「……そうか、ご苦労だった」
 シアルフィ城――。
 偉大なる皇帝は、この城で事実上の隠居生活を送っている。
 セリスの旗揚げとイザークの陥落について、報告の早馬が届きはした。しかし当事者であるはずの皇帝アルヴィスには、報告を受け取ってからのアクションがなかった。
 実権のほとんどを皇太子ユリウスに奪われ、このシアルフィへの移転を余儀なくされた皇帝。その冠はただの飾りに過ぎない。討伐の軍を送ることも、本国の守りを固めることも、ましてやそれをユリウスに指示することもできないのだ。
「……」
 理屈で分かっていても、精神や肉体はまだそれを受け入れてはいないようだ。
 激務に慣れてしまった身は、責務から解放されると途端に暇を持て余したのだ。

「陛下に何か趣味を持たせるんだ!」
 中庭で空を眺めるぐらいしかやることがない皇帝の姿を見て、シアルフィ城の側近たちは妙な運動を始めた。
 配下にしてみれば、空虚な主君ほど恐ろしいものではない。
 まず、モチベーションが低下すれば政務が滞る。皇帝としての実権はほとんど皇太子ユリウスに奪われてしまったものの、シアルフィに移ってからは領主としての役割を得た。治める範囲こそ狭くなったが、支配者が仕事を投げ出せば皆が困るのは同じである。
 一方で、余暇の埋め方にも問題がある。
 暇潰しと言うか単なる余興のために残虐行為を行った暴君は多い。これはもちろん本人の性格にもよるが、満足感を得られるために必要な容量が多いかどうかも関わってくる。
 アルヴィスの場合、グランベルの建て直しの使命を背負って皇帝に即位したのが15年前。ましてや夫君殿下がわざわざ戴冠したのである、その決意と情熱は並大抵のものではないはずだ。それが僅かな治世だけでこうして半ば隠居させられている。若くして帝王となった彼にとって、老け込むにはまだまだ早い年齢であるにも関わらず、だ。
 そんな皇帝にぽっかりと空いた虚な空間。英雄としての大きな器。
 その余暇の穴はとてつもなく大きいに違いない。この器をそのままにしておくならば、何かで埋めなければならない。埋めなければ遠からず萎んでしまうし、埋め方が悪ければ見た目そのままで中身が変質してしまうかもしれない。それが闇に染まれば暴君になるわけだが、器が大きい分だけその危険な素質も大きなものになるのである。
 だがアルヴィスはその空洞を自分から埋めようとはしない人物だった。
 ディアドラの死後、新たに皇妃を立てることはしなかった。もともとは夫君だったから他に側室をもうけるのに躊躇するのは筋が通るが、皇帝となり世継ぎも得た今となっては死者のディアドラにまで気を遣う理由はあまりない。神器による継承ができるユグドラルでは皇族の人数が増えることにさほど不都合もなく、広大な領土を治めるにはユリウスとユリアだけではむしろ不足と感じられていた。
 それでもアルヴィスは現在になっても新たな皇妃はもちろん側室すら必要としなかった。ディアドアを心底愛していたとするなら美談ではあるのだが、失われて心にできた空洞はどうにかして埋めてもらわなくてはならない。

