トラキア王国は貧しい。それは誰でも知っている。
 しかしそれが百年も続けば、いい加減に何とかならないものかと不平不満を覚えるのは仕方がないだろう。
 であるにも関わらずこの国は政治的混乱とは無縁であった。権力を掌中に収めてもどうしようもないぐらいに貧しい国だからという寂しい理由だからだ。
 野心がまったく刺激されないという理由以外に、トラキアの民を押し止めるものがあった。王家の存在である。
 歴代の王である竜騎士ダインの末裔たちは武断の人ばかりで、お世辞にも内政能力が高いとは言えなかった。しかしそれでも「皆の暮らしを良くするためにどうすべきか」と悩み続けていたことを、国民はよく知っていた。だから、一向に成果が挙がらなくても不平を漏らすことはなかった。
 政策一つ行うにも金がかかる。豊かにするためのものでも、失敗すれば余計に首を絞めるだけに終わる。トラキア王国の政治とは、全てギャンブルなのである。そして博打とはやればやるほど損益を出すものであり、精力的な国王ほど深みに嵌まるのがこの国なのだ。
 ちなみに最大の儲けは、希代の山師イウソーの助言に従って行った鉱山開発で、現在では数少ない外貨の獲得手段としてトラキアを支えている。ただこの国の技術では完全には精製しきれず、価値はそれほど高くない。事業を拡大するほどの余力まではないため、この状況は今でも改善されていない。
 なお山師イウソーは、せっかくの宝の山なのに細々と採掘されるのが気に入らなかったらしく、国王の臆病さと目の冥さを非難して追放されてしまう。「トラキアにはありとあらゆる金銀鉱石が無尽蔵に眠っている」という彼の眼は、ついに証明されぬままに本人は世を去ることになる。しかも現在ではこの説について否定的な意見が多く、多くの鉱脈を発見しユグドラルの経済に貢献したはずの山師イウソーは、哀れなことに法螺吹き者扱いされている。
 最大の成功例がこれなのであるから、もがいて逆に絶望を知ったケースの方が遥かに多いことは想像に難くない。そして、内政では如何ともし難いと悟れば、外征で解決しようとするのは武断の人にとって当然の帰結であろう。
 戦争は政策を行うよりも遥かに金がかかる。人的資源の浪費でもあるために生産の低下を考えれば、外征一回分の損失は計り知れない。しかしそれでもトラキアが数多くの北部進攻を敢行したのは、それ以外に解決の手段はないと言う絶望と、そこから覗く光明への希望であった。
 略奪気分で攻め込めるほど楽な相手でもなく、使命を考えれば軽い気分で戦争できるものではない。よって北トラキアへの進攻は、いつも国家の命運を賭けた大勝負ばかりとなる。
 そしてこれまでその勝負に一度も勝てなかったため、さすがにトラキアの民も精根尽き果てようとしていた。土地柄、忍耐力は鍛えられていても無限地獄に陥れば限界も訪れる。 そんな過酷な条件下に生まれ育てば、人は誰しもすさんだ人格が形成されてしまう。誇りというものは、ある程度の物質的余裕がなければ持ち得ないものなのだ。
 現国王トラバントが即位したときも、状況は一向に好転しておらず光明すら見えていなかった。彼は様々な政策を行ったが、これまでの例に洩れず、決定的な効果を挙げる事はなく、逆にその予算の分だけ財政を圧迫することになった。そしてついには騎士団の維持費すら捻出できなくなり、解散せざるを得なくなった。大陸最強とも言われる竜騎士達は、崇高な使命ではなく明日の生計のために傭兵に身を落として戦い日銭を稼ぐ羽目になった。
 ところが、このトラキアのあまりな風体ぶりが、思わぬ幸運を呼ぶ事になる。
 グラン暦757年、イザーク王国のダーナ襲撃とグランベルの東方遠征、その留守を狙ったヴェルダン王国の侵入。グランベルを中心とした大乱世の到来は、大陸中の傭兵に特需をもたらせた。この混沌した勢力争いから抜きんでようと、各地の勢力者は戦力増強に出た。その手っとり早い方法が傭兵であり、平和時に貯め込んだ備蓄を掻き出して彼らを集めた。
 中でもトラキアの傭兵たちは重宝がられた。元・騎士であるから充分な訓練を受けておりしかも礼儀正しく規律に厳しいため、雇い主にとっては戦力として期待できる上にトラブルが少ない傭兵と言うものはありがたい限りであった。
 戦火が国土に及ぶ事もなくただ利潤だけを手に入れる事ができた乱世のおかげで、トラキア王国は多額の外貨を獲得した。この思わぬ臨時収入は財政を大いに潤わせることになった。
 しかし、国家としての歳入と経済の活性化は別の話である。例えばこれを全て食料に換えればしばらくは餓死の心配はないが、状況の根本的な解決にはならない。この資金をテコにトラキアを恒久的に豊かにするのが、国王トラバントの使命であった。
 内政か外征か――手段は違っても目的は同じ。ただ、やはり武断の人であるトラバントは後者を選択した。失敗したときの物質と精神の消耗を考えればリスクは高かったが、国王はそれでも賭けに出る事を選んだ。
 奇襲によってキュアンを討ち、傭兵稼業によって獲得した外貨で装備を整え、北トラキアがグランベルとの関係が危うくなりその堰から溢れそうになるまで時を待った。
 そしてグラン暦762年、ついに機は熟した――

