは代行者なのだから、大司教が復帰すれば役を明け渡すのは筋ではある。しかし、なぜ今更になってなのか見当もつかなかった。本来ならばもっと早くに復帰できたからである。
  マンフロイが死を回避するために自らにかけた石化魔法は解くのが難しい代物であり、これを解呪する"キア"の杖は大司教クラスにしか使えない高位魔法である。大司教であるマンフロイ本人は使える状態ではなく、杖の持ち主は彼の娘、つまりレィムの妻に移っていた。ただ、間が悪いのを嘆くべきか慶事を喜ぶべきか、マンフロイの生命力が回復して解呪しても問題なくなったときにはその娘が妊娠中であり、9歳年下の夫は身体への影響を考慮して義父の蘇生を拒否していた。
  そして待望の娘である長女サラが誕生したあとも拒否の姿勢は変わらなかった。産後の肥立ちが悪くやや身体が弱い妻を気遣ってのことなのだろうが、教会のことを考えれば多少の無理はしてでも大司教の復帰を優先させるべきであるという声も挙がっていた。レィムはその意見をやんわりと封殺してきたが、声の方が理に適っていた。そもそもこの結婚自体が、マンフロイが後継者の指名代わりにレィムを婿に迎えたものであったのだから、レィムにとって家族とは教会の利益と繋がっていることになるからだ。
  隠棲理由については多くを語らなかった。最初は本当に何も言わなかったが、猛烈な引き留め工作に嫌気が差したのか「研究に没頭したい」とだけ零して自室に引き籠もってしまった。結局、この件に関しては大司教マンフロイに任せるということで保留気味に認められた。引き籠もったとは言っても書庫には姿を見せるので意思の疎通にそこまで問題がなかったからでもあった。
 学者志望であるレィムにとって、代行者として陣頭指揮を担っている間はライフワークを封印している状態でもあったから、知識欲が溢れ返るのは無理もないことかもしれない。しかし、なぜこのタイミングなのか誰にも見当がつかなかった。