 と言うわけで、何か無難な趣味にでも打ち込んでもらいたいわけであるが――
 この運動には、目付けとして送り込まれたユリウス派の者も賛同した。六公爵との政治闘争に充実感を感じていたのならば、今度は皇太子相手の政治闘争にのめり込もうとするかもしれないからだ。アルヴィスは実権を失っており覇気も衰えているが、裏を返せばまだ退位させることも殺すこともできない存在であり、皇太子派にとってはまだまだ脅威である。強気に出られて困るのはユリウスの方なのである。
 利害が一致し、珍しくシアルフィ城内に団結心が芽生えた。だが新たな趣味を見つけてもらおうとしても、皇帝の回答は極めて無碍なものであった。
「趣味? 無い」
 こういうとき、無愛想な主君ほど扱いにくいものはない。その一言で配下の期待を台無しにしてしまうのだからだ。アルヴィスは無念に打ち砕かれた配下の様子に気づいたが、心配してやると必死に抵抗して引き下がったので詳しい理由は分からなかった。
 もともと、アルヴィスには余暇をプライベートで過ごすという概念がなかった。7歳で公爵となって以来、六公爵家の冷たい政治的駆け引きを続けてきたのだから、ヴェルトマー公爵として一日の仕事が終わったからと言って休んでは後手を引くことになるからだ。ディアドラと一緒のときは努めて二人で過ごしていたが、それは彼女に気を遣ってのものであり自分のリラクゼーションのためではなかった。
 統治者の余暇のために民に気遣わせたくない、と言いそうなアルヴィスであるから狩りのような城外への遠出は勧められない。チェスなどはどうかと思いつけば、どう考えてもアルヴィスの相手になれるほどの実力者がいない。
 となれば、配下が芸術を勧めたのは合点がいくところだろう。室内でできるし、突き詰めようとすれば果てはない世界であるから長く続く。良い作品ができれば国の宝にもなる。芸術の世界にまではユリウスも干渉のしようがないという利点もある。
 だが、皇帝はこれを拒否した。絵画にしろ彫刻にしろ音楽にしろ、題材としたいものがないというのが理由らしい。他人には無関心を続けてきたアルヴィスであるからその理由には嘘偽りはないだろう。むしろ狂ったようにディアドラを描き続け彫り続け謡い続けられた方が困る。
 ではどうすればいいのか。
 民のためになる技術の研究をしてはどうか、という勧めもあっさりと退けられた。理由は明かさなかったが、どうやら技術開発はユリウスの疑心を招くかららしい。

「お願いでございます! 何か、何か余暇の過ごし方を考えてくだされ! お忍びで色街通いでも何でも構いませんから!」
 困り果てた配下は、半ば泣き落としで迫った。放っておいたら暴君になるかもしれないから趣味を持ってくだされ、と真実の事情を打ち明けるわけにいかない以上、泣き落としそのものには全く筋が通っていなかった。
 もちろん、女を買い漁れなどというこの台詞は額面通りではない。
 風紀には厳しいアルヴィスがそういったものを取り締まらないはずがなく、お膝元となったシアルフィにはもう存在していない(はずである)し、余興で残虐行為を行って暴政を振るうようになっても困る。配下の発言は皇帝はそうなってほしくない信頼の裏返しであろうか。
「……分かった。代わりに供はいらん。それでいいな?」
「ははーっ!」
 情状酌量といった妥協はしない性格のアルヴィスだが、こういう言い寄られ方をすると意外と無下にはしない人物である。真意の看破はできなかったが、どうしても趣味を持たせたいらしいという意図が間違った方向のものではないことは分かったからだ。
 とにかく何かする気にはなったようだ。それを明かそうとしないのはアルヴィスの性格によるものだろう、とりあえず配下たちは安堵した。暴君となるかどうか一抹の不安はあるが、これ以上の戦果は望めないだろうという考え方が話の落としどころとなった。
 そしてアルヴィスは律儀な性格だった。
 翌日から、領主としての政務を一通り終わらすと姿を消すようになり、朝日が昇るとちゃんとまた政務に戻っている。
 何をしているのか周囲は気になったが、仕事の怠りはまったくなく、むしろ充実した表情が伺えるようになったため深くは尋ねなかった。

 激しく動く鼓動がある。
 まったく動かなくなった時計もある。
 時そのものは平等に流れているはずなのに、世界の各地ではその感じ方がまだ異なっていた。
 セリスの動きは、まだその一挙手一投足が注目されていない証拠であろう。
 彼が時代の旗手となり、世界の中心となる日は来るのであろうか。トラキアに侵入したとき、何か変わるのかもしれない。
 世界はまだ、平穏とした毎日を過ごそうとしていた。

(反聖戦の系譜・十章 完)

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 ――これはまったくの偶然であるが、この頃、シアルフィの地下闘技場に突如としてスーパースターが誕生した。
 その圧倒的な強さと貫禄の剣を見せ付けた男は観衆の喝采を浴び続け、後に流星剣との死闘を繰り広げて敗れ去るまで絶対王者として君臨することになる。
 その名はゼウス、"エンペラー"と呼ばれていた。