グラン暦761年晩春――
 アルヴィスはついに戴冠式を挙げ、グランベル帝国初代皇帝アルヴィス1世の名でバーハラの玉座に座りなおした。
 グランベルの歴史において、前身のグラン時代を入れても帝政を敷くのは初めての事であり、言わばそれだけの快挙であった。中途、ロプト帝国と言うものが誕生し長い間存続していたが、口にするのも憚れるので皆はあえて実例の存在を挙げようとはしなかった。
 ただ、玉座の前でアルヴィスがエッダ最高司祭(空位のために代理)から王冠を授けられ王錫を手に玉座に座るのだけが戴冠式ではない。この喜びは民衆にも分け与えてやらねばならないからだ。
 別に民衆に祝ってほしいわけではなく、めでたい事として民衆が認識してくれれば自然と帝室への忠誠心が養われるという政治的配慮である。ただでさえ娯楽に飢えているのだから、史上唯一の機会とあっては大盤振る舞いもするべきである。
 とは言うものの、この時点でグランベル王国の国庫は完全に底をついていた。大内戦の傷が癒えない上にシレジアへと出征してその凱旋式を挙行したばかりである。豪勢な戴冠式にする余裕など国庫には残りはしなかった。
 無論、こんなことは準備段階から分かりきっていた事で、華美なものを好まないアルヴィスは、当初から「別に略式で構わん」と言っていた。本人がそういうのであればそれが通るべきなのであるが、760年暮れになって故・宰相レプトールの遺言状がフリージ城で発見され、開けてみると今後の政治・外交方針をはじめとして戴冠式についても事細かく遺していた。
「重税を課してでも豪勢にすべし」
 これが一種の比喩なのか本気で言っているのか意見が分かれたが、国庫も預かっていたレプトールなのだから空になっているのは承知のはず、という理論が勝利した。
 最終決済を行うアルヴィスとしては蹴る自由があったが、式典だけではなく政治や外交面の効果、重税を課せられた民衆の心理状況まで言及されては無視できなかった。故人の遺志、という状況も手伝ってレプトールが遺した案がそのまま採用される事になった。
 心配事はこの苦しい時期に重税を課せられる民衆であるが、大内戦の混乱が収まったばかりで余裕が無い民衆であっても、これに不平不満を唱える者は誰一人としていなかった。
「民衆は使い道が明らかな税には反対しない」というレプトールの読みは大当たりであった。しかもグランベルの民が待ち望んだ戴冠式のための税である、自分たちでもお役に立てると狂喜し、逆に先を競うように納めに現れたので役庁の方が対応しきれずに混乱すると言う逆転現象まで起きた。
 式典と言えば肩苦しいイメージがあるが、民衆にとっては一種の祭りである。凱旋式のようなパレードをはじめ様々な催しが行われてグランベル全体が沸き上がるものなのである。
 式典の目玉と言えば何と言ってもパレードである。バーハラの街並みを南北に走る大路を、眩い甲冑をまとった近衛騎士や情熱的な踊り子や周辺諸国でしか見られない珍しいものなどが進み、途上で菓子や金子がばら蒔かれるのとあっては、毎度の事であるが民衆達は一目見ようとこぞって押しかけた。凱旋式では出征先のものしかパレードの列になかったが、大陸に覇を唱える意味での戴冠式ではそれこそ大陸中のものが集められた。
 中でも先の凱旋式でも目を引いたシレジア産の天馬は、その美しさに誰もが見とれた。中には「この輝きこそが覇者の軍容じゃ!」と叫ぶ市井の学者がおり、彼は、天馬が主食とするシレジアにしか生えない苔の研究に打ち込むべく曲がった腰で走り去って行った。ちなみに、5年ほどの研究を経てグランベルでの栽培に成功し、彼の望み通りに天馬騎士隊はバーハラ近衛軍ヴァイスリッターに加えられた。そして皇帝の配慮でその閲兵式に立ち会うことが許された彼は、天馬が舞う姿に感激しあまりの喜びに打ち震えたせいかその場で大往生してしまった。
 そんな事例も今回に限ってはどこにでもある話が如く、皆は狂喜乱舞し、戴冠式は大成功を収めた。