「……」
 実は、この暗殺未遂事件で最も被害を被ったのがレィムなのであった。
 フリージ家の足を引っ張るという目的は達した。地位を落とさせればいいのだから、暗殺そのものは成功する必要性はなかった。未遂とは言え事件が発生しただけでもフリージ家は大きく株を下げ、その罪をリーフ王子になすりつけるのも計画通りだったので何ら落ち度はなかった。つまりロプト教会としては大成功を収めたと言っていい。
 問題は、レィム個人が受けた影響であった。
 名も無き暗殺者は、その弓の腕前で(急所は外したが)ブルームの狙撃に成功した。しかし、二撃目をつがえた時にイシュトーの力によって葬られた。
 あれが世に言う"フリージの怒り"だとするならば、イシュトーに悪魔の力が宿っておりあのときに覚醒したことになる。噂が正しければ、フリージ家は雷魔法トールハンマーと悪魔の血の両方を受け継いでいることになり、今回もそれ所以であろう。
 ところが、イシュトーはトールハンマーの継承者ではない。神器はイシュタルが受け継いだのだ。ここで一つの矛盾が発生した。イシュトーは兄であるにも関わらず、トールハンマーを継承できなかった点である。
 調べてみると、フリージ家に双子が生まれたケースは初めてである。歴代のフリージ家当主は神器と悪魔の血の両方を受け継いできたが、今回は双子と言う事で片方づつ分け与えられたという仮説を立てる事ができる。この血が分かれた仮説が正しいとするならば、導き出される結論はレィムの器を超越していた。
『フリージの悪魔の血は、聖戦士としての神の血に優先する』
 イシュトーとイシュタル、双子の兄妹。兄は悪魔を、妹は神の血を宿した。これは悪魔が神よりも高位の存在だという証明となる。
 ユグドラル大陸は神が統治する世界である。現在は十二聖戦士の末裔が、かつては暗黒神ロプトウスが治めていた。さらにその前のグラン共和国時代はいざ知らず、とにかくユグドラルは神こそが絶対真理の一つであったのだ。
 ところが、イシュトーの存在はその真理を根底からひっくり返してしまったのだ。ピラミッドの頂点に立っている聖戦士のさらに上に君臨するものが存在すると言うことは、聖戦士の末裔が治める今のユグドラル大陸の基本システムを否定することになる。神の血を宿している事を根拠に治めているのだから、それに優先するものが存在すればその根拠を失うことになる。
 ロプト教徒にとって十二聖戦士など知ったことではないが、ロプトウスもまた神であり、その意味で十二聖戦士と同じである。暗黒神であっても神には違いはなく、混同されがちだが悪魔とは全く別の存在である。その悪魔よりも劣等、あるいは同格であったとしてもロプトの教義は崩壊する。教義上、人間はもちろん森羅万象全てを包括する存在でなければならないロプトウスには、聖戦士以上に絶対性が要求される。御子ユリウスの絶対性のために皇帝の権威面での打倒を画策しているロプト教会であるが、そんなものとは比べようもないぐらい大きな部分で難敵が登場したことになる。イシュトーと言う幼子一人によって、ロプトウスは唯一無二の存在から引きずり降ろされたのだ。単なる高位神では教義が成り立たず、異端であるエッダ派が唱える根拠になってしまう。ヴェルダンの民衆蜂起の際に征伐した以上、エッダ派の教義は未来永劫で異端でなければならない。となれば意地でも全能でなければならないが、悪魔の血の登場によってそうもいかなくなった。
 これに気付いたのはレィム一人だけであったから現状では教会には不都合は現れていない。潜伏期間中は解決までの猶予期間である、気付いてしまったレィムは何らかの手を打たねばならない使命を背負った。
「……」
 シグルド公子ならばどうしただろうか----ふとそんな考えがレィムの頭に浮かんだ。
 グランベル人でありながら周辺諸国の王子王女を多数引き連れ、なおも絶対的存在として世界最強の軍隊を作り上げた希有な人。もしも、あの軍に神や悪魔が加わったとするならば、シグルドはどんな使い方をしたのだろうか。自らよりも高位の存在を幕下に加え従えながら、なおも絶対的な存在であり続けることができたのだろうか。
 故人となっては、証明しようがない。信奉者であるレィムは可能だと信じているが、どうすればいいのかは全く見えて来ない。ロプト教の存在意義を揺るがす命題について、シグルドが出すであろう答が何よりの救済の一手となるであろう。レィムは、それをシグルドに成り代わって弾き出さなければならないのだ。
 代行者と兼業では無理があると悟り、元の一学者に戻ることを選んだ。
 書庫に並ぶ資料だけでは、シグルドの精神世界に到達することはできない。よりシグルドに近付くためには、もっとシグルドを知り、シグルドに成りきらなければならない。言葉の前に間を挟むのだけ真似したのでは不充分すぎるのだ。あらゆる手段を講じてでもシグルドと一体にならなければならないのだ。
 その手段が無いわけではない。ロプトの遺失技術に不可能は無い。ただ、これを行うならば下ごしらえのために世界を混沌に叩き込む必要がある。ユリウスが皇太子である以上、ロプト帝国の復興のためにはグランベル帝国には磐石であった方が都合が良かったのだが、そうも言っていられない。
 それでも、やらなければならないのだ。ロプトウスが世界の揺るぎなき中枢であるためには、避けて通れないのだ。ロプトはシグルドを欲しており、そのシグルドを最も知るのは自分である。そして自分のシグルドとの同化が足りないのならば、何としてでも満たさなければならない。

 "黒い聖書"----大司教ガレ直筆のロプトの聖書、言わばロプト教会の門外不出の秘宝。この封印を解くことから始めなければならない。不文律ではあるが、これに手を出せば火あぶりは間違いない。ならば、背教者の汚名をかぶってまで奪取するか、あるいは現在の大司教マンフロイを操って封印を解かせるか。
 世界は、禁断の時代を迎えようとしていた……。

(第7章・完)

Index