 ミーズ城――
 赤くない朝。太陽が山脈から顔を出してトラキアに朝がもたらされた瞬間、その表情は既に白い。この国しか知らない者の多くは、あの太陽が、山の壁の裏側で日に二度も頬を赤らめていることを知らぬまま死ぬ。
 激しい気候に晒されて奇怪な形に削り取られた無数の岩山。人々はその空を舞う飛竜を神の化身と奉じ、心の拠り所としてきた。それを乗騎として駆り大空へと舞い上がる竜騎士は、トラキアの大地に課せられた運命を受け入れたはずである。しかし黒い飛竜を駆る国王は、神に逆らってでも王としての責務を優先しようとした。
 全ては、民のために。
「国王陛下臨場、部隊整っ!」
 この朝、トラキア王国軍は史上最後の外征に発つ。この戦をもって北部を奪回し、実りのある田畑を手にする。大量の死者と悲劇を生む戦争の理由としては、あまりに取るに足らないものかもしれない。だが、たったそれだけのためにトラキア王国は百年もあがき続けたのだ。
「国王陛下に栄誉礼!」
 華々しい音ではない、ただ伝令としての機能美しかない楽器が武骨な音を立てた。輝かしい瞬間はあまり色好く彩られなかったが、その中での兵達の軍礼からは、これまでにない士気の高さが溢れ出ていた。
 今度こそ――
 これで最後としたいのは、兵も将も王も同じであった。無口な者が多いトラキアの民はその心を表に出したりはしないが、これまでの苦渋と今回の有利な状況は皆に勇気と期待とを沸かせていた。
 楽隊の演奏が終わり、軍列はまた整然とした形に戻った。
「国王陛下、訓示!」
 ガッ――
 国王トラバントが意外と演説好きであることはあまり知られていない。能弁なのはトラキア人らしからぬが、心を打つ演説の一つもできないようでは絶望下に置かれるトラキアの民を統率するのはできないのだ。
「……」
 天槍グングニルを手に壇上に登ったトラバントは、何を言い出す事もなく立っていた。ただ、グングニルを高く掲げて。
 白い朝日の光が、グングニルの穂先で反ねて瞬く。威容漂う意志の国王と、その先で輝く光――その姿は、トラキア王国とその未来を想像させた。
 トラバントが、ゆっくりとグングニルを回転させる。その穂先が、輝きを保ったまま白い弧を描く。
 それが円を描いた頃、トラバントが皆に背を向けた。兵達と同じく北に相対した。
「むん!」
 勢い良く、トラバントがグングニルを投じた。
 白い光は、槍となり矢となって軌跡を描き、目指すべき北の空へと消えて行った。その残照は、兵の脳裏にいつまでも輝き続けた。
「出陣!」
 内で高まりきった兵の士気は国王の一声で堰は切って落とされ、トラキア軍はグングニルの白い軌跡の後を追うように北へと雪崩れ始めた。身体の内側で渦巻く心の奔流は、大河となって北へと押し寄せた。
 トラキア王国史百年余の決着の朝。天はそれを祝うかのように快晴であった。兵士たちは、青空に北へと伸びる白い軌跡を見上げて駆けて行った。

 トラキアが来る――
 半島の北と南と、グランベルと。竜騎士の存在は、長い間の恐怖をもたらせていた。
 だが、これが最後となるのであろう。恒久の平穏か、悲願の達成か、大陸の統一か――トラキア半島の運命はこれから幾十日の間に定められる事になる。

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