 一方で、バーハラの王城内では別の催しが開かれていた。アルヴィスは周辺諸国の全ての王や元首を招待したのである。「覇を宣言するならば権勢を示すのもまた然り、出欠をもって今後の外交方針とすべし」というレプトールの遺言に従い、グランベルとの友好関係を無視して本当に全ての王や元首に招待状を送ったのである。
 とは言えいくら世界の中心であるバーハラと言えども、そこまで貴賓室の数があるわけではない。グランベル側が勝手に作った序列に漏れた者は、たとえ王であっても「普通」の部屋をあてがわれて密かに憤慨させることになりはしたが表面化する事はなかった。
 一同を介して過ごす夜は表面上の笑顔とその裏での打算が渦巻く、本心を隠しあった仮面舞踏会となった。その中で唯一自然体でいられたのは高みから見ていた皇帝アルヴィスと、無気力に過ごしていたシレジア王レヴィンだけであった。特にレヴィンは請われて笛を披露し拍手喝采を浴びたものの、その後に詰め寄る姫君たちのために詩を吟じる事も無く与えられた居室に戻って行った。
 結局、欠席したのは2名のみ、トラキア王トラバントとレンスター王カルフであった。トラキア半島を巡って火花を散らす数十年に渡っての宿敵同士が来ないと言う状況は、それだけ緊迫している証明であった。たびたび介入しているグランベルにとって、この結果は留意する必要がある。特に王太子キュアンの暴走でグランベルと敵対したレンスターは謝罪を兼ねて出席してくると踏んでいただけに、今後の外交方針は修正することになった。ただカルフ王は暗殺の危険性を恐れて自重したのだが、それが裏目に出てしまい、レンスター王国はその寿命を縮めることになった。
 
 祭りが終わると、熱が冷めるのを見計らったかのように新帝国の概要が明らかになった。
 頂点に皇帝アルヴィスが立ち、皇妃ディアドラ、皇太子にユリウスが立てられ、帝室を守るのは前身と同じく旧六公爵家とされた。ただ、大内戦で半壊した各公爵家はそれぞれ再編されて新たな体制が発表された。
 ドズル家はイザーク地方を与えられて新王朝を建国、ダナンはドズル朝イザーク王国の初代国王となった。それと同時にグランベル本国のドズル公爵家も残し、帝国公爵としての顔もまたそのまま残された。あくまで同列の国家ではないと言うグランベル側の意思の表れである。
 フリージ家はブルームが継いだが、巷の噂に上っていたアグストリア王に封じられる事はなかった。ドズル家と較べて不公平な人事であったが、当のブルームは納得していた。レプトールの遺言状が関係しているらしいとの噂が流れ、伏せられた理由とそれだけのとんでもない内容は近いうちに明らかになるだろうと目された。
 ユングヴィ家は僅か2歳のスコピオが跡を継ぎ、アルヴィスがヴェルトマー家を継いだ7歳の記録を更新した。当たり前だが政務に耐えられるわけがなく、他に近しい親族がいないために皇帝保護区としてスコピオの成人まで領地管理権は預かられる事になった。オーガヒル沖で難破して以来、ユングヴィ家は没落の一途を辿っておりその運命に対し同情と嘲笑とを浴びせられ続けたために、スコピオは父親と同じく根が暗い人間に育つ事になる。
 エッダ家は当主クロードが反逆者となった上に戦死し、さらに独身であったために大変な事になった。クロードには生き別れた妹がいたのだが、血眼になって探しても彼女あるいはその子はついに見つからず、エッダ家は断絶とされた。シグルド軍参加中に結婚あるいは私生児をもうけていた可能性もあるが、残党狩りで関係者があらかた処刑されたために明らかにはならなかった。結局、エッダ教会が合議制で統治すると言う形に落ち着いた。エッダ家はもともとエッダ教最高司祭を兼ねており、宗教色が強い地盤であったためにこの決定は民衆にもスンナリと受け入れられた。
 そして反逆者であるシアルフィ公家は領地没収とし、皇帝の生家であるヴェルトマー公家領と同じく皇帝直轄領となった。
 他にもミレトス、ヴェルダン、アグストリア、シレジア南部についても発表され、「問題がなければ現行通り」という指針に沿ってスムーズに改編は進められた。駐留の必要性がなくなった城の軍は撤退し、代わりに新たな領主が赴任すると言った修正程度の人事に留められ、おかげで多くの者は安堵したものだが、躍進を期待した一部の者は不満を抱く事になった。とは言うものの全員が満足する人事など存在するわけでもなくアルヴィスの手腕とレプトールの見識は高く評価された。

