「うん、逃がして良かったと思うよ」
 微笑んだセリスは、事の重大さが全く分かっていない感じで了承した。
 独自の判断が主君の不興を買わずに済んだオイフェは安堵の息を漏らすべきなのであるが、説明も無しに納得するセリスを見ていると本当に意味が分かっているのかと不安も感じてしまう。
 
 フリージ公兼北トラキア連合王国国王ブルームが守っていたアルスター城。
 王を討つ絶好のチャンスであったが、オイフェはあえて完全包囲を解いてブルームの退却の可能性を残したまま攻めた。
 逃げ場を失って死に物狂いで戦われれば攻め手の被害も増えるからというのが理由の一つだろう。事実、ブルームは最後の一兵まで戦うというようなことはせず、コノートへの退却を選んだ。これによってこの地の支配者の首級を挙げるということはできなかった代わりに、比較的易しくアルスターを攻略することができた。
 だが、現在の解放軍の力であれば、玉砕覚悟で奮戦するブルームの首を獲ることはそこまで困難でなかったはずだ。勝利を得るための兵法から考えればオイフェの選択は正しいのだが、北トラキア解放の目的から考えれば親玉を討つ意味は大きい。勝利を優先したオイフェの判断が臆病に感じた兵士も多くいたことだろう。

「今トラキアにしゃしゃり出られるのはマズイ。ブルームをあえて討たなかったのは俺も正解だと思う」
 セリスと共にダーナ市に行っていたレヴィンも賛同の意を示した。
 ブルームを討てば北トラキアは少なからず混乱する。解放軍がブルームを討ってくれることを民衆が期待しているのは確かだが、北トラキアの西半分しか解放していない状態でブルームを討ってしまえば、残るコノートやマンスターで蜂起する可能性が高い。子供狩りをはじめとした圧制に耐えかねてきた民衆が、ブルームが死んだと聞いて解放軍が来てくれるまで大人しく待てるかとなるとそうもいかないだろう。嫌々仕えているフリージ将兵も多くいるとは言え、一方で本国から来ている譜代の者も少なからずおり、各地で衝突が起こることは避けられないだろう。
 となると解放軍は急いでコノートとマンスターを解放し、各地の混乱を鎮めなければならない。時間があればそれでも構わないのだが、今回はそれだけの余裕がない。
 もし北トラキアが混乱に見舞われれば、南の北トラキアが介入してくることは目に見えている。
 形式上、グランベル帝国とトラキア王国は同盟の関係である。帝国にとって反乱軍であるセリス軍が北トラキアに侵入し、ブルーム王まで殺された――となると、混乱を収める名目で出兵することは盟を破ることにならない。何しろイザークからダーナを経て北トラキアまで反乱軍に蹂躙されているというのに、帝国は未だに討伐軍を出していない。この状態でトラキアにセリス討伐を買って出られると、帝国は拒否できるだけの根拠がないのだ。
 トラキア王国にとって"北"を得ることは悲願。いくら同盟を結んでいるとは言え、機会を窺うことは疎かにしていなかったはずだ。ブルームを討てばトラキア軍は即座に北上を開始するだろう。解放軍がいくら神速で行軍したとしても、介入されるより早くコノートとマンスターを確保することは無理な話だ。解放軍にとっては奪回すれば済む話ではあるのだが、レヴィンにとっては息子セティを通しての政治工作が無意味になってしまう。
 故にトラキアを牽制する意味でブルームを逃がしたのは意味がある。もちろんブルームが生きている限り律儀に手は出さないほどトラキアもお人よしではないだろうが、北トラキアにフリージと解放軍と2勢力が残ればなかなか動けるものではない。
 三つ巴の戦いで勝つためには力押しだけでは難しい。2勢力による決戦であれば単純に正面からぶつかるのも構わないが、これが複数になると同盟・不戦・取引や謀略と言った要素が増えるわけで、それだけで戦端を開く踏ん切りがつきにくくなる。
 実は解放軍は以前からトラキア王国に対し内々で共同作戦を打診している。これは実際に手を結ぶつもりはなく単なる揺さぶりである。具体的効果は期待しておらず、言ってしまえば対応から情勢を探る様子見である。もちろん、トラキア側も駆け引きで何か煙に巻いてくることも考えられるが。