 人事以外にも新帝国誕生に合わせて様々なものが定められた。今まではグランベル国内に限定したもので良かったが、大陸中を包括する帝国を建国した以上は本国と地方でギャップがあれば修正する必要があった。通貨や度量衡は共通であるために苦労はなかったが、法律は各国で食い違うために修正の必要があった。グランベル王国のもので塗りつぶせば良かったのだが、皇帝の意向もあって新しい法が整備された。
 新法はアルヴィスの人となりをよく表して厳格なものであった。民衆にとってはやや肩苦しいほど、軽い犯罪にも厳罰が処されるよう定められた。大陸の隅々にまで公平な判断基準が行き渡るようにと曖昧な部分に対し明確な線引きが行われたからである。
 無論、これはあくまでもグランベル帝国の法律であり、現状で帝国領ではないシレジアやトラキア半島の諸国家が従う義務はない。とは言え、義務は無くても従わなくてはならないのがグランベルの影響力と言うものである。トラキア王国のように敵対していれば無視もするが、グランベルにいい顔をしなければならない弱小国家は従順を演じる必要がある。いきなり全面的に改正は不可能でも、無理がない部分は少しずつ受け入れていった。こうしてアルヴィスの法整備は大陸中に浸透する。
 ……ただ、今回の最大の目玉と言うべき改正に関しては周辺諸国はおろか帝国内でも受け入れ難いものがあった。「ロプト教の公認」である。
 今のユグドラルの民がロプト教を嫌悪するのに理由など無く、もはや生理的な話である。過去の行いが云々やその教えを受け継ぐがどうとか、反対意見を唱える際に理由を探し出す方が苦労するぐらい、ロプトを忌避する価値観は深層心理にまで根を張っていた。
 アルヴィスはグランベル人に限らず周辺地方の人材も積極的に登用する旨を打ち出しているが、その平等精神を基準とするならばロプト教徒であっても然りという理論になるが、そんな理屈で納得できるほど人間は理知的な生物ではない。
 しかし結局はアルヴィスの意向が勝つことになる。理由として、皇帝の意思は絶対であること、皇帝も皇妃もマイラ派の血族であること、そして最も反対するであろうと目されていたエッダ教会が何故かあっさりと陥落したという3点があった。
 一つ目は、やはり皇帝に逆らうことはできないのは当然である。特に、戴冠したばかりの皇帝に異論を唱えて押し切ってしまえば皇帝の権威が疑われることになる。アルヴィスが強硬に出てくれば受け入れるしかないという事情があった。
 二つ目は、アルヴィスとディアドラの共通の母シギュンがロプト教マイラ派の巫女であり、皇帝がロプト教徒の血脈を受け継いでいる以上、ロプトを迫害することは皇帝に石を投げることに等しいからである。
 そして三つ目だが、エッダ教会が出した結論は「皇帝皇妃両陛下の出自たるマイラ派はエッダ始祖マイラが教えを乞うた、エッダ教の言わば原典」というものであった。その意味で二つ目と重複する部分があるが、マイラ派以外のロプト教徒も現存しているかもしれない状況においてこの理由付けで納得するのは短絡的と言わざるを得ない。だがその裏では、エッダ公家領と言う具体的な領地が与えられた交換条件としてであり、積極的に支持する一部の司祭の存在があったのが真の理由である。
 もちろん、ロプト教の公認に際し「法に抵触しない範囲内で」と書き込まれたのは当然のことである。かつて生贄の慣習などがあっただけにこの条件付けは必須と言えた。とは言うものの、皇帝の公認があったとしても「根拠も無しに迫害することを禁ず」と定められても、民衆がロプト教徒を素直に受け入れられるわけはなく、黒いローブが街中を闊歩することはすぐにはなかった。見つけ次第火あぶりというのが無くなっただけで、言わば迫害が忌避に変わった程度に落ち着いた。

 ヴェルトマー城下、ロプト教会――
 そしてその当事者たちは、この内容に開いた口がふさがらなかった。皇帝となった覡アルヴィスが、本当に「公認」しかしなかったからである。
 確かにアルヴィスはロプト教の公認を条件にロプト教徒を影の戦力として起用した。しかしロプトの民達はその解釈が大きく異なっていたのだ。
 新帝国の国教となってかつての栄光を――はいくらなんでも夢見すぎだとしても、現在公認中のエッダ教のように大陸全土に教会や神殿があって、国家から保護されて――というぐらいは本気で期待していた。公認とはそういうものだとばかり思っていたのだ。
 しかし蓋を開けてみれば帝国の保護は生命の保証だけであり、ロプト教徒たちに与えられたのは「信教の自由」だけでしかなかった。
 期待が大きかった分だけ、落胆もまた然りである。アルヴィスの法整備を巡ってある者は落胆して信徒としての務めを放棄し、また烈しい者はそれ同士が集まって大論争を繰り広げた。皇帝兼覡の言うことでは仕方がないとする者や巫女を通して抗議しようと言う者もいれば、ロプトウスの化身ユリウスが生誕しているのだからマイラ派の皇帝なんぞ暗殺してしまえと暴論を吐く者まで現れた。しかし、大司教マンフロイを欠くロプト教徒たちではこの論戦をまとめきれず、憤慨しあうだけで具体的な結論は何一つ出なかった。
 そんな日々が続く中、冷静な者は相談のためにとある小さな木戸を叩き、その数は日を追うごとに増えていった。散らかった本と雑居している部屋の主は「……ならばダゴン様やユフィール様やバラン様に(以下省略)」と自分の身分を挙げて決まり文句を告げて断ろうとするも、今や一つの枕詞に成り下がっているのを自覚しているのか、結局は話を聞いてやっていた。
 もともと穏健派の彼は信教の自由で上等だと考えていたが、同胞を見続けていると自分の価値観ではロプト教徒の総意にはならないだろうと判断した。そして数日後、ついに終わりの見えない論戦の場に姿を現した。積極的な信徒に引っ張られての出席だったためにお決まりの断りを入れてから、彼は具体的提案で場をまとめ始めた。
「……ロプト教会はこれより方針を転換し、政治との癒着、政教一体化を主眼とします。宗教としての復権の望みが絶たれた以上、政治権力を持ってロプトを引き上げます。三司祭様は今回の人事を良しとしない中級貴族や地方領主たちへの接触を計ってください。……信徒の皆は支持を取り付けたところへと飛び、ロプトの技術・秘術を惜しむことなく注ぎ込んで協力、信用を得ること。……最終目標は皇帝を超える政治勢力を有して御子ユリウス様を擁立!」
 一気にまくし立てたレィムの声に、荒れ果てていた場は収まりかえった。普段の物静かな彼の印象との食い違いと、その口から出た具体的な野望にである。
 指導者と言うものはつまるところ組織の目標を設定する者である。「覡アルヴィスに協力し、彼を皇帝に押し上げてその功をもってロプト復権を果たす」という、大司教マンフロイが打ち立てた目標は失敗に終わり、本人の退場もあってロプト教会は目標無しの宙ぶらりんの状態になっていたのだ。直後のアクションしか討議せず、ロプト教会の方向性について棚上げしたまま論戦を繰り広げても無意味だと気付いた皆は、レィムの提案を受け入れた。
 身分的には最下層のレィムの声だが、アルヴィスへの献策も行う実績とマンフロイの娘婿と言う特別な地位も手伝って、ロプト教会はレィムの案をそのまま掲げた。これによってロプト教会は「政治権力を強化し、御子ユリウスを擁立して皇帝を打倒」という危険思想を掲げることになり、皆は当時の希望を取り戻して精力的に動き始めた。
「……」
 ところが、その張本人は自分の言ったことに後悔していた。
 学者と言うものは、客観的な判断を必要とするために物事に近付き過ぎてはいけない、言わば遠視的な人種である。
 小さな木戸の奥に引き籠もって本と一緒に暮らしていれば、彼は相変わらず個人としては穏健派のままで全体に対しては中道的な献策をしたであろう。ところが皆の前に立つと言う状態になると、彼は冷静な判断ができなくなってしまった。直接関わってしまったために、視野が一気に狭くなってしまったのだ。
 レィムは、人前が苦手である。彼が冷静なままで能力の全てを使い切れるのは静かな部屋に籠もって文字を書き連ね、その紙を提出するときだけであり、主観が混じるような状況下に陥ると制御力を失い知識だけが一人歩きしてしまうのだ。
 後で一人になると、自分が何であんなことを口走ってしまったのか理解に苦しんだ。冷静になって考えれば、皇帝打倒など暴論の極致である。
 翌日になって、レィムの手元には赤みを帯びた新しいローブが届けられた。ロプト教会はレィムをマンフロイの後を受ける指導者として認め、身分の昇格を決定したのだ。レィムは、責任が無い立場でしかも自由が利く今まで立場を気に入っていたのだが、自分の手で舵を握ってしまった以上はいつまでもローブの色が黒のままでは無理が生じてくる。結局は大きくて使い易い本棚の貸与を条件に居室の移動とローブの着替えを承諾した。
 彼の冷静な部分は、身分が高くなればより一層深く関わってしまうと警鐘を鳴らしていた。しかし日頃から木戸を叩いていた支持者たちは、この有識者がロプト中枢への階段を上っていくのを大いに歓迎し、それを直接見てしまったレィムはまたもや正常な判断を失って彼らの声に応えてしまった。
 ロプト教会は、その当事者たるレィムの本心が望まないままに再び機能しはじめた。一度は光を失いかけた同胞が新たな目標へ向かって精力的に動く様を見ていると、今さら違うとは言い出せなかった。「……皆が気付かないところで少しずつ向きを修正していこう」と密かに思うものの、昔と違って指導者として直接関わってしまうためにそんな思いはどこかへと姿を消してしまい、後になってそれに気付く悪循環が続くことになる。

 ある者は無気力になって全てを投げ出した。
 ある者は最悪の結果を恐れて深みに嵌まった。
 そしてある者は復讐と打倒を誓った。
 沸き上がる声の上に立った皇帝即位の影で、敗者たちはそれぞれの思いを胸に新しい時代へと足を踏み入れた。
 グランベル帝国。僅か16年間で幕を下ろす短命の帝国の船出は、後の運命を微塵も感じさせないぐらいに眩いばかりの光に満ちあふれていた。

(六章・完)

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