 セリスが投げやりな態度でどんどん承認していくので、軍議と呼べるほど紛糾することはなかったが、これからの方針は定められた。
 1つめはブルームはコノートで討ち取ること。マンスターが鎮圧されない限りはこれ以上の撤退先は無いのだが、もし山間部や海沿いの砦にでも逃げ込まれれでもされたら無駄な手間が増えるだけである。
 2つめはマンスターには援軍を送って確保し、トラキアの介入を阻止した後は一気呵成の追撃戦でミーズ城まで奪取することである。
 シグルド軍、そしてセリス率いる解放軍の強さは、いざというときの強行軍ができる点である。本来、戦場で切り結んで勝利した場合はそのまま突き進むことはない。撤退する敵を追うぐらいはするが深入りはしないものだ。単純にそこまでの準備が足りないからである。
 しかしシグルド軍もセリス軍も、いきなり大勝利を前提で戦に臨んでいる。となると、一回の勝利でどこまで戦果が挙げられるかが準備の妙になってくる。例えば今回の場合、アルスターから出撃してきたフリージ軍を破るとそのまま追撃しつつアルスター城まで押し寄せた。この閃光の進軍が短期間で広大な土地を奪取してきた秘訣である。
 3つめはリーフ軍とはまだ無理な合流はしないということである。
 軍の迅速かつ円滑な指揮系統の確立のために早いうちに組み込みたいと主張するオイフェ、レンスターの複雑な歴史と部隊戦力的にリーフ軍の立て直しにはしばらく時間がかかると見込むレヴィン、両者の意見が対立した。
 こればかりはどちらかを選ばなければならないセリスは二人の意見について無邪気に耳を傾け、どちらも同じぐらい頷いていた。どちらを選ぶのかと両者に迫られると、少し首を傾げながらにっこりと微笑んだ。
「んー、今のままでいいんじゃない? またすぐ出撃するんだし」
 これからの速戦速攻が必要とされる対ブルームと対トラキア戦であるから、リーフ軍と合流して再編成している暇は無い。ましてやリーフ軍はレンスター、解放軍主力はアルスターと現在の位置が分かれている。
 それは確かなのだが、オイフェが言いたかったことはそんな直近的な話ではなくこれから抱えかねない問題についてであった。つまりセリスはオイフェの意図を読み取れなかったのである。それが能力面ゆえなのか方向性の違いなのかあるいは意図的なものなのかは分からないが。
「どのみち今の俺たちにそんな時間は無い。組み込むにしてももう少し落ち着いてから考え直せばいいだろう」
 レヴィンがセリスの言に乗った。事態を保留する理由は真っ当なものだが、その本心まではそうではないだろう。時間稼ぎと言えば聞こえは悪いが、時間を稼いだ間に事態を動かす手段があれば話は別である。
 とは言え、表面的な部分をなぞればレヴィンの意見にこれ以上の反論はできない。内なる意図でレヴィンの狙いとセリスの判断は違いがあるのだが、そこまで踏み込んでしまうと収拾がつかなくなるのでオイフェは大人しく受け入れた。

 同日夜、オイフェ寝室――。
「……」
 話を引き延ばした以上は何か計画があるだろう。
 単純に正論を述べただけ可能性もあるにはあるが、それならセリスの判断を仰ぐ前に「余裕が無い」と反対すれば済む話だ。それをわざわざリーフ軍の立て直しとか色々挙げて合流を拒否するのには裏があると感じられる。
 レヴィンとリーフがどう繋がっているのかはオイフェの知らないところだ。セティ率いるレジスタンスの支援をリーフ軍が受けているのは聞いているが、それだけでリーフがレヴィンの影響下にあると言えるのだろうか? 何しろどう考えてもあのリーフ王子が恩義を感じて動くようなタイプには思えないからだ。「セティのオヤジなんか知るかボケ」と突っ撥ねられて終わる話ではないだろうか。
 レヴィンはリーフとの面識は無いだろうが、どういう人物なのかはセティを通じて聞いているはずだ。となると、リーフに対して直接の影響を及ぼそうとする意図は考えにくい。
 しかし今回の時間稼ぎ、さしあたって北トラキア解放までが精一杯だろう。ミーズ城まで雪崩れ込んだら一息つけるはずだからだ。ならばレヴィンが状況を動かそうとするならばやはりリーフ軍しか手駒は存在しないのだ。
 リーフ軍を影響下に置く用意がある、そしてリーフ個人は直接操作できない。ここから考えられるのは、あの細民王子の意思決定に干渉することができる誰かがレヴィンの指示で動いているという説だ。
「……」
 オイフェとレヴィンは水面下で凌ぎを削りあってきたが、オイフェにはこれと言った協力者がいない。軍議上では二人の意見が対立することは滅多に無いため、実は仲が悪いと気付いている者すらほとんどいないのが現状だ。セリスという名の理解者はレヴィンの干渉には気をつけるとも言っているが、無邪気な笑顔が零れる主君が駆け引きをやりそうには思えない。
 実のところレヴィンも打てる手は多くないのではとオイフェは思っていた。セリスを傀儡にして何かを企んでいることを外に漏らすことにメリットが存在しないからだ。仮に自分に邪心が無かったとしても、解放軍の中枢部に居る二人が反目しあっていることが明かになれば解放軍のイメージが大きく損なわれる。わざわざ軍と離れてまでセリスがダーナに立ち寄ったりしたのも、そのイメージの部分を強化しようとしたからだ。セリスに同行してダーナに赴いたレヴィンがそれを分からないはずが無い。セティがレジスタンスを率いているのがレヴィンによる工作の一環だとしても、それは息子ぐらいにしか打ち明けられない裏返しでもあったはずだ。
 しかしレヴィンにはこうして外部の協力者がいる。確証には至らないが可能性は高い。
 なりふり構っていられなくなったのか、事態を甘く見ているのか、その協力者がよほど口が堅い人物なのか。理由は分からないがとにかくリスクとメリットが釣り合わないのだ。それを承知の上でやるからには、レヴィンの最終目標が決して低くないからなのだろう。
 野望が大きくなれば大きくなるほどオイフェとの共存共栄は難しくなってくる。何がやりたいのか分からなくとも何かしら弊害があるには違いなく断固として阻止しなければならない。とは言え、ただでさえ軍の指揮で忙しいオイフェと、裏工作に秀でしかも協力者も使えるレヴィン。これでは話にならない。
 あの日イザークで聞いた"次"の青写真。親子二代で大陸全土を蹂躙して統一する行軍路……誰にも話すことがない、セリスとオイフェだけの内密の話。これを二人だけの会話にしてあるからセリスはオイフェを信頼して指揮を委ねているのだし、オイフェも精一杯応えられる。レヴィンに対抗して味方を増やそうとするならこの部分を伏せたままにできるとは思い難い。
 協力者は欲しい、しかし迂闊に話すことはできない。
 資格があるとすれば、多くを尋ねない盲目的に従ってくれるタイプ、あるいは打ち明けられても絶対に漏らさない極度に口が堅い人物だろう。欲を言うのならば、セリスまたはオイフェと秘密はもちろん運命をも共有してくれる女性だろう。
 協力者となり得るだけの聡明さがあり、他人に喋らず孤独の戦いを強いられても砕けない強い覇気と精神力。そしてグランベル王妃(あるいはオイフェの妻)となれるだけの気高い美しさをも兼ね備えている女性。
「……」
 そこまで条件付けて、知らず知らずにラケシスの姿が思い浮かび、深刻な表情のまま苦笑いするオイフェ。初恋とは生涯忘れられないものなのだろう。
 ラケシス本人はもういないが、彼女の幻影か残り香がこの大陸にいるはずだ。
 娘であるナンナではその任を負わせられない。母親と比べると肩を並べているのは容姿と気品だけという印象を受けた。いくら血を受け継いでいると言ってもこれは資質の問題であるし、渦中のリーフ軍にいるナンナに接触すればレヴィンに漏れてしまうし、リーフやフィンを刺激してしまう。
「確か……」
 誰にも束縛されない立場で、知名度抜群で、王侯貴族も舌を巻く見識と度量を兼ね備えた絶世の美女。それだけの逸材が解放軍に参加していた。
 まだ合流してから日が浅く、解放軍の中核を担わせるにはまだまだ経験不足だ。言い換えれば軍を指揮するオイフェならば訓練と称して接触してもおかしくはなく、レヴィンに気取られる危険性も低い。
「会ってみるか……」
 オイフェの人生において、今まで自分から女性に会いに行ったことはなかった。ラケシスのときはシグルドの近習として"ティータイム"の書記としてであり、むしろ思い焦がれる人が来てくれることを楽しみにしていた受身の格好だった。
 それが、自分から足を運ぶ。別に特別な感情があるわけでもなく、ともすれば主君の妃にもと選ぶわけだから筋が違う。あくまで協力者として抱き込むために会いに行くのだ――と意識すればするほど、夜に忍んで会いに行くという行為について、小さな小さな何かが胸の内を勢い良く転がる。
 着替えを済ませ、物音を殺しながらオイフェは部屋を出て行った。

 "光の皇子"が北トラキアに足を踏み入れ、解放戦争はいよいよ大陸全土に波及し始めた。
 誰かが明日の安寧を願い、誰かが勝利を模索する。
 そんな中、一組の男女が出会うことになった。オイフェとレイリア――大陸の趨勢を識り、世界の命運の一端を握ることになる二人である。

(反・聖戦の系譜 第11章 完)


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